ニトロは言葉もなかった。
「ふ・ふ・ふ。ふ・ふふ」
 呆れてものが言えないのか、絶望に打ちひしがれ声を失ったのか、はたまた怒りのあまり噴き出した罵倒語の数が言語野の許容値を超えて思考回路がバーストしてしまったのか。
 痙攣した肺は、抑揚もなく、高低もなく、ただ壊れたエアポンプのように空気を送り出していく。
「ふふふ、ふふぅふふ」
 ティディアが『天使』を使ったらあんなんなっちゃった。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
 それを聞いてはもう口から漏れるのは笑いしかない。ていうか、こうなっては笑う以外に何ができるという――あ、そうだ。お前を呪うくらいはできるか。なあ神様?
「主様、気ヲシッカリ。現実逃避シテモ何ノ解決ニモナラナイヨ」
 ハンドルの先、計器の上に浮かぶ立体映像ホログラムが言うことは至極もっともだ。反論の余地は一ミクロンとてない。
 しかし、だからこそ……――
 ニトロは笑いを止めた。
 大きく息を吸い、そして深い深いため息をついた。
「主様?」
 不安げに芍薬が伺ってくる。慰めもするような、労わりの声。芍薬はこんなにも優しいのに、オイこらゴッド、お前の使いはなんてことしてくれてんだ。
「主様、大丈夫?」
「ああ、大丈夫。だからって悪魔崇拝に走りゃしないよ。『魔女』も敵だ」
「ヌ、主様?」
 妙なことを口走った主に、芍薬が空中走板スカイモービルのスピーカーを不安で震わせる。
 ニトロはうろたえる芍薬へ辛うじて笑顔を浮かべて見せた。
「大丈夫だよ。ここでヘタレりゃバカに食われる」
 スライレンドの空に静止し、町の膨大な光に照らし上げられるスカイモービルの高度計は300を示していた。
 その高さに届く超高層ビルのないスライレンドではどの建造物よりも上になり、ハンドルの先、芍薬の向こうには広々とした天球が広がっている。星光の薄れた暗い空と煌めく電光に照らされる地上の境は夜陰の中にもはっきりとして、360度ぐるりと見渡せばこの母星が、少なくとも自分のいる場所を中心にした円形の大地が、広大な宇宙に面していることが実感できる。
 少し肌寒いが、風が弱いのが幸いだった。ニトロは油断なく周囲へ目を配りながら、気温よりも身を凍えさせようとする体内の寒気を嘆息と共に吐き出した。
「それに、とりあえず、何ていうかさ……そう、親と何か思い出のある町に一人でいると、あいつが思い出をろくでもないことで侵してくれるってことがよーく分かったよ。うん、こりゃゲンが悪いや。次からはもう一人はなしだ」
 それが『ウェジィ』のことを言っているのだと悟り、芍薬はそんなことはないと否定の言を発しようとして――止めた。何を言っても嘘になりそうだ。
「だから」
 ニトロは一度言葉を切って、それから言った。
「次は芍薬、絶対一緒に来よう。最高級アンドロイドでも借りて、何となくハイソな気分でさ」
「――御意!」
 マスターが自分のペースを取り戻していることを洒落っ気込めてあかし立て、それと同時にかけてくれた誘いに芍薬は声を明るくした。
「さて」
 ニトロは気を取り直すように息をつき、また周囲に目を配った。
 念動力者サイコキノはその力を応用して宙に浮くことができるという。今のティディアなら、空を闊歩してきたところで何ら不思議ではない。
 だが、警戒心全開で見回すニトロの視界には地上の光に照らされる夜空があるだけで、等級高い星影はあれども人影はわずかにもなかった。
 そもそも空を飛んで来られるのなら、このスカイモービルで逃げたところをすぐさま追いかけてきているだろう。しかしそうしていないということは、空を飛ぶまではできないということなのか。それとも、予想以上に芍薬の体当たりでダメージを負い、未だアランデールで伏しているのだろうか。
(……よし)
 芍薬がセンサーに飛行物を捉えていないのだからティディアが近くにいるはずがないと頭では解りながらも、それでも肉眼で確かめているといないでは心持ちが違う。視認を終えたニトロは改めて安堵し、黙って言葉を待っている芍薬に命じた。
「ハラキリにつなげて」
「承諾」
 立体映像ホログラムの芍薬の肖像シェイプが崩れたかと思うと、次の瞬間には薄く長方形に広がった画素が宙映画面エア・モニターを構成する。画面の隅にはデフォルメされた芍薬がいて、中央には『呼び出し中』の文字があった。
 と、一息を置く間もなく文字が消えた。
 画面が一瞬暗転し、即座に見慣れた友の顔が宙映画面エア・モニターに映った。見覚えのある黒い『戦闘服』に身を包んだ彼は安堵の表情を見せている。
「良かった、ニトロ君無事でしたか」
「お前後でぶっ飛ばす」
何故なにゆえ!?」
 唐突なニトロの宣言にハラキリが目を丸くする。ニトロはため息混じりに言った。
「いちいち説明しなきゃ解らない奴じゃないだろう?」
 暗に……『天使』をよりによってティディアなんかに提供しやがってコノヤロウ……と言うニトロの怒気が混じる眼差しに、ハラキリは困ったように眉根を寄せた。
「一応、この件についてはこちらにも主張があるんですが……」
「弁解は聞くよ」
「そりゃありがたい」
 ハラキリはそうであれば『ぶっ飛ばしの刑』から逃れられる確信があるようで、うなずくと一転して真剣な表情を見せた。早速詳しく現状を把握したいと体全体で主張し、身を乗り出す。
「それで、おひいさんはどんな夫婦漫才をしようとニトロ君にもちかけてるんです? それとも先に無理矢理婚姻届に拇印を押させようとしましたか?」
 その言葉に、今度はニトロが眉根を寄せた。

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