「?」
それは、その『声』は、本能がかけてくれた救いの呼び声だったのだと思う。
――状況は、最後まで理解できていなかった。
なぜ急にダンスホールにいて、ハラキリはまだ可能性があるにしても芍薬が先頭切ってティディアとの結婚を祝福しているのか。
なぜ急に薄暗い部屋に移って、脱いだ記憶もないのに裸でティディアと抱き合っているのか。
理解できなかったが、それでも一つだけ確かなことがあった。
ティディアに魅惑されている。
それだけは、確かだった。
そして自分は、彼女がもたらす快感に溺れようと動いていた。彼女が誘う悦楽に身も心も投げ入れようとしていた。
しかし、それは本来あり得ないことだ。
確かにティディアの誘惑は、これまでに経験したことのない刺激を与えてくれた。
だがそれでもあり得ないことだ。
大体、奇怪な状況が続いているというのに、なぜティディアの誘惑だけがいつも通りでむしろパワーアップしているのだ?
おかしいだろう。
それは明らかにおかしいだろう。
――とうとうティディアとの一線を越えてしまいそうなシーンで聞こえてきたあの『声』は、それを思い出させてくれた。
『ヤれ』と。
『
そうだ。諸悪の権現はいつでもこいつなのだ。
ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
何が起こってんのかさっぱり解らないけどとにかく自分は奴に誘惑されていて、誘惑しているバカ姫は涙流すほど幸福そうで……ほら、ってことはやっぱりティディアが何か仕掛けてきているんじゃないか。
ふざけるな、お前の思い通りになどさせるものか。
ニトロは『声』に従い激情を注ぎ込んだ。頭を振り上げ、意地と魂と渾身の力を額に込め、ティディアに叩き込んだ。
(……ぉ?)
――そのはずだった。
全身全霊を込めた一撃必倒のヘッドバットはティディアを捉えたはずだった。
見事にティディアを撃退し、この異常事態から解放されている――そのはずだった。
(ぉぉぉおぉ!?)
それなのに、なぜ聞こえてきたのは頭蓋骨と硬い材質の織り成すハーモニーなのだ?
ヅドゴ! なんて物々しい轟音を立てて。
そしてなぜ、こんなにも額がばっくり割れて脳が露出しちゃってるんじゃないかってくらい痛いのだろう。
そりゃもう額から脳天へ、脳天から脊髄を走り足先へと突き抜けるほどの激痛が――
……激痛!?
「ぉ・――――――――――!!??!?」
ニトロは声にならない悲鳴を上げた。
跳び上がるように立ち上がり、自覚すると共に襲いかかってきた尋常ならざる痛みにのたうつこともできず、額を抑えて空を仰ぐ。せめて大声を上げられれば幾ばくか気も紛れるだろうに、強張る喉では声を発することができず、ただ風切り音が口腔を吹き抜ける。
「っ
っ
くおおおおおおおお……っ!」
しかし、激痛にやられている暇などなかった。
奥歯を噛み締め必死に痛みを堪え、とにかく現在の状況を掴まねばとニトロは涙で霞む周囲を見回した。
即、確認できたことは三つ。
まずここは並木道の傍ら、スライレンドのカフェ。
ダンスホールでも薄暗い部屋でもない。やっぱり誰もが寝ているようだけど、それ以外は何もおかしなところは無し。
次に自分は裸でもなければティディアを抱いてなんかいない。
ちゃんとテーブルの前にいて、対岸にはおかしな髪色でタイトな白装束に身を包んだ目がぶっトんでいるっ バカ女!
最後に、どうやらこの額の痛みはティディアではなくテーブルに頭突きをかましたかららしい!
人工石材の天板が割れている!
どうやら破壊できたのはバカの脳味噌じゃなくテーブルみたいだ! コーヒーカップも転げ落ちて砕けちゃってるし! チクショウ後で弁償しなきゃ!
結論:
ついさっきまでの奇天烈な展開は幻覚・非現実!
こっちが現実!
でもならなんであんな幻覚を見ていたんだ俺!
「さっきから一体何してくれてんだ! ティディア!」
ニトロは割れたテーブルの向こう側、相変わらず無表情のティディアへビシッと指を差し向けた。鬼の形相で睨みつけ、原因はお前以外にはないと眼差しに殺気を込める。
それでもティディアは無表情のまま動じることなくニトロを見上げ、ただ気のせいかその肌の底に不機嫌を漂わせて薄く唇を開いた。
「チッ」
「ぉ、おお、ほおお?」
ニトロのコメカミに怒りの血管が浮き上がった。
「『チッ』だと!? この期に及んで舌打ちだと!?」
問いに答えるどころか悪びれもしないティディアに、あまりの憤怒に、ニトロはすでに額の痛みなど忘れていた。
「そっちでも愛の障害、出てくるなんて」
ティディアは
恐れも、怯えも、不安も何も表さず。
セリフは歯噛んでいるようなのに、それでも鉄仮面を続けるのは何のためなのか。
「もう少しだったのに」
もう少し――その言葉にニトロは自分でも驚くほど
(――そうだ)
どんな理屈であんな幻覚を見ていたのか解らないが、ただ確かに、もう少しで堕ちるところだった。
もう少しで……あの『本能からの声』の助けがなければ……
自分はティディアを受け入れていた!
幻覚の中だとてそれを許してしまえばこの現実でも弱くなる。そんな精神で勝てる相手ではないのだ、こいつは。そんな重大な隙を抱えた精神では、ティディアに求められれば、卑猥な妄想に負けた心に足を引きずられて誘惑の淵に落ちてしまう。
(危なかった)
断崖の間際で踏み止まれていたことに今さら安堵する。そして安堵が作り上げた僅かな心の余裕が、ふとした閃きをニトロにもたらした。
(待て、ってことは?)
ティディアは『もう少しだったのに』と、そう言った。
(俺が見ていたものがどういうものだったのか、あいつは――)
知っている?
いや、むしろティディアが幻覚を操作していた。そう判断しても大外れはないだろう。
……だが、一体どうやって。
まさかカプチーノにおかしな薬でも入っていたのかと疑うが、しかしあれはティディアも飲んでいた。それに例え何かしら入っていたとしても、それであいつが幻覚を操れることにまでは筋が通らない。
(なら、他に何がある)
「ふふ。ニトロも、もう少し」
ふいにそうつぶやいたティディアにニトロが意識を戻すと、彼女は椅子を引く音もなく立ち上がった。