「ぅぅぅぅいぃぃぃ……」
 あっと思う間もなく宙に放り投げられ、あっという間に恐ろしい距離を落下したニトロは、空中で仰向けに横たわる己の体を抱いて震えていた。
 永遠とも思える――実際は5秒にも満たなかっただろうが――長い時間を過ごした後、急に落下速度を緩めた体を、本当はすでに『終点』まで落下し自分は死んでしまっているのではないかと思いながら。
「っ、ぃひよおおぉぉぉぉ」
 だが、どうやら生きている。
 自由落下が終わったとはいえこの身は緩慢に、宙を這うカタツムリほどの速度で下降している。嘘か真か死後魂は空へ昇るというから、てことはきっと死んでいない。
 それに何より、体を抱く腕に伝わる己の熱が命の火が消えていないことを教えてくれた。
 硬い地面の代わりにこの身を受け止めた……どうせティディアの力なのだろうが、透明な真綿に包まれているような感触の中で、恐怖に凍結した筋肉がゆっくりと弛緩していき、それに従って脈打つ心臓が再び頭皮の頂点から足の指先まで血を巡らせていく熱が『生』を実感させてくれている。
「おおおおおおお」
 ニトロは、震え続けていた。涙を浮かべてうめき続けていた。
 超高所からの自由落下を経験したのはこれが初めてではないが、過去のそれは『命綱』があってのこと。心構えもあったし、こんな、不意打ちで、しかも――
「うぎゃあ!」
「おうわ!?」
 突如として鼓膜を殴りつけてきた悲鳴にニトロの体が伸び上がる。何事かと声のした下方へ振り向くと、ニトロの双眸にスーツ姿の中年男性が飛び込んできた。
 その男性はニトロから数m離れた位置にあるビルの縁に立っていた。心底たまげた様子で空中に浮かぶ少年を見上げ、驚いた拍子にぶつかったのか背後のフェンスに体を押し付けおののいている。
(ん?)
 ちょうど父と同じくらいの年齢だろうか。ニトロは中年男性が不自然な場所に立っていることに気がつき、眉根を寄せた。
「…………ニ、ニト……ニト……?」
 ゆっくり、非常にゆっくり地上へ落ちている少年をまじまじと見つめ、どうやらその正体を察したらしい。苦しく喘ぐように少年の名前を呼ぼうとしている彼は、ここらの中では最も高いビル、その屋上に作られた緑地を囲む安全フェンスの外にいた。
(んん?)
 やけに身なりを綺麗に整えて、それは一日仕事をしてきたという風でなく。光乏しくよく見えないので断定はできないが、男の顔は疲労ではなく心労に染まっているようだ。
 ――投身自殺。
 ふと、その単語がニトロの脳裡に去来して――
「だだだだ駄目だ!」
 思わず、ニトロは叫んでいた。
 慌てて姿勢を変えようとして、何とか宙に立つ体勢にはなれたけど男性に駆け寄ることはできないと悟るやつんのめるように体を乗り出し、
「身投げなんて良くない! 人生色々あるだろうけどやっぱり命あっての物種だし、ほら、怖いよ!? 落下するって本っっ当に怖いよ!?」
 ああ、今日は何という日だ。『天使』を使っておかしくなったティディアに襲われるだけでなく、こんな場面に出くわすとは!
「もうモンンの凄い怖いんだから落ちてる時! それに痛い! 絶対痛い! ほら下を見てみなよアスファルトじゃない! 硬いじゃない? あれにまたスンゴい速度で容赦なく激突するんだよ!? 想像してご覧よ、ほうら痛くないわけがない! ってああああ何かまた恐怖が蘇ってきたーーーーー!!」
 目茶苦茶な手振りをまじえて何やらわめき散らしていたかと思うと、自分のセリフで自ら恐ろしくなったと悲鳴を上げる。
 少年のその様子に、彼が慌てふためいているものだから逆に落ち着きを取り戻した中年男性はふと投げかけられた言葉を反芻し……するとカッとなって叫んだ。
「放っておいてくれ!」
 有名な少年――この国の第一王位継承者の恋人として夢も希望も地位も名誉も何もかも輝かしい未来を約束された幸せな若者に、自殺を思い留まるよう説得されている。それを理解した彼はほとんど反射的に叫んでいた。
「お前に何が分かる!」
「何も分かるかボケぇ!」
 落下の恐怖が蘇り恐慌状態に陥っていたニトロも反射的に叫び返した。
「それならお前には何が分かる!」
 男性は面食らってぽかんと口を開けた。まさかの罵倒じみた反論を受け、瞠目してニトロを凝視する。
 宙を怠惰に落ちていく少年は力一杯眉目を釣り上げ、戦慄わなないていた。
「友達と遊んでたんだ、楽しかったんだ、カフェでのんびりしてたんだ、楽しかったんだ、そしたらいきなり『エッチして』だの『愛して』だの抜かすぶっトんだ女が現れて!
 カフェを丸ごと一つ眠らせた!
