「どういうことだ?」
 問いながら、ニトロは彼女が何を仕掛けてきても動けるように身構えようとして、
「あれ?」
 ニトロは愕然とした。
 体が、動かない。
 腕も足も動かすことができない。
 意志は姿勢を変えようとしている。しかし体は応じない。応えてくれない。先刻の幻覚の中で味わった金縛り――それが、現実にも訪れ身動きが……取れない!
(――やばい!)
 ニトロは今一度足を肩幅に、腰をわずかに落として前後左右どこへでもすぐに移れる姿勢を取ろうと試みた。
 だが、やはり動けない。寸分の狂いもない金型に閉じ込められているようだ。
「こうなったら、直接、もっと本気で」
「……直接――本気?」
 口は、動く。首から上は動いた。だからといって、それで何が解決するでもないとニトロは焦燥に頬を引きつらせた。
 その言葉が何を意味しているのか悟りながらも、おうむ返しにかけたティディアへの問い。
「でもその前に」
 答えられずともはっきりと解る、無表情にひたすら身勝手に、その解答へ向けて事を進め続けるティディアの光亡き瞳に唇が震える。
「その姿もいいけれど……」
 ふいにニトロの頭に何かが触れた。驚き見上げると付毛ウィッグがふわりと浮かんでいた。透明な手にでも運ばれているのか宙をスライドしていき、放り捨てられて割れたテーブルの上にばさりと落ちる。
「!?」
 驚愕に見開かれたニトロの双眸からカラーコンタクトが勢いよく飛び落ちていった。異常極まるコンタクトの落ち方にニトロが目を白黒させていると、次は髪と眉を撫で回される感触が彼を襲った。
「うわあ!」
 思わず目を閉じそうになり、しかしそれは駄目だとニトロは目頭に力を込めた。
 目を閉じてはならない。目を閉じ現実に起きていることを拒絶すれば事態に立ち向かえなくなる。そうしてしまえば、このままティディアのペースに成す術もなく飲み込まれることを自ら認めてしまうことになる。
「怖がらないで。すぐに済む」
 悲鳴を上げた自分を安心させようとでもいうのか。ニトロはセリフだけは優しいティディアを敵意を持って睨みつけ――そして、息を飲んだ。
(嘘だろ)
 ティディアの赤と青に色づいた髪が、風もないのにざわついていた。
 その一本一本が、意志を持つ蛇のように蠢いていた。
 それは、そう、まるで魔女が魔法を使おうとしているかの不気味な姿。
(――魔女!)
 ニトロの脳裏に稲妻が走った。
 もちろん悪魔と契約し魔法を扱う『魔女』など存在しない。精霊を使役し超常現象を引き起こす『魔女』など存在しない。
 されど、超能力サイオニクス
 それならあり得る。
(だけどあれはアデムメデス人には使えない!)
 あれを使える代表的な種族は尖耳人エルフカインドだ。アデムメデスの猿孫人ヒューマンで使えるとしたら、それらとの混血ミックスくらいなもの。稀に遠い祖先に尖耳人エルフカインドがいて、それと知らずに力が覚醒し驚く場合もあるというが、でなければまず突然変異を起こした異常能力者ミュータント以外に扱える者はいない。
 ティディアの系譜に、尖耳人エルフカインドはいない。
 まして突然変異を起こしているなど聞いたこともない。
 しかしこれなら……そう、ティディアが魔女――超能力者ソーサラーであるならば、こいつが現れてからの全てに説明がつく。携帯電話の電源が不自然に落ちたことにも、カフェの皆が異様な眠りに落ちた怪異にも説明がつく。ハラキリが慌てていた理由にも、そしてあの幻覚にも!
 だが、ニトロは疑念を覚えた。
 いくら全てに説明がつくとはいえ、急にティディアが超能力を得たなんてことが、本当にあるのだろうか。
(こいつならあり得るかもしれないけど、でもそれならどうやって?)
 超能力を使えぬ者が、超能力を得る方法……古来より続く悪徳商法や怪しげな自己開発ではいくらでも見るが、実際に覚醒した例はない。
 では、むしろ超能力を持つ協力者を引き連れてやってきたという方が現実的だろうか。
 携帯の電源を切り、変装道具を外したのはおそらく念動力サイコキネシスだ。
 店員や客らを深い眠りに落とし、その顔を別人に見せ、自分を幻覚世界に引き込んだのは催眠能力ヒュプノシスだろう。
