ニトロの視界には、白袖に抱えられている己の膝の向こうで騒ぎ立てている二人の女性があった。
会社帰りだろうか、それともこれから夜の街へ遊びに出ようとしているのか。一目に友達関係と分かる彼女らは、目にした当初は肝を潰した様子で言葉を失っていた。それはそうだ。人一人が空から落ちてきて、それをたった一人の女が抱きとめたとなれば誰だって驚く。
そして彼女らは、時を追うにつれて『悲鳴』を上げ出した。
「ニトロ・ポルカト?」
「ニトロ・ポルカト!」
同じ名を確かめ合うように言い合う二人には、有名人を前にした興奮がある。
ニトロは、疑念を覚えた。
女性らは自分の名を呼ぶばかりで、こいつの名を呼んでいない。
いくら空から落ちてくるという驚きの登場をしたとしても、注目は『ニトロ・ポルカト』ではなく自然『ティディア姫』にいくはずだ。何しろ彼女は落下してきた少年を受け止めるという離れ業も見せている。それなのに、ただでさえ稀有な存在感を誇る『ティディア姫』の名が口にされないわけがない。そもそもティディアは自分より先にここにいたであろうに、まずそれについて騒ぎが起きていないことがおかしい。
ニトロは女性らだけでなく、一度……例によって体は金縛りを受けて動かせなくなっていたが、それに抗い動こうとするよりも先に、やはり唯一自由に動いた首をぐるりと回して周囲を確かめた。
(――誰も……)
ティディア、と、呼ぶ者はなかった。
騒ぎは膝向こうの女性二人を震源にして波紋が広がるように急速に大きくなりつつある。それでも誰も『ティディア』と声にせず、『クレイジー・プリンセス』を恐れる気配もない。
おかしいおかしいとニトロが思ううち、ふと、初めに騒ぎ出した女性らが近づいてきた。
ニトロは慌てて声を張り上げた。
「駄目だ! 近づくと――」
彼の警告は、途切れた。関係のない人間を巻き込まぬよう制止しようとする途中でもう手遅れだったことを知り、彼は声を噛み殺すように唇を噛んだ。
好奇に満ちていた女性らの顔が、一瞬凍りつき、その後やけに既視感のある微笑を浮かべて固まってしまっていた。こちらへ踏み込まれていた足を止め、わざとらしいほどの微笑みを浮かべたまま優雅な立ち姿を作っていた。
「――皆!」
死ぬわけではない。命の危険があるわけではない。彼女らを諦めることに後ろ髪を引かれる気持ちを断ち切り、ニトロは周囲へ叫ぼうとした。
「逃げ――」
しかし、また。
それ以上ニトロの口は意味を成す音を作り上げなかった。言葉尻をうなり声に変じた彼は、やおら歯をむき目の上の相貌を睨みつけた。
「巻き込むな」
「祝福は、多い方がいい」
「何?」
ニトロが眉をひそめた時、男性のわめき声が聞こえてきた。首をひねってそちらを見ると、さっき『屋上』で出会った男性がビルから出てきてこちらへ駆け寄ってきていた。
どうやら、落ちていった自分のことを心配して来てくれたらしい。
だが彼もすぐに他の皆と同じく動きを止め、初対面の時点では考えられない微笑みを浮かべてその場で畏まった。
ニトロは思い出した。
その微笑み、既視感があるはずだ。祝福――あの『幻覚』の中で見た祝賀の微笑が、騒いでいた女性らにも屋上にいた男性にも周囲の皆々にも張り付いている。
ティディアが歩き出した。
どこに行こうとしているのかと先を見ると、そこは車道だった。
「っ!」
そして突如として鳴り響いたタイヤとアスファルトの摩擦音に、ニトロは顔をしかめた。
車道には、通常の交通形態はすでになくなっていた。左方にも右方にも車は流れていない。代わりにそこがサーキットになったかのように、何十台もの車が急ブレーキを踏み、エンジンを吹かし、鋭くハンドルを切っている。A.I.が動かしているとしては不自然で荒っぽすぎる、しかし人間が運転しているとしたらドライバーは凄腕か、形も性能も違う車らはやがて互いのボディをかすり合わせることもなく車線に沿って整列した。
ティディアがニトロを抱きかかえたまま車道に入る。
そこには、『舞台』が作り出されていた。
片側三車線、双方合わせて六車線。全ての車線を車が埋めているが、ティディアが歩を進めた場所には測られたように正方形のスペースが切り出されている。全ての車が車線の進行方向も関係なくそのスペースへフロントを向けて、煌々と輝くヘッドライトがその場を白々と照らし上げている。
ティディアのタイトな白服は白光を上げて白銀に輝き、まるで宝石よりも美しい光の粒子を吹き付けたドレスのようだった。
街灯、ビル明かり、ヘッドライトの光を受ける二人の影は八方へ散らばり、さながら影絵の花弁のようにアスファルトに模様を刻む。
