「――?」
 それは不自然な切れ方だった。あちらが通話を切ったという感じでもなく、もちろんこちらは何も切断していない。大昔ならともかく今時こんな開けた場所で電波が途切れでもしたのかとモニターを見てみると、
「?」
 電波ではなく、電源そのものが落ちていた。
 故障……でもしたのだろうか。
 怪訝に思いながら電源を入れると問題なくコンピューターは再起動し、モニターには携帯にデフォルトで設定されていた待ち受け画面が映った。ニトロは早速短縮ナンバーからハラキリにかけ直そうと指を動かし――
「!?」
 また、電源が落ちた。
 手動で電源を落とした時と同じく、モニターに終了画面が映り、そして画面が暗転した。
 自分の指は電源を落とすボタンにはかかっていない。誤操作はありえないし、誤動作というにはあまりにおかしすぎる。
 目を丸くしてニトロが再度携帯電話の電源を入れようとしていると、ふいに、うつむきモニターを見つめる彼の額に声がかかった。
「ニトロ」
「っ!?」
 ニトロはじわりと背に冷たい汗が滲むのを感じた。
 今日は友人達に迷惑をかけぬよう、念入りに変装してきた。髪も眉も色を変え、付毛ウィッグで髪型も変え、瞳もカラーコンタクトで変色させている。服装だって普段は着ないファッション誌で取り上げられるようなブランドのカジュアルウェア。芍薬コーディネートの取っておき。
 これで自分が『ニトロ・ポルカト』だと気づける者は経験上いないはずだった。骨格を照合されたらそりゃ判るだろうが、そんな芸当はコンピューターにしかできない。スライレンド駅で待ち合わせていた友人達にだって名乗らなければ理解されなかったくらいだ。
 なのに、テーブルの向こう側からかけられた声。
 確信を持って、『ニトロ・ポルカト』を呼んだその女の声
 聞き違えようもない……声!
「……」
 思わず肩をすくめながら、ニトロはそろそろと顔を上げ――小首を傾げた。
「……?」
 テーブルを挟んだ対面に、いつの間にか一人の女性が座っていた。
 彼女は白いタイトな服に身を包み、赤と青にまだらな頭髪……いや、一体どうやって染めたのか、髪の一本一本をばらばらに赤と青に染めているらしい髪の下に、満足気な微笑を浮かべてこちらを見つめている。
「あの……どなたでしょう」
 思わず、ニトロの口から問いがこぼれた。
 声を聞いた時は間違いなくバカだと思ったのに、しかしそこに座る女性はティディアではなかった。
 得てして掴み所のない顔……とでもいうのだろうか。
 全体的には整っているが、その全体でパーツ個々の魅力を潰しあっているような顔。目は大きく愛らしさを感じるのに、すらりとした眉にはクールな印象を受ける。すっと通る鼻筋は清廉な表情を見せるが、ぷくりと膨らむ唇は淫猥さを帯びている。
 奇妙な、人工的な作為も感じる顔。
 ティディアではない。
 ティディアの顔ではない。
「ニトロ」
 だが、再び彼女が自分の名を呼んだ声はティディアそのものだった。
 声質はあのバカで間違いないのに、顔が違う。その違和感に心がざわめく。落ち着かない心を鎮めようと、携帯電話をポケットにしまいながらニトロは一度眼前の女性から目を離し――そして、気づいた。
(なんだ?)
 周囲の様子がおかしい。誰もが動きを止めている。
 店の奥の席で食事をしている固太りの男性は、豪快にサンドイッチに齧りついた格好で両目を閉じている。
 その手前のテーブルに座る四人組の男女の一人は互いに向き合い、今でも言葉を交わしているような姿で目をつぶっている。
 カウンターの先にいるオーナーは立ち尽くして身じろぎ一つしない。四人組のテーブルへ歩み寄っていたのであろうウェイターに至っては、片手に掲げたトレイに料理を載せたままだ。
 誰もが瞬間冷凍されたように直前の姿を保ち、そのまま動きを止めている。
(何だ?)
 ついさっきまで賑やかだったカフェが不気味に静まり返っていた。
 まるで皆、死んでいるかのようだ。だが違う、死んでいるというわけではない。いずれの肩も静かにゆっくりとだが上下している。息はある。ただ、これは、
(寝て、いる?)
 にわかに信じられぬ結論が、ニトロの脳裡に現れた。
「ふああ」
 隣のテーブルに座る男性が、急にあくびを発した。驚き見れば彼は飲みかけのウイスキートディを手に、板晶画面ボードスクリーンの新聞を読み続ける体勢で――明らかに、どう考えても睡眠をとるには相応しくない姿勢で、瞼を落とすとすぐに安らかな寝息を立て始めた。
「ニトロ」
 三度名を呼ばれ、今このカフェで意識を保っているのは自分と、自分と相席する謎の女性だけだとニトロは悟った。
「ニトロ」
 声。
 ティディアの呼び声。
 眠りに落ちた隣の男に顔を向けたまま、ニトロは恐る恐る瞳を動かした。
「      っ!?」
 視界に戻した女性の姿を見た瞬間、声にならない悲鳴が彼の唇を割った。全身が引き攣り上がり椅子から転げ落ちそうになる。辛うじて背もたれに腕をかけ体を留めるが、驚愕のあまり目の前で起きている現象に息をすることもできない。あんぐりと開かれた彼の口は、叫びたいのか、それとも酸素を求めたいのか、無意味に開閉し空気を噛むしかなかった。
 そこにいる、赤と青の髪の、白装束の女。
 いつの間にかニトロのコーヒーカップを手元に引き寄せ、飲みかけのカプチーノを口にしている彼女の顔が、変化している
 掴み所のない造りをしていたはず顔が次第に形を変えて――否、まるで対象を隠すモザイクが取れていくようにそのパーツ一つ一つが、段々と、段々と、姿を変えてその顔へと入れ替わっていく!
「――ティディア!!」
 彼女はカップをソーサーに置き、我が名を呼んだ少年を見つめた。
「……ニトロ」
 そこに現れた相貌は、見間違えようもない。
 新聞の中で笑顔を弾けさせていた、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。この星を統べる王朝が第一王位継承者。
 その、尊顔だった。

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