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 ティディアの『変身』は、想定の範疇を超えていた。
 研究所――軍の研究施設にはあらゆる状況を鑑み、それらに対応するだけの設備があった。宇宙空間でも生きられる最強の生物・ドラゴンに暴れられても破られることのない地下実験場。現在知られている様々な種族特有の力に対する備えもあり、もし何らかの手違いで実験対象が外部へ出てもすぐさま特殊兵器で武装したアンドロイドと兵士の混成部隊が適切に対処する。
 どんな事故が起きようとも、実験対象を外部へ逃すことなどあり得ないことだった。理論上では『天使』を使い『変身したニトロ』ですらも封じ込められるだけの能力がここにはあった。
 それを実証するように、これまでの『天使』に関する実験でそれなりに大きなイレギュラーがあっても整然と対処がなされていた。
 しかし、姫の暴走は、止めることができなかった。
 初めは誰もが穏やかに実験を進めていた。超強化ガラス越しに実験場を見下ろす制御室には、談笑の声すらあった。
 『天使』を用いた直後、髪の色が変化した王女。それくらいの変化はこれまでに何例も見られたことで、誰も……その『変身』がこれまでにないものだとは思いも寄らなかった。
 異変に気がついた時は、もう何もかもが遅かった。
 変身で得た『力』がどのようなものであるか測るために投入された戦闘用アンドロイドの渾身の体当たりを、ティディアは無防備に食らった。その後もなされるままに殴られ、蹴られ、慌てたスタッフがアンドロイドへ停止命令を送るまで暴力に晒され続けた。
 アンドロイドは基幹部分で人を傷つけぬようプログラムされている。警備アンドロイドでも可能なのは組み伏せるまで、馬力とて対象の腕力を数パーセント上回ったところでリミッターが作動する。それを取り払った戦闘用アンドロイドは、鉄棒を折り曲げ石を砕き車を持ち上げる力をいかんなく発揮し人間を攻撃することが可能だ。
 そんな相手に無抵抗に殴られ蹴られればどうなるか……火を見るより明らかだった。
 だが、ティディアは無傷だった。
 無残に潰れたと思われた顔には痣一つなく、美貌を凍りつかせた無表情を崩さず、姫は立ち上がるとじっと己の手を見つめた。
 ティディアが見つめていた手をアンドロイドに差し出すと、アンドロイドが宙に浮いた。彼女は手に入れた力を試すようにアンドロイドを上下左右に振り回し、やがて人形に飽いたようにその四肢を見えざる手で引き千切ると無造作に放り捨てた。
 疑うまでもなくそれは念動力サイコキネシス。その時には誰もが、ティディアがアンドロイドに袋叩きにされながら無傷であった理由を悟っていた。彼女は超能力サイオニクスを『天使』から与えられたのだ――と。
 異変に気がついたのはその直後だった。
 アンドロイドを破壊したティディアが実験場を出ようと硬く閉ざされた扉へ歩き出したのだ。どこへ行くのかと問うても彼女は答えない。何を言っても聞く耳を持たず、沈黙したまま扉へ向かった。
 場は緊張に包まれた。これまでのケースでは問いかけに答えない場合、それは全て『天使』使用者の理性が薄れていることがほとんどだった。
 即座に、対超能力アンチ・サイオニクスシステムが作動された。
 それなのに、彼女の髪がざわついたかと思うと、厳重にロックされた鋼鉄の扉が自動ドアもかくやとばかりに開いた。
 誰もが目を疑った。
 機器は対超能力システムが正常に動作していると示していた。だがシステムはどういうわけか効果をなさず、ティディアは実験場を出て行ってしまった。
 現場は急転混乱の渦に飲まれた。
 異変に気がついた時には、何もかもが遅過ぎたのだ。いや、そもそもティディアが『天使』を使うと決めた時点で全てが遅すぎたのかもしれない。
 彼女の行く手を阻もうと各種セキュリティを作動させる暇もなかった。
 モニターには、警報もなく現れた王女に一瞬にして兵士達がおかしくされ、非常事態を認識した戦闘用アンドロイド――例え『変身したニトロ』相手でも捕縛できるよう装備と能力を調整されたアンドロイド達がティディアに立ち向かおうとした刹那、それらが瞬く間に残骸と化した光景が流れて……同時に、その時には実験場にいた皆までもがおかしくなっていた。
 気がつけば、その場で正気を保っていたのはヴィタだけだった。
 そしてモニターの映像に、周囲で繰り広げられ始めた光景に、やがて目の前に現れ出した現実とは思えぬ風景をマリンブルーの瞳に映して、ヴィタは知った。
 ティディアも『天使』と相性が良過ぎたのだと。
 ヴィタが覚えているのは、そこまでだった。