広場に現れた王女を囲み
一体どれだけの範囲へ『力』を及ぼしたのか。
ぞろぞろと現れ膨れ上がっていく人の群が、車間を埋め、車上にも立ち、車道だけでなく歩道をも埋め尽くし、ビルの中にいる者は窓に張り付いて、『舞台』の中心で影絵の花の上に在る男女へ祝福の笑顔を向けている。
作り物だとはいえ、ここには祝福だけ、それだけがあった。
……あるいは、これもティディアの本心からの願望なのだろうか。『幻覚』で見せた光景を、まるきり再現してくるなど――
「さあ。持ってきて」
「はい!」
『舞台』の中央で足を止めたティディアが呼びかけると、意志を失った群衆を掻き分けて若い女性が現れた。女性はパンツスーツの胸にバッジを付けていて、手には何やら紙製の書類のような……
「―ィッ!」
それが何かを悟ったニトロの喉が甲高い音を立てた。
この時世、アデムメデスではティッシュやクッキングペーパーのような日用品以外に『紙』を使う機会はそうそうない。昔は『紙媒体』と言われたメディアも今ではデータでやり取りされ、新聞や本はモニター上で見るものだ。メモ用紙とて、モニターに直に文字を書き保存できるようになってからは、さらにA.I.に伝言を頼めるようになってからは急速に廃れていった。今では文字を書くための紙は高級品で、従ってペンも値が張る。
だから、当然『書類』というものもほとんどがデータ上のものだ。
しかし、その中でも特別な意味を持つ書類には、未だに紙製のものがある。例えば出入国の際に身を
婚姻届!
「うわわわわわわ!?」
駆け寄ってきた女性が持っていたものは、明らかに婚姻届だった。胸に輝くバッジは紋が刻まれていて、おそらくはスライレンドの役所関係者か。書類が完成したらその場で即座に提出するつもりか。ティディアは恭しく差し出されたペンを不可視の手を持って取り、女性が下敷きの上に乗せて構える書類に必要事項をさらさらと書いていく。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!!)
ニトロの汗腺という汗腺から嫌な汗が噴き出した。
婚姻届の完成に必要なのは、二つ。
一つは婚姻を結ぶ両者の肉筆のサイン。
もう一つは、両者の、大々々々昔より個人を特定するために使用されてきた――指紋。その拇印。
その二つさえ揃えれば、後は必要事項は二人のうちどちらが書いてもいい。そしてどちらが書いてもいいその必要事項は、見る間に埋まっていく。
(――いや、いや、いや!)
違う! まだ必要なものがあるではないか。自分はまだ十七だ。婚姻には保護者の承認がいる。そのサインが無ければ書類は完成しない!
「そんなもの、ひとっ走り行ってすぐにもらってくるわ」
ニトロの思考を読んで、ティディアが言った。
「もらえるもんか!」
「もらえないと思う?」
「…ぅ…」
彼は、反論することができなかった。
ただでさえティディアに好意的な上、『映画』の経緯を聞いても怒るどころか『お姫様のプロポーズ』を喜んでいたあの両親のことだ。将来の家族が息子のサインと拇印が成された婚姻届を持ってくれば喜んでサインをしよう。例え奇跡的に拒否してくれたとしても、現在のティディアなら無理矢理書かせるに決まっている。
承認をもらえないわけがない。
もし自分が書類作成に『加担』してしまえば、そこで、終わりだ。
……畜生、このバカ女。さっきまで『愛して』と誘惑してやがったくせになぜ急にこんな法的手段を!
「『
ティディアが、ニトロの疑念に答えた。
「……何?」
「ハラキリ君が言っていた。それで思い出した」
「聞いて、いたのか?」
ハラキリとの会話が鮮明に蘇る。ティディアはその時――いなかった。ティディアが現れたのはその会話の後だ。
ざっと、ニトロの顔から血の気が引いた。
「まさか……お前、ずっと俺の背後に……」
「それに、ニトロが産まれるきっかけの町で届け出るのも、運命的」
「――それも読んでいたのか!?」
ティディアの言葉が『両親との思い出』に関わっていることに、ニトロの心胆がこの上なく寒からしめられる。それを、その思い出を思い浮かべていたのも、ティディアが現れる……前。
「いつからいやがった!」
「芍薬ちゃんと電話していた時から」
ニトロはもう顔だけでなく、首まで青褪めていた。どれだけこいつに心を読まれたのかと思うと悔しくてならず、歯痒さと羞恥と怒りと――それ以上の怖気が身を震わせる。
「ついでに、親子二代で同じホテルで仕込むのも面白いかなって、見つけた」
「何?」
一瞬思考が停止していて、ティディアが何のことを言っているのか解らないでいたニトロに、彼女はほらと言った。