「ティディア!!」
スカイモービルは震えていた。怒りに、恐怖に、エンジンが焼き切れるのではないかという高音を上げ、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように震えていた。
そのシートに横座りする女は揺れる機体の座席でバランスを崩すこともなく、何事もない様子で赤と青の髪を細やかに揺らしている。
「主様!」
ノイズが弾ける。
「主様!!」
「主様!!!」
「平気」
涙声混じる悲鳴を慰めるように、ティディアが言った。
「――ティディア!!」
芍薬は必死にエンジンも計器も何もかも正常なのに動かないスカイモービルを必死に動かそうとし続けながら、平然としてカメラに映りこむ魔女へ憤激をぶつけた。もう助けに行っても間に合わないかもしれない――拳があれば殴り殺したいと心から思いながら、絶叫した。
「邪魔スルナ!!!」
「平気」
繰り返されたティディアの言葉に、芍薬ははっと下方を捉えるカメラの映像を分析した。
地上へ落ちていくニトロの姿を捉え、レーザー距離計の示す数値を落下速度と経過時間から算出される数値と比較し、マスターが計算よりもずっと近くにいることを知る。ニトロの落下速度は、途中から著しく減少していた。
「……一歩間違エレバ……ッ」
敵意を込めた機械音声からは焦燥が消えていた。怒りに満ち満ちてはいるが、ひとまずマスターが無事であることに安堵を隠し切れないでいた。
「ニトロを、殺すわけない」
すっと、ティディアが立ち上がった。いくらニトロが地上二階から飛び降りた方がずっとダメージを負う速度で落ちているとはいえ、彼を助けに行こうと懸命に動こうとしているスカイモービルから一歩、離れる。
「お
空中に立ったティディアは、その光亡き瞳を
「前言撤回です。ニトロ君とは同じペース、ではありませんね。いつもより手が荒い。不細工過ぎる」
ティディアはハラキリを見つめるだけで、何も言わない。打てば――返ってくるのが予想外の音だったとしても――響く普段の彼女に慣れたハラキリは、その反応を心地悪く感じていた。そして、自分よりティディアの扱いに長けたニトロからすれば心地の悪さも自分が感じるそれより格段に上だったろうと思い、軽く息をつく。ため息のように。
「今なら、一緒に謝ってあげます。だからここらで止めにしませんか」
「ニトロに、愛されたいの」
応えになっていない――いや、それが答えなのだろう。
ハラキリは今度こそ深くため息をつき、
「愛されたい、にしては手段が違いませんか。無理矢理愛させようとしても、まあそれで愛してくれる方もいらっしゃるでしょうが、ニトロ君はきっと駄目ですよ」
そこまでは飄々と軽口を叩くように言っていたハラキリが、ふいに眼光を鋭くする。
「こんなやり方、一線越えれば確実に憎まれましょう」
その一言は、あるいはハラキリの切り札だった。
ハラキリはこれまで『二人』に最も身近な立場から観察しているうちに、ティディアがいくらニトロの『激怒』に触れることを繰り返しても『憎悪』には決して触れぬようにしていることを知っていた。そして一見無軌道無謀無配慮強引痴女犯罪とばかりにニトロを落とそうとする姫君だが、その一線だけは
しかしその『一線』は、今まさに無視されようとしている。
ニトロにティディアの『目的』を聞いた時こそそれが想定していた危機とは違い過ぎて拍子抜けしてしまい、彼女の願望がいつものことだと勘違いしてしまっていたが……その一点が違うということは、何よりも大きい。
ティディアは言う――ニトロに愛されたい。
それは『エッチして』と肉体を愛させようとするだけか。
そうではあるまい。それだけが『目的』ではあるまい。
ティディアは言った――ニトロに、愛されたい。
肉体の結びつきへ先走ってはいても、ニトロと心をつなげたいという願望がないとは到底思えない。
ならば、いかに『天使』の力に引きずられているとはいえ、いや引きずられているからこそ。
『一線』を無視することでティディアが切望する『目的』に内包された――ニトロに肉体を愛される目的を達成すると同時にニトロに心を愛されるという目的を放棄することになる事実を突きつければ、その自己矛盾が楔となり彼女の行動を止められるかもしれない。
ハラキリはそう考え、それを狙っていたが、
「解ってる」
「なら、」
「それでも止められない、この気持ち」
「…………」
ハラキリは聞き分けのない子どもを見る目つきでティディアを見返し、皮肉気に笑みを浮かべた。
「『私は貴方に狂ってる』ですか」
「邪魔するなら、あなたも、排除する」
「かしこまりました。では全力で当たらせていただきます。どんな手段を用いても、恨みっこなしですよ」
そう言ってハラキリは通信を切ろうとして、ああとつぶやいた。
「契約不履行の件、高くつきますからね」
「嫌わないでね」
即座に切り返されて、ハラキリは眉を跳ね上げた。
それは『信頼』を失うことだけを恐れている言葉だった。
「……まったく、嫌われたくないなら相応の行動をしてもらいたいものです」
ハラキリ側から、通信が切られた。
彼の『答え』を返すことなく暗転した画面を見つめていたティディアを、
「バカ姫」
芍薬が言うのを、ティディアは無表情で見つめていた。
「イクラ主様ノ心ガ広クテモ、限度ガアルヨ」
「……この機体」
ティディアは応えず、問いを返した。
「レンタル? それとも、買ってきた?」
「ドウデモイイダロ。ソレヨリサッサト戒メヲ解ケ」
「どっちにしても、ニトロ名義ね」
その言葉に、ティディアの意図を悟って芍薬の顔が強張った。
芍薬が何かを言うよりも早く、ティディアが手をスカイモービルに当てる。
「事故が起きたら、ニトロのせいになっちゃうから」
ぎご、と、内部のどこかで嫌な音が鳴った。さらに計器が不可解な数値をはじき出し始め、あっと口を開いた芍薬の
「ちゃんと、落ちないように制御しておいて」
「コノ… 」
芍薬のうなり声が流れた直後、スピーカーの振動板が引き裂かれ、声は憤然たるまま失われた。
「…………私が撥ね飛ばされた時」
そして憤慨に震える機体を撫で、
「……私の死を思い浮かべた時」
水をこぼすようにティディアが言う。
「『私を殺した』芍薬ちゃんを思って、ニトロ、泣いていた」
その時、ティディアの鉄面皮が崩れ、ほんの一瞬、微笑が浮かんだ。
「――羨ましい」
ティディアの囁きに押されて、スカイモービルが暴走を始めた。甲高い異常音を機体から迸らせ、しっちゃかめっちゃかな軌道を描いてさらに上空へと駆け上っていく。
芍薬の怒鳴り声にも思えるその音が遠くに消えていくのを頭上に、ティディアは彼女の他に何もない宙に独り立ち、眼差しを足下へ落とした。
「ニトロ」
彼女の双眸は、はるか下方にいる少年をひたりと見つめていた。