「芍薬!」
ニトロは歓喜と共に空を見た。
そこには、旋回し高度を下げながら、すぐ目前にまで飛来する黒い鉄騎があった。
鉄騎はその軌道にティディアを捉え迷いなく駆け下りてくる。機械音声が魔女の願いを打ち砕かんと叫ぶ。
「主様カラ離レロ!!」
凄まじい勢いで迫り来る
「愛の障害」
その 刹那
芍薬の駆る
大気を切り裂く
彼女の体がくの字に折れる。
撥ね飛ばされた肉体が、凄まじい速度でカフェの中へ吹っ飛んでいく!
恐ろしい激音――テーブルや椅子が薙ぎ倒され骨肉が打ちつけられ陶器とガラスが破砕する凄惨な音が、立ち尽くすニトロの鼓膜を乱暴に叩いた。
「…………」
その姿は傍らの事故現場とはひどく対照的で、何事もなかったように平然としているのに、どうしてかエンジンの高音が空恐ろしい金切り声に聞こえてならない。
「…………ぁ」
あまりの衝撃に唖然と、ニトロはティディアが撥ね飛ばされた方向へ顔を向けた。
「……ぁ……あぁ」
彼女に巻き込まれたテーブルや椅子がその周囲に被害を広げていた。弾かれたテーブルが当たったのだろうウェイターの一人が、四人組のテーブルにダイブしている。そのウェイターはマネキンのつもりか立ち姿のまま料理の上に寝そべっていて、それは滑稽で、その滑稽さに場の悲惨さが際立てられている。
そして……
一本足の丸椅子をボーリングのピンのごとく撥ね、客と店員のスペースを仕切るカウンターの下に、彼女はいた。
カウンターの硬い建材に激突してティディアが……力なく、折れ曲がっていた。
「ティディア」
やっとニトロの口から漏れたのは、悲鳴だった。
激突の衝撃でカウンターに並べられていた酒瓶が倒れ、床に転げ落ちて砕けたその破片が鋭利に光を照り返している。血の臭いを消し去るためとでもいうのか、アルコールのつんとした臭気が立ち込めている。
――ティディアは動かない。
無残に体を折り畳んで、白い塊となっている。
その中で赤と青の髪が、まだらに乱れて嫌らしく自己を主張していた。
「ティディア?」
死。
その一言がニトロの思考を埋め尽くす。
「ティディア!」
金縛りが解けていることに気づき、ニトロはティディアへ駆け寄ろうとし――と、そこへ
「主様!」
彼女に近づいてはならないと制止する芍薬を、ニトロは睨みつけた。
「やりすぎだ!」
ティディアを本当に殺したいと思ったことは一度しかない。
あの『映画』の最中、両親を殺されたと思った時、その時以外に心から彼女の死を望んだことはない。
確かにティディアには様々な迷惑をかけられている。身の危険も何度だって感じてきた。
それでも、ティディアはバカなりに限界を見定めていた。あいつは『クレイジー・プリンセス』だ。やろうと思えば王権を用い、強制的に婚姻を成立させる手段もあったはずだ。あるいは周囲の人間を抱きこみ、組織立ち、家族を本物の人質として要求を呑めと脅すこともできただろう。
だが、ティディアはそれをしなかった。
ヴィタらのサポートはあっても、どんなに周囲を巻き込む搦め手を使っても、あくまで本人が真正面からぶつかってきた。突き詰めれば一対一……むろんそれでティディアのふざけた行動を赦し許容するというわけではない。そうではないが、しかしその一線を越えない限り、何度迷惑を被り幾度身の危険に晒されようと本当に殺したいとまで憎みはしなかった。
――だからここまで、
ここまでする必要はない。
それにここまでしてしまえば、芍薬の『命』だとて!
「芍薬――」
ティディアが死ぬこと、その意味、それがもたらす事態、全て、彼女を殺してしまった芍薬を失うだろう、芍薬を失って、しまうだろう、絶望、結末、脳裡が目茶苦茶に彩られ、混沌とし、思考が定まらず、ただそれでも未来がどうなるかということだけは、判る。
我知らずニトロの頬を涙が伝った。
「早く救急車を!」
「大丈夫ナンダ!」
叱責を予想だにしない言葉で跳ね除けられ、ニトロは面食らった。
「大丈夫ナンダヨ、主様!」
「だい、じょうぶ?」
戸惑い困惑するニトロへ、手を差し伸べるようにスカイモービルが車体を寄せた。
「ソウ! ダカラ!」
芍薬の語気は確信に満ちて強く、その主張はただの推測ではないのかと疑問を挟む余地もない。だが、その裏には隠し切れない焦りも溢れていた。
「主様!」
芍薬が叫ぶ。信じてと懇願する響きが、機械の発する声であるというのにひどく感じられる。
「――」
ニトロから戸惑いも困惑も混乱も、迷いの全てが消えた。
これ以上動かねば芍薬は言葉にして『信じて』と言うであろう。しかしそれは必要ない。芍薬を信じぬことは、それこそあり得ない。
ニトロはうなずくと即座にハンドルを握り、足掛けを蹴ってスカイモービルに飛び乗った。車体を両足で挟み込み機体と体のバランスを一致させ、両手でしかとハンドルを持ち上半身を安定させる。
「イクヨ!」
「おう!」
芍薬はニトロの返答を受けるや、全速力でスライレンドの空へとスカイモービルを駆け上がらせていった。
スカイモービルが飛び去った後。
轟音を聞きつけ『アランデール』に一番に駆けつけてきた男は、信じられぬ光景に言葉を失った。
事故に巻き込まれたのであろうカウンターの下で倒れていた哀れな女性が、何事もなかったかのようにすっくと立ち上がり、しっかりとした足取りで外へと歩み出てくる。
男は我が目を疑った。
「あんた……」
絞り出された彼の声はかすれ、その表情には驚愕しかない。
次々と集まってくる野次馬達が、目をむいてざわめいている。
無理もなかった。
何しろ女性はこれだけの事故の被害にあってなお、『得てして掴み所のない顔』には傷一つなく、背筋もまっすぐに立ち逃げていったスカイモービルの行く先を見つめているのだから。
「大丈夫、か?」
「眠れ」
「?」
女性が口にした言葉の意味を男が理解することはなかった。
いや、彼だけではなく、次々とアランデールに集まってきた人間全てがその時の記憶を保つことはなかった。
「芍薬ちゃん」
ティディアは、夜空に溶け消えていくスカイモービル――ニトロの戦乙女が駆る鉄騎の紅く光る尾をじっと見つめた。
「……排除」
つぶやき、歩き出す。
一歩一歩踏み込む度、歩幅と速度を上げていく。
そしてティディアは、スライレンドの夜陰に紛れて消えた。
彼女が去った『並木道のカフェ』の前では、乱立する深い眠りに落ちた彫像達が、ビルの谷間にひっそりと取り残されていた。