 空に逃げても追いかけてきて!
 『エッチして』だの『愛して』だの抜かしやがるクソ女に『面白くない』って放り捨てられた! 当然自由落下だ、当たり前だ、空で放り捨てられたらフリーフォールだよ、スライレンドの空から町へと一直線だ!
 そして今あんたとこうして初めまして!
 〜〜〜っ! どうしてだ!? 一体何がどうしてこうなった!?」
 悲壮だった。
 今やこのアデムメデスで最も名が知れ渡る高校生、ニトロ・ポルカトの口から溢れ出す激流は、何というかもう悲惨だった。
 それを、彼の父ほどの年齢の男性は、ただ聞いていることしかできなかった。ただただ圧倒され、背にするフェンスを擦ってへたり込み、何も返せず息を飲んでいた。
「分かるならどうか教えてくれ!!」
 叫び、荒げた息に肩を上下させながら、ニトロははたと気がついた。
 何を自分は口走っているのだ?
 自殺をしようという人間にこう強い言葉をかけていいものか。
 いや、きっと良くない。
(――しまった)
 ニトロは己が犯した失態に内心舌を打ち、感情をぶつけてしまったことはもう仕方がない、何とかフォローをかけようとまとまりを欠く頭で必死に考えた。
 さて、どうする。こういう場面に出くわしたことはないし、本格的にカウンセリングを勉強したわけでもない。むしろカウンセリングを受けた方がいいような生活を送ってはいるが、幸い優しいA.I.と多少いい加減だが頼りになる親友が話し相手になってくれているからその世話になったことはない。
 そうなると参考になりそうなのはドラマやら雑誌の人生相談コーナーやらニュースのドキュメンタリーやらで見た聞きかじりの情報しかないが……
「……えーっと……」
 ニトロは間を持たせようとうなった。男性はフェンスにもたれて座り込んだまま動こうとしない。
(……っ、駄目だ)
 いい言葉が思いつかない。そもそもこんな状況で的確な言葉を選べという注文が無茶だ畜生。
「言い過ぎました」
 とにかく、ニトロは言った。もうビルにいる男性の位置と高低差はない。それでも男性が座り込んでいるため見下ろす格好になってしまうから、見下みくだしている風にはならぬようにと正面から眼差しを向ける。
「俺、あなたがどうしてここにいるのか分かりません」
 先ほどとは違う、静かな声。歳不相応に落ち着いた空気を纏い、少年が真っ直ぐ向けてくる真摯な瞳を、男性は魅入られたように見つめていた。
「あなたのことは全く知らないし、どういう言葉をかければいいのかも分かりません」
 彼の口調は誠実さに満ちている。普段は王女とドツキ漫才をしているニトロ・ポルカト。私生活は王女をツッコミ倒している激しい姿とはほど遠く、真面目で温厚だという話が真実だと理解できる。
「でも、」
 ニトロは懸命に言葉を探すうち、男性の背後に、スライレンドの皆が作り上げている風景の最も綺麗な一面を見た。胸に、言葉が浮かんだ。それが意味のあるセリフになるのか判らなかったが、ニトロは口を継いだ。
「あなたの後ろに花が咲いていることは分かります」
 男性はニトロに促されるように背後を振り返り、はっと、今初めてその花壇に気がついたというような素振りを見せた。
 花壇には、彩り豊かな春の花が咲き乱れている。花々は夜の闇に美を削られようともそれに負けじと美しさを誇っている。
「とりあえず花でも見ながら、ウイスキートディでも飲んでみたらいかがですか? 父が好きなんですが、美味しいそうですし」
 そう言いながらも、ニトロは本当にこれでいいのかと自問していた。
 男性は花壇を見つめている。自分からは影になり、その表情はよく見えない。やがて男性がゆっくりこちらへ向き直る。
「…………」
 振り向いた男性の顔を見た途端、なぜか、ニトロはもう彼は大丈夫だと思った。少なくとも今日はここから身を投げることはない。根拠はないが、確かにそう確信できた。
 そして、
「あ――」
 男性が何かを言いかけた時――
「あ!?」
 ニトロはまた、体が落下を始めたことを知った。
 風景が急変し、男性の姿が消えた。ビルの壁面が視界を埋める、階ごとの窓の境界が凄まじい勢いで下から現れ上へと消えていく。
 ニトロは悲鳴を上げながら、いつぞ来る地面との激突に備えて……無駄だと判っていながらも身を固めた。
 直後!
「偉いわ」
 ふぅわりと羽根布団の中に落ちたような感触と共に、聞き慣れた華やかな声がニトロの頭を撫でた。
「また、惚れ直した」
「……お前に」
 ニトロは、状況を理解しようとするまでもなく、理解した。
「惚れ直されても嬉かねえよ」
 ようやく地上に辿り着いた。
 ちょうど『お姫様抱っこ』の形で、ティディアの腕の中に納まって。

→1-8aへ
←1-7aへ

メニューへ