 累々と積み重なるアンドロイドの残骸の中でティディアの唇が少年の名を刻んだことを読み取ったのを最後に、記憶は途切れている。
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「分かりました。引き続き、処理をお願いします」
 飛行車スカイカー離着場へ向かう最中に上がってきた報告を聞き終え、ヴィタは手の中の板晶画面ボードスクリーンに映る哀れなほど顔を青褪めさせた男――この施設の所長に言った。彼はうなずきを返してはいるものの、本当に彼女の言葉を聞いていたのか。どこか心ここにあらず、上の空にも思える。
 ……無理もない。
 ティディアに『天使』に関する一連の調査・実験について絶対の安全を誇示していた手前、それも胸を張って保証した相手に破られてしまったのだ。立つ瀬もなく、またあの姫様からどんな叱責があるかと怯え、どんな処分を受けるのかと恐れるのは当然だろう。
 しかし、この分では余計なミスを重ねてくれる可能性もある。
 ヴィタは板晶画面ボードスクリーンの小さなレンズ越しにも伝わるよう、ティディア姫の執事としての威を見せた。
「しっかりなさい。『神技の民ドワーフの脅威』に遭遇した今こそ、あなたの力が必要なのです。この場の長は、あなた以外にないのですから」
「は、はい!」
 力強く彼女に叱咤され気を引き締める所長の後ろでは、白衣を着た若い男がアハハあははと恍惚と笑いくるくる回っていた。画面には映っていないが高らかに歌う女が近くにいるようで、音声には調子っぱずれな歌が紛れている。
(……面白い)
 回り続ける男の顔芸もいけるが、歌の内容はさらにいける。所長への不満を爆発させているようで愚痴と罵倒が入り混じり、さらにはセクハラを受けたとか何とかオペラ調に訴えている。気を取り直し血の気を取り戻した所長の顔が、今度はみるみる紅潮していく様は実に見応えのある代物だった。
 ――『天使』の力により超能力を身につけたティディアがもたらした混乱。
 ティディアは実験に携わっていたスタッフを皆、幻覚の世界へ誘い、あるいは深い睡眠へ引きずりこみ、それとも奇怪な行動に走らせた。
 ヴィタも幻覚をかけられたとはいえかかりは他の誰よりずっと浅く、彼女だけは自力で気を取り戻せた。そして目を醒ました彼女が見た光景は、混沌だった。それはなかなかに面白光景広がる素晴らしい状況だった。
 マネキンのように硬直して眠る同僚をジャイアントスイングでぶん回している者。
 酷い悪夢を見ているらしく壁に爪を立て泣き叫んでいる者。
 コメディアンの一発ギャグを延々繰り返している女性研究者。
 響き渡る皆の目を醒まそうと必死に呼びかけ続けるオリジナルA.I.達の声。
 椅子を振り回し設備を壊し続ける学者畑の将校。
 実験場に目を落とせばラインダンスを踊る兵士達――
 正直、ヴィタにはこの研究所に残って撮影をしたい願望もあったが、とはいえ考えるまでもなくすでに姿を消していたティディアを追うこと以外に選択肢は無い。
 何より……幻覚に溺れる直前、ヴィタがティディアの唇から読み取った名は『ニトロ』。間違いなく彼の元へ――不本意にも向かった主人のために行うべき義務もある。
(そのためにも)
 まずはニトロの生命の確保だ。
 ティディアの『目的』にも察しはついている。応援を要請したハラキリもおそらくそうだろうと予測していたし、また、ヴィタとハラキリは共に、他に『天使』で理性を失った彼女が『目的』としそうなことは思いつかなかった。
 だが、だとしたらニトロが危ない。
 『天使』の加護を受けた今のティディアとそんなことをすれば、いかにわりと頑丈なニトロとて命危うい。
 いかに……あの『馬鹿力』という切り札を持つニトロでも。
 そう、あの力がどれほど驚異的であろうとも、ニトロがそれを出したところで『天使』を使い『変身した彼自身』には到底敵うまい。
 しかしティディアは、そこに奇襲の面はあるとはいえ、その『変身したニトロを封じ込められるだけの力を有した場を突破していったのだ。
「とにかく、未だ影響を受けている者を即刻目覚めさせ、被害拡大を防いでください。例え外部に漏れようと、今ならまだ『クレイジー・プリンセスの余興』で済みます」
 女執事の言葉に、彼女に応えることこそが信頼の回復につながる唯一の手段と確信した所長が了解を返す。それから彼は自分がヴィタにされたように、背後でくるくる回っている部下の頭を思い切り拳骨で殴りつけた。
 ヴィタは目覚めた部下に叱責を浴びせている所長の背によろしくと告げ、通信を切った。

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