「 ?」
ニトロは疑念を口にしたつもりだった。しかし凍りついた喉は震えず、その噛み締められた歯の隙間から漏れたのは虚しい吐息だけだった。
彼は……震える瞳で見た。
視界の隅にある、白い腕――
背後から己の胴にしがみついてきた、白袖に包まれたその腕を。
背中には、熱い、柔らかに熱い温もりが寄り添って――
「もう、捕まえた」
「これはこれは、お
飄々とした語調がスピーカーから流れた。
「どうやって現れたんです。
ティディアは答えない。一拍置いて、ハラキリはまた問うた。
「あるいは、どちらでもない、何か未知の
それにもティディアは反応しない。しかしハラキリはそれをさして気にする風でもなく、
「芍薬、システムは?」
「正常。イジラレタ跡モナイヨ」
ハラキリの問いに芍薬が、ニトロの体越しにティディアを睨みつけながら答える。
「ではセンサーでも見えないように姿を消すことまでできるんでしょうか」
ハラキリが問いを止めない理由をニトロは分かっていた。ティディアから少しでも情報を引き出そうとしているのだ。それで例え質問に彼女が真っ当に答えなくとも、彼ははぐらかしから得られる情報ですら状況判断のため有効に活用する。
「あれ? ちゃんとそこにいますよね。まさかそこにいるのは幻ですか? いや、機械にまで幻視をかけられるなんてことはないか、それではコンピューターにデータを混ぜ込んでいる?」
ティディアもそれを分かっているからか……沈黙を続けている。
一方でティディアは、ニトロの胴に巻きつく腕に嬉しそうに力を込めていた。それは捕まえた獲物を逃がさないためか、それとも単に抱きつけていることを喜んでいるのか。彼女の表情を見ることのできないニトロには測りかねたが、だがこのままでは『逃げられない』ということだけは分かった。
「…………」
ややあって、ハラキリはため息をついた。
「まあ、いいでしょう」
そう言って、何を思ったか険悪に口の端を歪める。
「随分約束と違うことをしてくれてますね。例え貴女が『天使』を使っても、それでニトロ君に迫る、なんてことは決してしないという契約だったはずですが」
ハラキリの声は機嫌悪さに満ちていた。つい先ほどまでとは別人のように、その話題を口に出した彼は心底不機嫌だった。
ニトロは、そうかと察した。
さっき彼が言っていた弁解のための主張とはこのことだ。どうやらこの件、ハラキリにとっては寝耳に水もよいところだったらしい。
それならハラキリをどやすのはよしておこうかな、と思いながら、ニトロはぎゅっと自分を抱き締めているティディアの腕へ目を落とした。
ティディアはそれでも黙したままにいる。一体、どういうつもりなのだろうか。こと『契約』に関してハラキリは厳しい。彼の信頼を失うことは、彼のことを『友達』だと言うティディアにとって損失この上ないはずだが……
「ニトロがいれば、いい」
ニトロは、震えた。またティディアにこちらの思考を読まれていたことに、そして内心に土足で踏み込まれていたことに、戦慄していた先刻とは違い羞恥心にも似た激しい怒りを覚える。
「ティディア、テレパシーは、反則だ」
努めて声を抑えて、ニトロは言った。ティディアへの警告と同時に、ハラキリと芍薬に情報も提供する。
「そうね。ハラキリ君はちゃんと、頭に入れてる」
「だからっ……!」
「私、ニトロの考えを知りたいの」
「そういうのは話し合って知り合うものだろ?」
「ニトロ、話し合うのも嫌がる」
「お前が俺の嫌がることばかりするからだ」
「愛情表現なのに」
「お前の愛は狂ってる!」
「そう、私は貴方に狂ってる」
「意・味・が、ちっがーーーーーう!!」
スライレンドの……何だか虚ろな空間に見える夜空にニトロの絶叫が吸い込まれていく。
それを追うように、くっくっと含み笑いが聞こえた。ハラキリが、笑っていた。
「これは驚きですね」
ハラキリは肩を揺らして、目を細めた。
「お
「おぅい、嬉しくないぞその指摘!」
「し・あ・わ・せ」
「黙れ阿呆!」
「だからハラキリ君、幸せ、邪魔しないで」
「聞けや阿呆! てか邪魔していいぞハラキリ、っていうかそもそも俺は今こそ不幸!」
「泣けるお言葉ですねぇ」
ハラキリはまた笑いながら言った。
「とりあえず、お
「現状維持、ただの停滞」
「それが我慢できませんか」
「面白くない」
「マイナスに進展させるよりは、随分とましだとは思うんですけどね」
ハラキリは肩をすくめた。
「大体、心が読めるならニトロ君がどれほど嫌がっているか解るでしょう?」
「そうだ!」
ハラキリの言葉を受けて、ニトロが一気呵成に叫んだ。
「解るはずだ! どれだけ俺がお前を心底嫌がってるか!」
「解らない」
「何で!?」
「解るのは表層だけ。本音までは、読めない」
「全て本音だ!」
「嫌よ嫌よも好きのうち」
「それは都合のいい言い訳だ!」
と、叫んで、ふとニトロは、ティディアが言い返される度に胴に巻かれた腕にきゅっと甘く力を込めてくることに気づいた。どうやら……ボケツッコミの状況が楽しいらしい。
と、そこでまたふと、ニトロは思いついた。ちょうどいい。ティディアを喜ばせるのは癪だが、このままボケツッコミだろうが漫才調だろうが話し続けて時間を稼いでやる。
そう思ってニトロが話題を探した――その時だった。
ニトロの体が、浮かんだ。
「駄目」
「?」
ニトロの目が点となる。
「時間稼ぎの会話なんて、面白くない」
ティディアの声が下から聞こえた。
「え?」
ニトロの視界は空にあった。日の光を失った空は宇宙の色に染め上げられていて、ほのかに青い一等級がずっと昔に放たれた光を瞳に刺し込んでくる。
「――――ぅ」
「主様!」
芍薬の悲鳴は、落下を始めたマスターを掴み止めようとするように鋭くニトロへ届いた。だが、声では、声だけでは、母星の力に引かれスライレンドの町へ落ちていく体を留めることはできなかった。
「主様!!」
ニトロは視界の下から現れ、身じろぎする、瞬く間に離れていくスカイモービルの姿を、鼓膜を叩くのは風の音か己の悲鳴かも分からぬまま見つめていた。
なす術もなく、地上へと落ちながら――
「ティディア!!」
芍薬の激怒が、スピーカーの音を割った。