 ティディアが本当に超能力者になっているなら、本場の尖耳人エルフカインドでも一人一つの超能力が標準だというのに欲張りにも複数の力を有していることになる。協力者がいるならば、数は少なくとも二人以上。
 どちらにしても最悪の事態だ。
 何より催眠能力ヒュプノシス、そいつで『洗脳』でも仕掛けられたら……!
「それはおもしろくない」
 ティディアが口にした否定に、ニトロは首を傾げた。
 さっきもちょいとそうだったが、なんだかこいつ、こちらの思考に答えるようなセリフを吐いてはいまいか。これで『実は協力者がいます』なり、『洗脳しちゃうぞー』なり言ってきたら
「洗脳なんて、おもしろくない」
(―…―…。
 いやいや、そんなまさか)
「そう。以心伝心」
(ンな一方通行な以心伝心があるか!)
(じゃあこれならいい?)
「うおおお! テレパシー確定!」
 まずい。
 これはティディア超能力者説が最有力。
 ってーかむしろ確定?
 洒落にならない。
 ただでさえ危険な相手に超能力なんて手にされたら、それは絶望的ではないか。
 そして超能力を手に入れたこいつと二人きりのこの状況、まさに絶望ではないか。
 血が凍りつく。
 強烈な寒気が戦慄と共に襲いかかってくる。
「これでいい」
 ティディアが、満足そうに言った。
 無表情。トんだ瞳。その容姿は超能力を手に入れた代償だというのか。声が表す感情にそぐわぬ姿が気味悪さを、腹の底から這い登ってくる恐怖を加速させる。
「何がこれでいいんだ」
 ニトロは必死に体を動かそうとしていた。
 昔見た超能力の特集番組で、念動力者サイコキノ尖耳人エルフカインドが言っていた。これは見えない手で物を動かしているようなもの。物が浮かんでいるのは、物そのものが浮かんでいるのではなく、物が見えない私の手で持ち上げられているのだと。見えない手が持つ力を超える腕力や重さには逆らえないのだと。
 催眠能力者ヒュプノのエルフカインドは言っていた。対象の精神力が私のそれを凌駕するならば、私の術は解けてしまうと。超能力は万能ではない。この力を持たぬ者にも対抗する手段はいくらでもあるのだと。
 ならば、この金縛りが念動力サイコキネシスれば力で、催眠能力ヒュプノシスに因れば意地で、その両方であるなら二つを合わせて何としてでも!
(動け!)
 渾身の力を込めた右足が、少しずつ位置を変え始めた。
(よし!)
 ニトロは内心歓声を上げた。まるで水飴の中にいるようだが、全力を出せば何とか動くことができる。
「これで、いつものニトロ」
 ティディアが左手を店内へ差し向けると、どこからか扉の開く音がし、店の奥から鏡が飛来してきた。トイレの鏡だろう大振りなそれがティディアの姿を隠し、ニトロに彼の姿を見せる。
 そこには髪を染めていた染毛料が落とされ、元の色を取り戻したニトロ・ポルカトがいた。
「こいつは便利な力ですことっ」
 皮肉を飛ばしながらニトロは懸命に一歩下がった。
「頑張るニトロ、大好きよ」
 鏡が路面に捨てられ、耳障りな音を立てて砕ける。その背後から再び姿を表したティディアは真っ直ぐニトロを見据え、やはり無表情に口を真一文字に結んでいる。
 その表情に、ニトロははっと理解した。
 思い違いをしていた。
 ティディアは『無表情』なのではない。これは、たった一つの意志を示しているのだ。薬の過剰摂取オーバードーズでトんだかのような瞳――違う、それは、こいつは、ただそれだけを求めているのだ。
「そう」
 ティディアが、またしても思考を読み告げてくる。
 ニトロは硬直した。ティディアの肯定に心臓までもが緊張に強張る。
 もし、もしそれだけを目的にしているのなら、お前は一体どれほどの決意を固めてきたというのだ。活気漲るお前の瞳から光が失せたのは、妄信的に、あるいは狂信的にただそのためだけに身を捧げる覚悟を決めたからだというのか。
「ニトロ」
 ティディアの凍りついた唇が口づけを求めるように緩慢と動く。
 相貌を塗り固めたたった一つの願望を、明確に言葉とする。

「私を、愛して」

 ニトロは歯を噛み締めた。
「冗談抜かせ……っ」――その時――「コォノバカ姫!」
 突如、空から声が落ちてきた。

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