彼は鍛えこまれた体躯を黒い『戦闘服』に包み、目の部分だけをあらわとした覆面で顔を隠していた。どうやら覆面も『戦闘服』の一部らしい。インナーから伸びた布が形を変えてそれを成している。
「ハラキリ君……祝辞には、まだ早い」
 ティディアに睨みつけられても、ハラキリは近所を散歩する調子で二人へ歩み寄っていく。
「いえいえ、最高のタイミングでしょう」
 と、突如として、ニトロの視界をハラキリの体躯が埋めた。まだ十数mは離れていたはずの彼が、飄々と王女へ言葉を返すや否や――ニトロの目前まで迫っていた。
「!?」
 ニトロが瞠目していると、不意に体に負荷がかかった。何事かと思う間もなく気がつくと彼はハラキリに『お姫様抱っこ』をされて、ティディアから解放されていた。
動かせますよ
 唖然とハラキリを見つめているところに言われ、ニトロは試しに足先を動かした。
「あ、ああ。動く」
 ハラキリはうなずくと彼を降ろした。
「逃げてください」
 ティディアに目を残したまま――よく見れば覆面の目出し部分も一目では判らぬほど透明な保護膜で守られている――ハラキリが指差した先には、いつの間に現れたのか子どもサイズのアンドロイドがアタッシュケースを提げて控えていた。
「あれを持って」
「分かった」
 ニトロは躊躇うことは無かった。ハラキリに従わぬ愚は、彼の『弟子』として犯す過ちではない。
「でも――」
 大丈夫なのか? と確かめようとして、ニトロは息を飲んだ。
 ちらりと一瞥してきたハラキリの瞳、その虹彩がエメラルドグリーンに輝いていた。
「『天使』、ですよ」
 ハラキリは悪戯っぽく片目を細めてみせ、それからさっさと行けと手を降った。彼の手は黒地に銀で不思議な紋様を描かれた手袋に覆われていた。それも何かの道具なのだろう。『師匠』は、万全を期して来ている。
 これ以上場に留まっても邪魔になるだけだと確信したニトロは踵を返した。駆け出した彼をアンドロイドが進み出て迎え、アタッシュケースを差し出す。彼は唇を引き締めてそれを受け取った。
「事全テ終ワルマデ、ケシテゴ油断ナサレマセヌヨウ」
 アンドロイドは淡々とした口調で言った。撫子の声だった。
「……ありがとう」
 ニトロはアンドロイドにそれだけを返し、不思議と行く手を妨げようとしない観衆の間を縫ってその場から離れていった。
「まったく……」
 逃げるニトロにちょっかいを出すこともなく、こちらへの警戒を怠らないティディアを前にハラキリは嘆息をついた。
あれが、本当にあなたの望むことですか?」
「そうよ」
 即座に返され、ハラキリはもう一度息をついた。
「ああ、まあそうでしょうね。言い方を間違えました。そうやって無理矢理達成すること、あなたの本当に望むことですか?」
「そうよ」
「なるほど」
 ハラキリは覆面の下で薄く笑った。
 ティディアは不機嫌に、苛立ちが混ざる声音で言った。
「やっぱり……どうしても邪魔をするのね」
「ええ、邪魔をします」
 と、ハラキリの体に目に見えぬ――だが、彼には見える力が襲い掛かった。
「……追わないんですか? ニトロ君を」
 骨を軋ませんばかりの圧力に平然として、ハラキリは一歩踏み込んだ。
「テレポーテーションか、何か。使えば彼の下へすぐにでも行けるでしょう。それともそれを使うには何か条件が必要なんですかね」
 一度間を置き、ハラキリは、問うた。
「あるいは、拙者に止めて欲しいと思っているんですか?」
 ティディアは……答えない。
 ハラキリは構わず、言った。
「あなたの言動には、矛盾が見られる」
「……矛盾など、ない」
「普段であれば。ですが『天使』の導きを得ている身としては、不自然だ」
「人は不自然なもの」
「確かに一つの個性は多くの矛盾を抱えながら成り立っていましょう。ですがそんな問答はどうでもいい。今重要なのは、貴女がニトロ君をどう思っているかです」
