すぐそこに、ティディアが浮かんでいた。その手が額に触れようと伸ばされている。戦慄にハラキリの体が震えた。その手に触れられるのは危険だと直感し、それと同時に危機を悟った体が彼女の『攻撃』を避けようと動く。
「だからいいの」
しかし、動いた先にティディアも動いてきた。逃げられない。彼女の掌がハラキリの額に触れる。何か……異常な『力』が、その頭蓋に浸透する。
「――っ!」
ハラキリは――悲鳴を上げた。
「 ぎゃ あぁああ!!」
先の『捕縛システム』を上回る衝撃に悲鳴を上げた。
息ができない。
全ての空気を搾り出されてなお止まらぬ悲鳴が喉を破ろうとする。
激痛が!
この世とは思えぬ激痛――ティディアの『力』が体内で爆発し、収縮し、炸裂し、直接剥き出しの神経を焼けたドリルで「 !!」かき回されている方がまだマシだと思える痛みが――――!!
( !)
撫子の声が脳裡に響いた。
何を言っているのか、ハラキリには聞こえない。
( !!)
撫子の声が脳裡に響く。
ハラキリの脳は、それを理解することはできなかった。
( !うふふ、殺さないったら。心配性ね、撫子ちゃん)
撫子の声が響き、それを断ち切ってティディアの声が脳裡に響いた。
不思議と、彼女が何を言っているのかは解った。
(……殺さない?)
死を間近に感じる痛みの中、ハラキリはふと痛みが消えていることに気づいた。
――いや、違う。
脳が、痛みを感じることを止めていた。
麻痺したのか、これ以上はショック死すると自己防衛的にそうしたのかは判らないが、覆面の中に反吐を吐き、地に突っ伏した状態でハラキリはそれに気づいた。
「そうよう、殺さない殺さない。ハラキリンはたった一人のお友達」
ハラキリは脱力して動かぬ体を懸命に動かそうとした。と、外から別の力が加わった。それは彼の希望通り、その体を仰向けにする。視界に、逆さまにティディアの顔が入り込んできた。
「お友達だから、赦してあげるの」
ティディアはハラキリの頭側に立ち、彼を覗き込むように見下ろしていた。
「良かったね。あなたがハラキリ・ジジで」
アデムメデスの王女を務める友人は、目を細めていた。笑顔で、あなたがハラキリ・ジジでなかったら殺していたと、そう言っていた。
「……お
ぼそりと、朦朧として途切れそうな意識を懸命に立ち直らせ、ハラキリはかすれた声で言った。
「駄目ですよ」
その瞳のエメラルドグリーンの輝きが次第に失せていき、それに比例するように、その双眸から
「これ以上は、フォローも、できませんよ」
涙は全て流れ落ちたかと思うと、覆面をすり抜け『雑に粘土で作ったような緑色の人形』と現れた。それはティディアと目が合うと、一つ身震いし、関わり合いになりたくないとばかりにそそくさと天に消えていった。
「だから」
「何でフォローなんているの?」
ティディアは陽気に問うた。それなのに彼の答えを待たず、その瞳にキラキラと星を散らばせ夢見心地に声を弾ませる。
「私、これからニトロにエッチしてもらうの。
ニトロもそれを待ってるの。
ニトロ、絶対めろめろになっちゃうんだから。
そして私をうんと愛してくれるの。
きっと私はとろとろにされちゃうわ、きゃっ。
ホテルも予約してあるのよ? 運命的なの。
婚姻届ももう少しで完成するし、ちょっと前借りの初夜みたい。
ん? あ、二人が初めて結ばれる夜だからこれも正真正銘の初夜でいいじゃない。
初夜。初夜! 何てロマンチックで甘美な響き――ああ! 盛り上がって感じちゃってどこまでも!!」
自らの肩を抱き、ティディアは感じ入ったように身を震わせた。
「だから……ね?」
ティディアは一歩退って、ハラキリの視界から消えた。それから膝を突き、にゅっと再びハラキリの目に戻ってくる。
その顔は、一瞬前とは打って変わって表情をなくしていた。無表情にも近い静かな顔でじいっとハラキリを見つめ、やおら、彼女は微笑んだ。
それは蠱惑の笑みだった。
多くの者を虜としてきた微笑。しかし、ハラキリは底冷えのする悪寒を感じた。彼女の瞳孔の奥では黒紫色の炎が
――ティディアは、ハラキリの額にそっと手を当てた。
そして稚児をあやすように優しく撫でて、彼女は言った。
「これ以上邪魔したら赦さない。
いくら友達でも、殺すから」
「……」
