いかほどの時を、そのままでいただろうか……
ニトロは、ぽかんと口を開けていた。
呆けて……いた。
魂の奥底から吹き上げてきた絶叫をそのまま放とうとした瞬間、突然頭蓋の内にティディアの声が響いた。短く、その単語が、テレパシーで直接差し込まれた。
『馬鹿力』
それを意識してしまった直後、体躯を突き動かそうとしていた力が霧散してしまった。
それは自分では、ただ普通に自分の力だと思っていたのに……。
『馬鹿力』と――自分に特別な力があると――それを自覚させられた途端、その普通の力だと思っていた力が、初めからそこに無かったかのように掻き消えてしまった。
自分の、自分自身のただの力が。
それこそ、水を飲むためにコップを持ち上げる……それくらいの感覚が、当たり前の感覚が――刹那の間に、ゼロとなってしまった。
これまでに体験したことのない、得体の知れない気持ち悪さだけを残して……
ふと額に触れるものがあって、ニトロははっと我を取り戻した。
「こんなに簡単なことだったなんて」
唇にではなく額に口づけをしてきたティディアが、微笑んでいた。
無表情ばかり見ていたから、悔しいことにそれがとても美しく見える。
だが、ニトロは、その美しさにかつてない恐怖を感じていた。
致命的な情報をティディアに与えてしまった。
それを理解し打ち震えていた。
「さあ」
ティディアは無表情に戻り、もはや機械のそれにも思える瞳を婚姻届に戻した。
「婚姻届、完成させましょう」
冷たさを増しながらひたすら燃え上がる情熱が彼女の中に
「完成させて、提出したら、エッチしましょう」
ニトロは、総毛立った。
「いっぱい愛してね」
「……待て」
「いっぱい、大好きだから」
「待て」
「ああ、やっと、やっと、ニトロが手に入る」
「待て!」
彼の声を掻き消すように、観衆から拍手が沸き起こった。歓声が轟く。おめでとうと、幸せにと、皆が口々に叫んでいる。結婚パレードの予行演習だとでもいうのか。ティディアが操るこの喝采全ては、無意味で空虚な騒音でしかないというのに。
「ティディア! 待て!」
「嫌」
容赦のない否定だった。
ティディアはニトロの膝を抱える右腕を抜いた。ニトロの膝裏には不可視の腕が代わりに差し込まれ、ティディアに片手で『お姫様抱っこ』をされている奇妙なポーズとなる。
同時に、観衆の声がぴたりと止んだ。これから行われる神聖な儀式を邪魔しないと、そう言うように。
「これは愛の力の勝利」
すっと立てられたティディアの人差し指の腹に一筋の傷が生まれた。流れ出した血を親指に擦りつけ、彼女はそれを婚姻届の自分の名をサインした横に押し付けた。
「譲れない」
「何が愛だ『天使の力』の間違いだろうが!」
怒声を上げるニトロの右腕が持ち上がった。いや、持ち上げられた。ティディアの不可視の手は懸命に抵抗する彼の拳をあっさりと開かせ、その親指に彼女が己の血を擦りつける。
「やめ――!」
ニトロの拇印が、婚姻届に成された。
書類の空欄は残すところ二つ。
保護者の署名欄と、今しがた拇印の押された横……『ニトロ・ポルカト』と署名する欄。
その一枚の紙の、その小さな空欄に名を記せば、人生が決まる。
記してしまえば、後はもうこの名が変わる瞬間を待つことしかできない。
公に名乗る姓は、フォン・アデムメデス・ロディアーナと記されている。
ニトロの目に涙が滲んだ。
「さあ、ニトロ。サインを」
ティディアが歓喜の声を上げる。スライレンドの役所のバッジを付けた女性が、ペンを差し出してくる。
ニトロの右手はそれを素直に受け取った。
「 ティディア!!!」
ニトロは叫んだ。力と激情のあらん限りを込めて、叫んだ。
そして――
「これが本当にあなたの望むことですか?」
その叫びを受け継ぐように、どこか捉え所のない語調が場に現れた。
ニトロが、ティディアが振り向く。
相容れることのない希望の眼差しと失望の視線が一点で交わる。
そこには、『幻覚』と同じように自分達を取り囲む人の間を割り歩み寄ってくる黒衣の男、
「ねえ? お
ハラキリ・ジジがいた。