スライレンドは、ひっそりと静まっていた。
 もう何ブロックを走り抜けてきたか分からないが、その間、ニトロは人気ひとけというものを全く感じなかった。
 どうやらティディアが広範囲において『人払い』をしたらしい。道に人はなく、車道を行く車すらない。店の中を覗けば人は皆、眠っている。これまでに見た動いているものといえばファストフードチェーン店のアンドロイドくらいで、それを動かしている汎用A.I.ではマスターたる人間が全て眠りこけるというあまりに不可解な事態に状況を判断できず、哀れにもうろうろと狼狽するだけだった。
「……あのバカ何を考えていやがる」
 ニトロは立ち止まり、つぶやいた。全力疾走に近い速度で走ってきたが、彼の息は立ち止まってそう長い時を置かずに整っていく。日頃の鍛錬の賜物だった。そしてその鍛錬を与える師匠は今――
 一つ、激しい音が聞こえてきた。
「……」
 ニトロは唇を引き締め、静寂に耳を傷めながら歩道に膝を突いた。
 人目がないならここでもいい。アタッシュケースを開き、
「っ」
 慌ててアタッシュケースを閉める。
 バタン! と、思ったよりも大きな音が静かな町に反響して、誰も聞いていないと分かっていながら周囲を窺ってしまう。
「…………なるほど」
 ニトロは、うなずいた。
「……」
 もう一度アタッシュケースを開けて、ニトロは恐る恐る中身を確認した。
 それから今度はそっとケースを閉める。
「なるほど」
 再度うなずき、最後に覚悟を決めて三度ケースを開く。
 そこにはきちんと畳まれた『戦闘服』があった。
 その上には板晶画面ボードスクリーン。画面は縦に二分割され、上には『発信中』と芍薬に現在位置を報せていることを示す文字。下には――
「…………」
 下の画面には、こうある。
 ――「保険の『天使』です」――
 戦闘服の横にあるのは小さなクリアケースで、中身がよく見える蓋の下には、クッションの中に恭しく納められた蛍光緑ネオングリーンに輝く液体を収めたアンプルが一本。
 それを見るニトロの目は、険悪だった。
「……はあ〜」
 彼は深く深くため息をついた。
 こんなふざけた神技の民の品ドワーフ・グッズ、二度と見たくもなかったものだが……
「背に腹は、か」
 できればハラキリがバカ姫のタイムリミットまで時間を稼いでくれるか、それともクソ女にトドメをくれてくれれば最高なのだが――いや、きっとそうしてくれると信じている。
 だが、信じるだけで考えうるあらゆるケースへの準備を怠ることは愚の骨頂だと、それこそ信頼する『師匠』から強く言われていることだ。
 だからどんなに信じていても、あの二人が負けることもちゃんと考えておかねばならない。それは失礼なことではなく、自分の義務として、そして彼への礼儀として。
 ――保険。
 確かに、いざとなれば。
 確かにこれしかあるまい。
 ……いやいや?
 むしろそれどころか、これがあれば
「……」
 ハラキリに助太刀ができると思い立ち、クリアケースを手に取ると板晶画面ボードスクリーン下部の文字が変わった。
 ――「助太刀無用。邪魔です」――
 ニトロは、口を尖らせた。
「……まあ、判るけどさ」
 当然ハラキリは策を立ててきているだろうが、それは撫子との阿吽の連携を礎にしたものであろう。そこに『映画』で見たあの自分、というかあの変態――コミュニケーションの基準が筋肉マッスルで次の行動予測が難解な怪物という不確定要素を割り込ませるのは、そりゃあ邪魔以外の何モノでもあるまい。
 それにこういう時、『守られる対象』が力になれるから・なりたいからとでしゃばると大抵良くない結果に陥るものだ。
 ハラキリの考えは、よく判る。
 しかしこう、もう少し言い方ってものがないだろうか。
 こちらの心を見透かした文面にふくれっ面を晒しながら、ニトロはとにかくと服を脱いだ。いくら人目がないからといってこんな町中で着替えるのは羞恥を覚えるが、それを気にしている暇はない。
 ボードスクリーンの芍薬への『発信中』の文字が変化していた。『そこにいて』と。
 それまでに着替え終える。
 それまでに、心を整える。
 それまでに……
 ――遠くで爆音が聞こえた。
 それまでに、戦っている友が示した『保険』のために覚悟を決める。
「主様!」
 すぐに芍薬はやってきた。
 空から、一台の装甲飛行車アーマード・スカイカーと共に。

→1-10bへ
←1-9cへ

メニューへ