「!?」
 ハラキリは即座に身構えた。
 捕縛した敵は……ずっと『結界』に囚われたまま、今も悲劇の女性のごとき姿を晒している。今も、これまでも、
「すっごく痛かった」
 視野に捕らえ続けていたティディアの動きは止まっている。
 膝を地に付き手で耳を塞ぎ、激痛に背を弓なりに反らし天を貫く悲鳴を上げる一個の彫像としてそこに居る。
 それなのに、彼女の声が聞こえる。
 もしや……いや、まさか。
 ティディアを捕らえたと思ったのは、『幻覚』だったのだろうか。
(撫子)
 覆面の脳内信号シグナル転送装置を通して撫子に問う。
(現実。システム正常。目標ニ動キ無シ)
 端的に情報が返ってくる。
 システム正常、目標に動き無し、それなのに、またもティディアの声が辺りに響く。
「私を痛くしていいのは、ニトロだけなのに」
「!」
 ティディアの体に、ひびが入った。『結界』の中で苦悶に喘ぐ王女の体を真っ二つに分けるひびが。まるで彼女が本当に彫像であるかのように、ピシリと音を立てて。
「撫子!」
(システム正常!)
 撫子が驚愕の声を返してくる。ハラキリはとにかく大きくその場から間合いを取った。
 ティディアのひびが深さを増している。
 ひびはやがて溝となり、溝は次第に幅を広げ、そして――
 ティディアの中から、ティディアが現れた
「っどーーーーん!」
 薄い羽衣のような……どことなくウェディングドレスにも似た服を着た王女が、苦悶のサナギを煩わしそうに吹っ飛ばして出現した!
「はいっ」
 『結界』の中で平然と動き、髪の色は相変わらずだが表情を取り戻した顔に愉快気な笑みを乗せて、
「ボンッ」
 ぱちんと指を鳴らすと同時、その場にいたアンドロイド全てが爆発した。『結界』を制御していたアンドロイドも内部から破壊され、彼女の周囲で動きを止めていた塵芥が一斉に地に落ちる。
「さらに〜ぃ」
 ぐるりと周囲を見回して、ハラキリが何をしようとするより早くティディアは畳み掛けた。
「危ないのぜーんぶボンッ!」
 ぱんとティディアが手を打つ。近場で、遠くで、爆音が鳴った。
全滅!)
 撫子の悲鳴が絶望的な戦況を伝えてくる。
 しかし、その報告から与えられる衝撃などすでに取るに足らぬ事であった
 ハラキリは……眼も険しくティディアを睨みすえ、肌を粟立たせていた。
 彼のエメラルドグリーンに輝く瞳、そこに映るティディアの姿――
 彼女の体は、もう溢れ出す『力』を纏ってはいない。
 太陽と黒紫のせめぎ合い、葛藤にも思えたそれももはやない。
 ただ、その力全てが、凝縮し、圧縮し、ティディアの血肉に融合していた。
 数万匹の大蛇が蠢く洞穴を覗き込んでいるような――あるいは本能的な恐怖が、ハラキリの脳幹を震えさせていた。
「ハラキリ君」
 足に槍を刺したまま、ティディアが歩み寄ってくる。見れば彼女は素足だった。純白のドレスから艶めく太腿を抜き出し、静かに、荒れたアスファルトの上を苦痛も見せず足音も立てずに進んでくる。一歩進むごとに槍が錆び、朽ち、やがて風化して消える。
 槍が消えた後、その足には傷跡の一筋すらもなかった。肌を透く静脈の青が儚い美しさを見せ、そして、踏み込む足に込められた『力』の厚さをハラキリに伝える。
 ハラキリはこのまま接近されるのはまずいと、今一度間合いを広げようとした。無駄な動きを一切なくしたアンドロイドに予備動作すら悟らせない体捌きで後退しようとした。
「!?」
 だが、その瞬間、ティディアに背後から抱き止められていた。
「お・し・お・き」
 首元で囁かれ、ハラキリは反射的にティディアの足を踏みつけた。そして彼女を場に縫い止めたまま腹に肘をめり込ませようとして……空振る。
「んもう、女の子のぽんぽん狙うなんて悪い子」
 ティディアは、ハラキリの目前にいた。ウィンクをしてハラキリの頬をつつく。
「お姉ちん、ぷんぷんしちゃうぞっ」
 やけに脳天気な口調で彼女は言う。普段、ハイテンションの時ともまた違う調子で。
「人の恋路も邪魔してくれちゃうし。
 あ、そうだ! だったらハラキリンは――」
 ハラキリの視界の右隅に、何か巨大なものが現れた。
「――!」
 ハラキリはそれが何か悟るや、身を翻し――
「馬に蹴られちまえ!」
 馬の後ろ脚が、ハラキリめがけて跳ね上がった。前触れも無く現れた白馬。その蹄がハラキリの肝臓めがけて、跳ね上がっていた!
