夜の帳に覆われた公園の、森に囲まれた散歩コースの途中にある小さな広場。中央に鎮座する噴水も今は止まり、囲いの中で夜空の色を吸い込んだ池が東に浮かぶ赤と青の双子の月影を受けて揺らめいている。
 噴水池を眺める位置にあるベンチには、一つ人影。
 ――パキンと、小気味のいい音を立ててアンプルの頭部が折られた。
ほほう? ニトロ・ポルカトかね
 ニトロは度肝を抜かれた。
 『天使』を使うにあたって心構えはあった。
 というか今更『天使』を見たところで前回のように平常心を失くさぬ自信があった。
 あれから一年、本当に色んなことを経験してきたこの度胸、各方面に対してそれなりの耐性を得てきたのだ。それがどんな異様な生命体(?)相手であろうと、一度遭遇した相手であれば問題なく応対できるはずだった。
いよっ
 しかし、折られたアンプルの中から飛び出てきた小さな蛍光緑ネオングリーンの手。アンプルの縁を掴み、
こらしょ
 雑に粘土で作った人形のようなソレが、アンプルから出るやちょいとばかりに浮かび上がり頭に刺さった表に『天使』裏に『元祖!』と書かれた旗を風もないのにはためかせるソレが、ぼんやりと発光するソレが!
ぃよう、ムッシュー・ポルカト。会えて嬉しいゼイ
 ぴっと片手を挙げて、相変わらずのフランクな調子で、まさか開口一番自分の名を呼んでくるなどとはニトロには考えられようもなかった!
「んな……」
 目を丸くするばかりのニトロの口を、身に染みついた癖が動かした。
「何で知ってるんだ、俺を」
さあ?
 一瞬にして、ニトロの動揺が消えた。ふとまた『天使』を潰しにかかりそうになっていた衝動を納め、聞く。
「さあ、って。今お前俺の名前をフルネームで正確に言っただろう」
細かいことにこだわるなムッシュー・ポルカト。俺っちは全は一で一は全なのさ
「……それは、お前ら『天使』は全て一つの存在ってことか? それとも情報を共有しているってことか?」
さあ?
 『天使』はニトロの鼻先に浮かびながら、腕を組んで首を傾げる。またまた『天使』を潰しにかかりそうになっていた衝動を抑えて、ニトロは聞いた。
「とりあえず……それじゃあとりあえず、聞くけどさ。もしかして、今お前の仲間がやらかしてるとんでもないこと、知っている?」
おう、楽しそうで羨ましいんだ。だからヘイ、ムッシュー。俺っち達もごきげんに楽しもうゼイ
 くるんと腰をくねらせて『天使』が言う。ニトロはそこはかとなく苛立ちを覚えながら、努めて気を鎮めて言葉を継いだ。
「楽しむかどうかはまだ後だ。知っているなら教えて欲しいんだけど、あいつはあとどれくらいで時間切れになるか判るか?」
知るわけねえぜ、ムッシュー・ポルカト
「……全は一、一は全なのに?」
おうよ
「お前のお仲間、楽しそう?」
羨ましくってよう。俺っちも早くお楽しみといきてえのさ。ムッシューいつまで俺っちをじらすつもりだい? さっさと飲んでくれ。一緒にハイになろうぜぇ?
「……で、あいつのタイムリミットは?」
知るか
 ニトロは頬を思い切り引きつらせ、やっぱりその粗雑な造型の頭を一発ぶん殴っておこうかとも思ったが、辞めた。有益な情報が得られるならまだしも、この調子だととりとめもないグダグダ漫才になりそうだ。
「……」
 『天使』はくるんくるんと腰を回している。ニトロはため息混じりに言った。
マジカル
 『天使』が、ぴたりと動きを止めた。
カプセル
 ニトロの『命令』を受け、『天使』はぴしっと姿勢を正した。それからしゅるしゅると小さくなりながら、姿をカプセル剤へと変じていく。
 アタッシュケースに収められていた板晶画面ボードスクリーンに記録されていた『天使取扱説明書』。ハラキリが簡潔にまとめてくれていたそれに記されていた『使用方法』の一つだった。
 ――「すぐに使用しない場合は、液体・ガム・ゼリー・カプセル・粉末など好みの形態で待機させられる。命令する時の合言葉は『マジカル』。(あまり開封から命令までに時間を置いたり拒絶反応を見せると『天使』が焦れて無理矢理使わせようとしてくるので注意)」
 頓珍漢な会話をしてくれていた『天使』が命令には機械的に従ったのに、ハラキリがこれのことを『道具』と言い切っていたことをニトロは思い出していた。
 そして、もう一つ、思い出す。
(そういえば)
 箇条書きになっていた説明の第一項目には『取り合うな』と書いてあったっけ、と、ニトロはせっかくのハラキリの心遣いを自分の悪い癖で台無しにしていたと苦笑した。
 変形が終わる頃を見計らって差し出した彼の掌に、どういう原理で浮いているんだかカプセル状になった『天使』が落ちる。
 半透明の基剤の中には、濃縮された蛍光緑ネオングリーンが充填されていた。腐りかけた藻を重ねた後ろから強烈なライトで照らせばこんな色になるかもしれない。
