「何言ってるんだ? あのバカ俺に『エッチして』なんて言ってきやがったぞ?」
「え?」
 ハラキリがまた目を丸くした。もしかしたら『ぶっ飛ばす』と言われた時以上の驚愕だったのかもしれない。言葉まで失って、唖然とこちらを見つめている。
 特に彼の意表を突くようなことを言ったつもりはないのに、その反応にニトロは妙な不安を感じた。
「何驚いているんだよ」
「いや、ええっと」
 画面の中のハラキリは腕を組み、思案顔を見せたかと思うと、ふと何かに思い当たったように小さくうなずいた。
「はあ、そうなんですか」
「何を一人で納得してるんだよっ」
 自分勝手に事態を飲み込んでいるハラキリにニトロが苛立ちをぶつけると、ハラキリはまた困ったように首を傾げた。
 本人が聞きたがらないこともあって、ハラキリはニトロに『天使』のことを詳しく話したことはない。芍薬の神技の民ドワーフに関する記憶ログは封印されているから、今回の件で報せた情報――『ティディアがあれを使用して暴走した』ことと、簡単な『天使の効能』、それにヴィタから提供を受けた『ティディアが研究所で見せた力』以外に彼が芍薬から得られる知識はない。
 どこから話したものかとハラキリは考え、言った。
「ニトロ君、『天使』を使った時の記憶、ありますか?」
「え? ああ、所々記憶がトんでるけど、ぼんやり覚えてるよ」
「その時、何て思っていましたか?」
「とにかく屋上へ……屋上に着いた後は、あのバカなんとかしてやる。それだけで頭が一杯だったかな」
 ハラキリはうなずいた。
「以前、『天使』の効果がいまいち安定せず、個人差があると言ったことがありますね?」
「……うん、なんとなく聞いた覚えがある」
普通の効果なら、『天使』を使っても意識も人格も記憶もほぼ平常のままです。ですがある一定のレベル以上にその効果が現れると使用者の理性が薄れ、意識や人格等が『天使』にひきずられて……まあ、ちょっとおかしくなるんですね」
 それは明らかに『天使』について掻い摘んで話しているという口調だった。色々端折っているが必要なだけ理解できているか? という眼差しを向けられて、ニトロは軽くうなずきを返した。
「君の場合がまさにそれです。そして、どうやらおひいさんも。しかし『天使』はあくまで『道具』です。使用者に目的がなければその効果――『変身』させて手に入れさせた力が活用されることはない」
 ハラキリの言葉には確信に迫っているという力があった。ニトロは黙って聞き続けた。
「ですからそのようなケースでは、『天使』は差し当たって使用者がその時最も『やりたい・やらねば』と思っていることへ導くんです。そうすれば使用者の脳がどうなっていようと、『道具』としての使命はまっとうできますから」
「……ああ、だから」
「そう、ニトロ君は、拙者に言われた通りに屋上へ行くことで必死だったんですね。おひいさんのこともきっとぶん殴りたかったんでしょう」
 不意に、ハラキリが噛み殺した笑いで肩を揺らした。
 その様子を見てニトロは不機嫌に唇を結んだ。
「なんだよ、笑うなよ。おかしくないだろ、別に」
「いやいや、ニトロ君を笑っているわけじゃありません」
「?」
「だから、ほら。お姫さんが差し当たって最もやりたいことは、何よりニトロ君とヤることなんだなーと」
 ニトロの顔面から、血の気が引いた。
 浮かべているのは苦笑いか、それとも面白がっているのか。画面の向こうで笑うハラキリを凝視し、彼が口にした――
「いや違う! あいつは『私を愛して』ってそう言ってた!」
 ニトロが青褪めた顔を即座に真っ赤にして返してきた否定に、ハラキリは取りも直さずとばかりに言った。
「だから、君とヤりたいんでしょう?」
「待ちたまえハラキリ君! それではまるで裸でちちくりあうことがすなわち愛の証明だと言うようではないか! そんな単純なことじゃないだろう? それだと人類愛ってどうなんの!?」
「個人の愛と人類愛はまた別物じゃないですかねえ」
「それじゃあそもそも『愛』って何だ!!」
「知りませんよそんな大命題。考えるのも面倒なので、ニトロ君がニトロ君なりに答えを見つけてください」
「オッケー君の態度はそれはそれで正解な気もするよ。だけど俺、君に一つだけ言っておきたいんだ」
「どうぞ」
「俺はティディアを愛していない!」
「本人に言ってやってください。面と向かって」
「言っても言っても言っても聞かないじゃないか!」
「納得させてやってください。頑張って」
 通信をつなげた直後とは打って変わって、ハラキリは気の抜けた顔でシートに深く腰を沈めた。よく観れば、彼がいるのは韋駄天の中だった。後部座席には子どもサイズのアンドロイドが無数に折り重なっている。その数を見れば彼が本当に心配していて、本気でニトロを助けに来ようとしていたことは明白だった。
