「ぶ」
ニトロは吹いた。ことさらビックリして、思わず唾を吹き出した。
ティディアの目がランと光り、宙に映像を映し出していた。変態だ。解っちゃいたが堂々たる変態がここにいる!
そして変態が映写するのは膨大なデータで……どうやらティディアは、その『力』を使いハッキングまでやってのけたらしい。それはどこかのホテルの宿泊客名簿だった。
その中に、ニトロに見やすいようご丁寧にもハイライトされた文字列がある。
それは確かに、ちょうど母が自分を受胎した時期として適切であろう年月日に、両親がそのホテルに泊まっていたことを示していた。
「データ管理、しっかりしてて良かった」
「良くねえ! チクショウ老舗ホテルの馬鹿!」
「もう予約も済ませた」
「それより不正アクセス自首して留置場を予約しろ!」
懇願じみた叫びを返すニトロの心中は嵐の真っ只中にあった。恐怖と動揺が渦巻いて、吐き気まで込み上げてくる。
ずっとこいつが傍にいたこと、それに気づかなかった、いや、気づけなかった事実が彼を潰そうとしていた。
姿を見せず、気配すら感じさせずに追いかけてくる。こんな化物を相手にして逃げ切れるのか。いくら芍薬がいても、ハラキリが間に合ってもこんな馬鹿げた怪物をどうにかできるのか。今日こそ、とうとうこの身は、ティディアの毒牙にかかってしまうのではないか――
「……ニトロ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
狼狽するニトロをよそに淡々と事を進めていたティディアが、ふとつぶやいた。
腕の中の愛しい人を見つめ、無表情とは齟齬を生む、はにかむような声で。
「ティディア・ポルカト?」
「どっちも御免だ!」
ニトロは必死に体を動かそうとしていた。
彼は絶望に侵されそうになった思考を即座に切り替えていた。
何を弱気になっているのだ。確かにバカは化物になっている。それがどうした。逃げ切れるのかではない、逃げ切るのだ。諦めてはならない。それだけは、自分から諦めてはならない。少なくともティディアは永遠にこうではないのだ。この阿呆が正気を取り戻すまで逃げ続ければいいだけのこと。そう、それだけのことだ! そうすれば後は何とでもなる。ただ一つ、それまでに『エッチ』だろうが『婚姻届受理』だろうが『既成事実』さえ作らせなければ!
前よりも強い金縛りが、ニトロを締め付けていた。それでも体を縛る鋼線を引き千切ろうと力を込める彼の顔は、赤く紅く染まっていった。
「そんな、赤くなるほど照れないで」
「照れてねぇ! 分かってるだろ!?」
歯を食いしばり力を込めるが、今回はびくともしない。
「ふんぬうぅぅぅ……ぉぉお!」
渾身に渾身の力を込めて脱出を試みるが、どうしても動かない。
(――そうだ!)
焦燥が募る中、ニトロは閃いた。
(あの力!)
ティディア、ヴィタ、ハラキリ。自分よりもずっと強い三人が揃って恐れる己の『力』の存在が、ニトロの脳裡に燦然と輝いた。
(あの『馬鹿力』!)
これまで幾度もティディアの魔の手からこの身を守ってきた力。あの三人が我慢ならない『ボケ』をかました時、何度もしばき倒してきた不可思議な怪力。
自身、それを出した時は大抵頭の中が真っ白か、そうでない時もどうもいまいち記憶がはっきりしないため、どれだけ三人に凄い・怖い・驚異的だと言われてもほとんど自覚していない。だが、とにかくそれさえ出ればどんな苦境も乗り越えられてきたという事実だけははっきり胸に刻まれている、切り札。
(それを出すんだ!)
ニトロは魂に向けて叫んだ。
(さあ! 馬鹿力を!)
必死に力みながら、必死に魂の奥底に――きっとそれは『幻覚』で助けてくれたあの声、あの時救ってくれた自分に向けて、ニトロは懸命に呼びかけた。
(っっっ今こそ!!)
しかし……何も、ニトロに変化は現れなかった。
金縛りにあったまま身じろぎ一つできず。頭は真っ白になってきたがそれは単に力みすぎて頭に血が上り、息を止めていたための酸欠も手伝ってのこと。『馬鹿力』が出る前に鼻血を噴き出しそうな血圧が眩暈を誘発し、限界に達したニトロはぶはあと息を吐き出して力尽きた。
(……なんで?)
朦朧とする意識の中、脱力して後ろに倒れた首は顔を空に晒して、必然的に小憎らしい女の顔が視界に入ってくる。
ぼんやりとしたニトロの脳裡に『?』が重なった。
ティディアの無表情が、初めて大きく崩れていた。
目を見開き、愕然としているようで、ニトロのぐらつく視界の隅では婚姻届を作成するペンの動きまで止まっている。
「……あんらよ」
呂律も不確かに問いかけると、ティディアがうめいた。
「まさか、そんな、簡単なこと?」
ニトロには彼女の言葉の意味がよく分からなかった。何を言っているのかニトロが問い返そうとした、その時――
「うわあ!!」
ニトロは悲鳴を上げた。
突然、全身に千の指に愛撫される感触が襲い掛かってきた。愛撫は無遠慮に所を構わない。体中を隙間無く、それこそ性器にも触れて快感を与えようとしてくる。
「――っ――この!」
ニトロは激怒の眼をティディアに向けた。ティディアは愕然としていたはずの顔を無表情に戻し、目を潤ませ、唇をすぼめていた。
パチン……
ふいに、この場を囲む観衆の一人――屋上にいたあの中年男性が手を叩いた。
パチ、パチ……
それに続けて、逃がすことのできなかったあの女性二人が手を叩いた。
パチ、パチ、パチパチパチパチ――
次第に拍手が広がっていく。
やがてそれは観衆全てに広がり、鳴り響く、乱れ打たれる爆音となって大気を震わせる。
煽り立てるようにクラクションが高らかに鳴り響く。
轟く祝音に後押しされてティディアの唇がニトロに迫っていく。
そしてニトロの、心には――
「わあうわあああ!?」
『幻覚』で味わった感覚が一挙に去来していた。
柔肌を吸い付かせてくるティディア。石鹸の匂いに混じる、彼女自身の色気。ほんのりと桃色に染まる皮膚。性欲を刺激し、寂寞が興奮を高め、生殖器を痺れさせる快感、彼女と一つになれば極楽へ昇天しても味わえない快楽をと誘惑する魔女の瞳、瞳に吸い込まれようとする雄の生理。唇を受け入れれば理性が爆発するという確信――
それら、全てが、奔流、一斉に、
押し寄せて 一度に受け取れる許容値を遥かに超えた情報量神経細胞が悲鳴を上げている、ひび割れてしまう!
だがティディアは与えてくる
ティディアが与えてくる
ティディアは与えてくる 精神を壊しても構わないとばかりに
それこそが目的だとばかりに
ああ! あア!
ティディア!
眼 差しが!!
(――――)
やがてニトロは、霞んでいく視界の中で、鼻先に迫るティディアの唇を――
「フざ……けるな」
食いしばったニトロの歯の隙間から、憤怒が漏れ出した。
「調子に乗るな、」
彼の体の奥底から、心を冒そうとする欲望の奔流を押し返し、灼熱の力が激流となって沸き上がる!
「このクソ痴(『馬鹿力』)―――
?」