「……」
「先ほども申し上げましたが、こんなことでニトロ君が貴女を愛するなどあり得ない」
「さっきも言った。それでも――」
 その言葉をハラキリは待っていた。ティディアが言い切る前に、『仮説』をぶつける。
「止められない。それでも。それでも! それは、相反する気持ち、止めたいと思う気持ちが前提となった言葉です。自覚的か、無自覚か、それは解りませんが、少なくとも貴女は、貴女の中にある矛盾を解っている
「……」
「そして今。
 そして今も」
「……」
「貴女はニトロ君に『愛され』に行かず、拙者はこうしてお時間を頂けている。
 ……何故です?」
 ティディアはハラキリをじっと見つめている。
 周囲では『舞台』の観衆達が姿を消し始めていた。車に乗っていた人間も外に出て、全員が、この場から離れていっている。ティディアの傍にいたパンツスーツの女性も、王女に完成間近の婚姻届を差し出して去っていった。
(人払い……か)
 人的被害はニトロに怒られるどころじゃすまない。これはそう思っての『準備』か。
 婚姻届を懐へしまいこむティディアを前に緊張感を高めながら、なおもハラキリは続けた。
「ここに来るまでに、見ましたよ? この町がどうなっていったか。それなのに、奇妙なことに拙者には貴女の『手』は及ばなかった。絶対に邪魔してくると解っているはずなのに、それなのに確実に邪魔しようという人間だけは見逃され、今もこうしてここにいられる。
 何故です。
 ……考えられるのは一つだけだ。貴女は拙者に止めて欲しいと思っている、それしかない。そうでなければ拙者が何事もなくここへ来ることは敵わなかったでしょう。違いますか? 今こうして貴女と対峙することも許されなかったでしょう、違いますか?
 おひいさん――」
 ハラキリはティディアに向きながら、目に見えてそこにいる友人にではなく、目に見えぬその身の奥へと強く言葉を投げかけた。
「おひいさん。
 止めて欲しいなら、もっとそうお思いください。『天使』は最も強い目的に引かれる。それでも止め切れなくても、『貴女』を弱めることはきっとできる。そこからは拙者がお助けします。全力で止めてみせます。
 必ず、友達として」
 そう言ったのと同時だった。
 『舞台』を作り上げていた車の一台が、ハラキリに向けて飛来した。真正面から飛んでくる普通車を、彼は一歩踏み込み、右腕を突き出し、片手で受け止める。
(……『友達攻撃』の使い所、また間違ったか……?)
 憮然とするハラキリの眼前で、不気味な音を立てて軽自動車のボディが『崩壊』した。彼の手を包む、銀で不思議な紋様の描かれた手袋から現れ出でた黒と銀に輝き蠢く微細な何かが車体を浸食し、車体を作り上げている合金を別の一つへと形を変えていく。その変化も二つ息をする間に終わり、三つ息をする頃には微細なそれらは再び手袋の中に戻っていた。
友達なら、祝福してくれる。少しだけそう期待していた。だけど裏切られた。
 ニトロを追っても、あなたはまた来る。また、邪魔される。それが嫌なだけ」
 その光景を焦点合わぬ双眸で見つめていたティディアが、ようやく『答え』を返した。声には失望と怒りと唾棄するような嫌気があり、それは明らかに敵意を示していた。
「だからここで、排除する」
 ハラキリは、あからさまに嘆息してみせた。
「それでは先ほども申し上げた通り」
 その精神が研ぎ澄まされる。
「そして、貴女の仰る通り。
 これより拙者は排除されるべき敵となりましょう」
 皮肉を飛ばすハラキリの右手には、今や見るからに頑強な鎖があった。長さも数mあろうか。その鎖が触れるアスファルトにも変化があり、やがて鎖の先に、アスファルトを凝縮して作り上げられた『分銅』が現れる。

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