 しかし、
「それにしても。てっきり拙者は……ああ、ヴィタさんもですけど、おひいさんがニトロ君と一番やりたいことはあくまで夫婦漫才』なんだと思っていたんですけどね……ちょっとびっくりでした」
 声からも完全に気を抜いて、やれやれとばかりにハラキリは言う。
「でも、それなら命の心配はないですねえ。安心安心」
「いや待て、なんで漫才で命の心配?」
 妙な物言いに反射的に返したニトロの問いを受け、ハラキリは飄々と訊ね返した。
「ニトロ君、『天使』を使った君自身と漫才やれる自信ありますか?」
「死ぬわ、あんなんと漫才なんてしたら」
「それが答えです」
「?」
 一瞬ニトロはハラキリの言葉に眉をひそめ、次の瞬間、再び彼の顔から血の気が引いた。
 ハラキリはニトロの動揺を知ってか知らずか、この上なくへらへらと笑って言った。
「いやー、だからおひいさんが強制的に君との婚姻届を完成させて即夫婦漫才始めたらマズイなー、と思ってたんですよ。まあシナリオ通りにやるならニトロ君も心構えができるでしょうけど、ほら、お姫さんアドリブ大好きでしょう? 元々何をしでかすか解らない人が輪をかけて何をしでかすか解らなくなってるわけですし、それでそれこそ体張りまくった『凄絶なボケ』でもかまされたらさすがにニトロ君でも死んじゃうなー……って。いや、君のことですからツッコミは返しながら逝くでしょうけどね?
 ま、とにもかくにも、心配損で何よりでした」
 ニトロの蒼白な顔の下で、ぶるっと大きく体が震えた。
 ハラキリが完全無欠にやる気をなくしている。それはまずい。間違いなくこの危機の原因の一端を担っている野郎がモチベーションを下げることには釈然としないものがあるが、そんなことをツッコんでる余裕がないくらいにまずい。
「ちょっと待て! 重要なのは命の心配だけなのか? こっちは貞操の危機なんだぞ!?」
「ソウダ、ヒトデナシ!」
 これまで黙っていた芍薬が、画面上の元マスターの態度に腹を据えかね怒声を上げる。
「貞操の危機?」
 しかし怒りをぶつけられたことよりも妙な部分に興味を引かれたようで、ハラキリはそう口の中でつぶやいた。そして、
「ああ、ちょっと勘違いしてました。あまりにいつものことだったもので」
 何やら自嘲の様子でうなずく。
「確かに、今回ばかりは強制猥褻になるかもしれませんね」
「なんで『今回ばかり』で『かも』なんだよ! 『いつも』誰から見てもそうだろ!? さらに強制猥褻以上!」
「いやいや、いつものことだからこそ拙者としては単なる『日常風景』」
「その認識を改めていただきたい!」
「努力します」
 言って、ハラキリは姿勢を正した。
「ちょっとやる気出てきました。現状維持には努めましょう」
「――現状?」
「ニトロ君とお姫さんが洒落になる程度で痴話喧嘩してくれるこの現状」
「その認識も改めていただきたい! つーよりお前との友好も見直さなきゃいけない気がするんだけど、どうか!?」
「やだなあ。友達じゃないですか」
「だから『友達攻撃』は反則だし使いどころも間違っているし!」
「あと数分でそちらに着きます。対処法は芍薬に聞きましたか?」
「まだ聞いてない!
 芍薬?」
 急にニトロの声が穏やかになる。彼の変貌振りにハラキリが苦笑いを浮かべる傍ら、画面隅で正座をしている芍薬は難しい顔をしていた。
「……芍薬?」
 不安げにニトロが問うと、芍薬は大きく眉を垂れた。
「ソノ壱」
「うん」
「『効果ガ切レルマデ逃ゲロ』」
「効果っていつ切れるの?」
「『個人差著シク不明。但シ120分ヲ超エルコトハナイ』。モシフルタイムダトシタラ、残リ71分」
「よし。次」
「ソノ弐」
「うん」
「『逃ゲラレナイノナラ、倒セ』」
「よし。次」
「以上」
「うん。
 ……」
 ニトロは芍薬から目を画面中央のハラキリに戻した。その眼が、かっと見開かれる。
「ろくな対処法がねーーー!」
「と、申されましても」
 ハラキリは心底、本当に困ったように頬を掻いた。
「それしかないんです」
「…………マジで?」
「マジです」
「…………逃げ切れる? それとも、倒せるのか? 使った俺が言うのも何だけど、『天使』は理屈が通じるような相手じゃないと思うんだけど」
「相応の準備はしてきました。だから、とりあえず拙者が行くまでこのまま捕まらないでいてください」
「が、頑張る。芍薬もいるし、あと数分だろ? それくらいなら頑張れる」
「無理よ」
 と――その、一言。
 ふいに空気を震わせ三者の耳を叩いた、たった三文字の言葉。
 闖入してきたその声に、ハラキリが、芍薬が、言葉を失った。

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