『天使』が抜けた今、ハラキリに超人的な体力は欠片とてない。もう体を動かそうとすることもできない。それでも意識が残っているのは幸いだと、彼は思った。
クレイジー・プリンセス――ティディアが秘める狂気を、それを確認できただけでも幸いだと。
それに……
「えへへ、ニトロみっけ」
ふいにそう口にして、ティディアが立ち上がった。こちらに一瞥をくれ、ひらひらと手を振ったかと思うとその姿が掻き消える。
(……完全に、キレた)
独り取り残され、冷たいアスファルトに横たわり、力なく夜空を見上げながらハラキリは思った。
意識を保てていて本当に良かった。
彼女の狂気を確認でき、それに……
ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、誰にも、あるいはニトロにすらも見せているようで見せない本心――そこにある想い人への本当の感情を知ることができた。
……今のティディアが、真に理性のトんだ状態だ。
彼女は、彼女がしようとすることをすれば一体どうなるか完全に判らなくなっている。『それでも止められない』ではない。『何でフォローなんているの?』――止めるつもりが微塵もない。ただ己の目的が必ず叶うと夢に見て、その達成へと無邪気に突き進んでいる。
(ああ……)
『仮説』は正しかった。そう確信する。
これまでの姿は中途半端な『変身』。それは彼女の理性が、あるいはもう一つの本心が作り上げていた姿だ。
( リ様! 応答ヲ! ハラキリ様!)
ふいに、撫子の声が戻ってきた。
ハラキリは即座に応えた。
(芍薬へ至急連絡。彼に『天使』を使わせろ)
( スデニ。ニトロ様ハ準備ヲスマセ、待機シテイマス)
半拍を置いて返ってきた言葉に、ハラキリは安堵した。
撫子の対処の早さに感謝する。
ニトロの、賢明な判断にも。
それならば、まだ、希望はある。あのティディアには『天使』の力を得たニトロでも敵うまいが、少なくとも時間稼ぎにはなる。
(残り時間は?)
(『フルタイム』デアレバ、オヨソ40分デス)
足りないなと、ハラキリは思った。
ニトロの『天使』持続時間は、推定25分。ティディアのタイムリミットが迫っていればいいが……あの様子だと、フルタイム完走してもおかしくない。だとすれば『ニトロ』が負けなかったとしても、15分の余裕がある。事に及ぶ時間としては十分だ。
「…………」
ハラキリが覚悟を決めた時、空に一台の
車内からは二体のアンドロイドが飛び出してきた。片方は無数のアンドロイドの
(ヴィタさんはもう着いている?)
口を動かすのも辛く、ハラキリは覆面の機能を通して撫子に問いかけた。
撫子は迅速にマスターの着る戦闘服の機能に干渉してバイタルサインを得、メディカルアンドロイドで直接肉体を確かめながら答えた。
「ハイ」
(ピコポット辺り、持ってきているかな)
「――ハイ」
(借りる。そう伝えてくれ)
「……」
(回復次第、もう一度行く)
「……敵イマセン」
(予備は一本ずつ持ってきてあるだろう?)
「危険デス」
撫子の声は、押し殺されていた。
『天使』の使用上の注意にはこうある。
――「相性の良くない者が連続使用した場合、とっても痛い副作用が出ます。また、相性が良い者でも、お腹が痛くなる可能性があります」
――「適量以上を服用した場合、一時的に通常の数倍の効果が期待されますが、その代わりどうなっても知りません」
当然、ハラキリもそれを頭に入れてある。
そして彼の『天使』との相性はけして良いとは言えない。たいした『変身』もできず、ニトロやティディアのような理不尽な力を得ることもなく、得られるのは『力』を見る特殊な瞳と単なる基礎体力の超人化。
それなのに『天使』を連続使用し、あまつさえ二重服用をすればどうなるか……
「承知デキマセン」
撫子が、マスターの『自殺行為』をどう思い、どう言うかなど無論ハラキリは解りきっていた。彼は撫子がそれ以上の
(それでもだ。何としても、ニトロ君を無事に。何としても、お
強い、強い意志で。
『仮説』が正しかったと確信したからには……ニトロの身を守るだけでなく、ティディアのもう一つの本心も、守ってやらねばならないと思う。
(拙者は、二人の、友達だからね)
心情ごと送られてくるハラキリの言葉。
しばしの沈黙を挟み、撫子は言った。
「カシコマリマシタ」