 どんな形になろうが口に入れにくいのだけはそのままなのかと嘆息し、ニトロはカプセルを手の中に握り込んだ。ハードカプセルの手触りが、『命綱』の強度を感じさせてくれる。
「……」
 いい空気だと、ニトロは緑豊かな公園の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 中心街からも郊外からも離れた公園の深部は本当に静かで、時折そよ風が枝葉の合唱を促すくらいで、心地良い。
 広場を囲む森の向こうには、赤と青の双子月の下にスライレンドの町明かりがぼんやり見えた。赤と青……二つが混じり合う紫の月光が、その町明かりを包んでいた。
 アデムメデス人に見られる黒紫の髪。
 それは、太古の神話では月光を寄り合わせて作られたのだという。遺伝的に受け継ぐ者は数千人に一人いるかどうかだが、とはいえ物珍しいというわけではない。無論、それを持つ一族がこの星で最も有名であるがために。
 紫の月光に包まれたあの町は、今、その光から作られた髪を持つ大バカ女の支配下にある。
 願わくは、親友が勝利し、お互いに狂気の王女の戒めから解放されたいものだ。
「主様」
 耳元の襟にある小さな通信機から、芍薬の声が流れた。ニトロはベンチに腰掛けたまま応答を返した。一拍を置き、芍薬が報告を上げてくる。
「敗北」
 それは苦々しい声だった。
 怒りと、失望と、元マスターへの心配、そしてこれからの不安がない交ぜになっている、苦しそうな声だった。
 ニトロは胸を張り裂きそうな感情を何とか落ち着かせ、まず確かめねばならぬことを訊ねた。
「安否は?」
「不明。トニカク『天使』ヲ使エト、撫子オカシラガ」
 彼は沈痛に黙し、しかしそれも一呼吸の間に押さえ、
「了解」
 短く答えると、次の言葉を継いだ。
「それじゃあ、ここからは話した通りに」
「承諾」
 芍薬が不安げに、それでも力強く了解を返してくる。
 通信が切れる音を耳にしてから、ニトロは掌のカプセルを躊躇なく口に含んだ。そのまま飲み込まずに頬の裏に寄せ、立ち上がり、ただ――待つ。
 待ち人は、さしたる時を置かず現れた。
 真正面、噴水池の縁に人影が忽然と。
 広場には明かりがない。開園時間を過ぎた今、町寄りにあるレストラン等の一部施設を除き公園の火は全て落とされている。特に夜行性の動物も存在する奥側の森林部に置いてこの時間、特別なイベント週間でもない限り光が灯されることはない。
 なのに、彼女のドレスは光を集めて輝いていた。
 先ほどまでのタイトな白い服とは違う、見た目にも可憐で、ウェディングドレスを連想させる純白の衣。どこかの店から持ってきたのか、それとも『力』で作り出したのかは分からないがサイズもぴったりだ。
 それをニトロは、似合っていないな――と思った。
 いや、身形格好は似合っている。見た目は申し分ない。だが、何かが違う。何か……ティディアにドレスを合わせたのではなく、ティディアがドレスに強引に合わさせている、そんな印象を受ける。
「そうかな、そんなに似合ってないかな」
 噴水地の縁に腰掛けたまま、ティディアがドレスをつまんで言った。
 ニトロは、彼女が思考を読むことをもう怒りはしなかった。
「ま、別にいっか」
 つまんでいた生地をひらりと放し、やけに陽気な、どこかおどけた調子でティディアは言う。
「どうせ脱ぐなら何を着ていても一緒だもんね?」
「……」
「そうだ。似合ってないなら破いちゃってよ。乱暴に。私、ニトロに脱がされたい。もちろん下着も……」
 ニトロは一歩踏み進めた。
 緊張に乾き出した口がつばをなくす前に『カプセル』を飲み込む。ごくりと嚥下の音が嫌に鳴り、それを聞きとめたティディアが瞳に星を浮かべた。
「あ、興奮しちゃった? あ、もしかしてニトロそういうの好きなのね? いいよ。我慢できなかったら今ここでそうしても。そしたら二人の初めては野外ね。やん、ちょっとアブノーマル? 興奮しちゃう!」
 ニトロは数歩の間を詰めながら、眉をひそめた。
(……何だ?)
 違和感が、強く、心に鳴り響いている。
 目の前にいるティディア。
 そういえばドレスの淡い光に照らされる顔には表情が戻っている。それはころころとよく表情が動く見慣れた王女の顔だった。演技にしろ、素顔にしろ、様々な彩りを見せる『相方』の顔だった。
 だが、何かが違う。
 何故か、さっきまでのあの無表情なバカの方が『ティディア』だと、そう素直に思える。
「やー、私はティディアよう。ほらニトロ。私をよく見て? 私は、あなたの、可愛いお姫様」
 ニトロは足を止めた。

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