「ぐぁ!!」
 辛うじてハラキリは胴と蹄の間に右腕を差し込んでいた。だが、そのガードは何の意味もなかった。馬というには強過ぎるパワー。一馬力など遥かに超えたエネルギーが彼の肘を砕き、さらに下方から斜めに突き上げ抉りこむような蹴り足が素晴らしい角度でアバラを折り、肝臓レバーを潰しにかかってくる。
 ハラキリは威力を軽減しようと蹴りの『力の向き』に沿って飛び退すさった。彼の跳躍力とその蹴りの力が合わさり黒衣の体躯が宙を舞う。
(――まさか!)
 変貌したティディアの様子、ハラキリの脳裡に『最悪の可能性』がよぎった。『天使』の回復力で骨を治しながら着地し、ティディアと馬がいるはずの方向へ目を向ける。
 しかし、そこには何もいなかった。
「こっちこっち」「こっちこっち」
 声は右と左、両方から聞こえた。
 ハラキリは迷わず何もない前方に走った、走って、眼前に透明な質量エネルギーがあることに気づいた。
「――な!?」
 透明な壁。
 その存在に気づいたハラキリは踏み出していた足に渾身の力を込め、地を進行方向とは逆に踏み蹴った。前方へ推進する慣性を強引に潰し、重心を巧みに操作して停止の助力とする。
「ちぇー、失敗かあ。つまんなーい」
 どうにか止まり切ったところにティディアの不満が浴びせられる。背後から。ハラキリは振り返り、彼女の姿を視認するや――横に跳んだ。
 一瞬後、彼がいた場所をティディアのすぼめた口から吹き出された火炎が包み込んでいた。恐ろしい熱量エネルギーが魔女の吐息とともに吹きつけられ、その場のアスファルトがふやけていく。
 ハラキリは炎の熱が優れた耐火能力をも誇る戦闘服を超えて伝わってくるのに寒気を覚えた。炎の向きが変えられることを警戒し間合いを広げようとするが、しかし、息が切れたか炎が気管に入ったのか、黒煙を吐いて咳き込み出したティディアを見るやその隙を突こうとつま先に体重をかける。
 一気に駆け寄り、意識を断つ。
 太腿、ふくらはぎ、足のばね、膝の力を抜き体が前に倒れる力も推進力に加え脚力という脚力を爆発させる。
 そして彼は、苦悶に喘いだ
「ほら、お腹を殴られたら痛いっしょ?」
「……っぁ!」
 駆け出しの一歩を踏み込んだハラキリの鳩尾に、その時、ティディアの拳がめり込んでいた。
 彼とティディアは5mは離れていた。なのに半秒の半ばにも満たない直後、ティディアの右がハラキリをくの字に折っていた。『戦闘服』の衝撃吸収力も、まるで無意味だった。
「さっきのといいさ、お友達のくせに酷いことしゅりゅん、あ、噛んぢった」
 ティディアのおどけた声を聞きながら、ハラキリは歯を食いしばり彼女に組み付いていた。そのまま足をかけ押し倒し、マウントポジションを奪う。
「あらあら、駄目よん」
「?」
 唖然と、ハラキリは口を開けた。
 ティディアを倒したのは、自分だった。即座に彼女に馬乗りになり、その意識を断ち切るため顔面を打ち抜こうと拳を固めてもいた。
 それなのに――
「私の上に乗っていいのはニトロだけ」
 言って、きゃっと照れ笑いを浮かべて頬に手を当てるティディアが……自分に馬乗りになっている。位置が、入れ替わっている!
「それ以外の男は痴漢よこの変態め♪ 知ってる? あ、知らないから変態なのね、じゃあ教えてあげる」
 と、ティディアの表情が一変した。拳を振り上げ眉目を釣り上げ、口から蛇の舌の様な火をちろちろ吐き、叫ぶ。
「痴漢は大罪なり!」
 振り上げられたティディアの拳が、見る間に膨らんでいった。文字通り風船のように、その質感は、岩のように。
「貴女が言うな!」
 ハラキリは絶叫した。足と頭でブリッジし、今にも顔面へ巨大な拳を落としてこようとするティディアのバランスを崩し、俊敏にマウントポジションを返す技術を駆使して彼女から逃れる。
「ゃあん」
 ハラキリに跳ね除けられたティディアが変にいやらしく悲鳴を上げて地に転げる。ハラキリは立ち上がりながら、渾身の蹴りを彼女の頭部へと放った。
 しかし、それはまたも虚しく空を切った。
「ち!」
 ハラキリは舌を打った。
 忽然と姿を消したティディアが『力』を使っているのは明らかだ。なのに、この眼にはその動きの兆候すら見えない。まさか『力』すらこちらに見せぬようにできるようになったと言うのか、それともこの眼でも追いつかぬほどの速度で『力』を行使しているのか。
「痴漢、否。
 私は、愛」
 頭上からティディアの声が降ってくる。
 ハラキリは頭を振り上げ……絶句した。

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