久々に充実しながらも肩の力の抜けた一日だった。
それにその締めを、穏やかにこの町で味わえるのがまた良い。
この町――スライレンドは、ニトロの好きな町だった。
子どもの頃から何度となく両親に連れてこられた町なのだ、ここは。
別に聞かせろと言ったわけでもないのに語り聞かされた話によれば、父と母はスライレンドのカフェで出会ったという。
二人が大学生であった時のことだ。たまたま遊びに来ていたこの町のカフェで相席になり、話弾み、一度はその場で別れたものの帰りの電車で再び一緒になり、何のネタなのか降りる駅も通う大学も二人は同じだった。しかも進路まで『地方公務員を考えている』と一致していたからには運命を感じたのも不思議ではないだろう。同じキャンパスですれ違っていたかもしれない父と母が手をつなぎ合うのは、それから間もなくのことだったそうだ。
息子としては、両親の馴れ初めなど聞いていてもくすぐったいだけで嬉しいものではなかったが、あまりにも幸せそうに二人して語るから、何度も聞かされた内容だと分かっていながらも何度でも聞いていた。
……その度に毎回出会ったカフェの名前が変わることにはしっかりツッコンでおいたけれども。
…………恥ずかしげもなく何年間も望んでいた子をようやく授かったのはここで仕込んだ後だとレストランで食事をしている最中に告白された時にゃあ、そりゃもうきっつくツッコンでおいたけれども。
それを思い出すと微妙な気持ちになってしまうが、それでも幾度となく両親に思い出の町に連れてこられる内――幼い頃は二人と手をつないで、それなりに歳を経てからは何年経っても仲の良い二人から少し離れた位置でスライレンドの街を歩く内に、彼と彼女の一人息子にもこの町への格別の思いが育まれていったのは必然に等しいことだった。
(次は早くから来て、芍薬を案内してやろうかな)
カプチーノを飲みながら、思う。
昨夜、芍薬はスライレンドの思い出を嬉しそうに聞いていた。
さすがに一緒に食事ができる相手ではないが、名物の『並木道のカフェ』も味わってもらいたい。
いつもとても世話になっているから、それが礼になるかは解らないけれど、芍薬はきっと楽しんでくれるだろう。
ふいに風が吹き、木々の枝葉がさらさらとそよいだ。
ニトロが居る店は、『並木道のカフェ』の一つだった。ビル街の谷間にあり、周囲より暗がり深い並木道にある。等間隔に並ぶガス灯を模した街灯に照らされる道を行く人はまばらで、一方通行の車道を抜ける車も少ない。それでも道には幾つもの店が並び、それぞれの軒先へ色とりどりの光を差し出している。
ここには寂しいというよりも、落ち着いた雰囲気が満ちていた。
何という名前だったか、白い幹に青々とした葉を頂く樹木。
『並木道のカフェ』の特徴の、オープンカフェ然と広い歩道にせり出して並べられたカフェテーブルに座るニトロは、道側の壁を大きく開かれた店内で賑やかに笑い語らう客らの声をBGMに風波に揺れる幅広の葉を見上げていた。
風が止み、次第に葉の揺れも止まり、目を落とす。
ダークカラーの人工石材の天板に置かれた白いコーヒーカップは黒い水面に浮かんでいるようで、街灯に艶めく磁器の肌がしっとりと流れる時に花を添えている。
「お待たせしました」
隣席で
銀色に輝くトレイの上にはタンブラーを褐色に満たす液体がある。ホットウイスキーに蜂蜜を落とした、ウイスキートディ。スライレンドのカフェ定番の酒で、この町に来れば父も必ず頼んでいたものだった。
『酒が飲める歳になったら一緒に飲もう』
そう言っていた父の顔が、脳裏に浮かぶ。
(あと半年とちょっと……か)
今年の十月十日。
ニトロは、被選挙権といくつかの税を除き成人と同等の権利を得る。
その日から選挙権を持ち、飲酒や喫煙、マニュアル運転免許取得を許可され、各種契約や十六から認められている婚姻なども保護者の許可なく自分の裁量で決められるようになる。
(早いなあ……)
被選挙権を認められ、先に控除された税にくわえて様々な社会的義務の全ても負うことになるのは二十歳になってからだが、それでも己の生きる社会の重要な構成員なのだと自覚を求められることになる一つの区切り。
(…………そうだ)
ウェイターがテーブルに置くウイスキートディをぼんやりと横目に眺め、誕生日にはこの町に両親を誘おうと思う。芍薬をアンドロイドに乗せて、メルトンは留守番でいいや。親孝行というわけじゃないが、自分の将来、アレのお陰で本当にどうなるか分からないから父との約束を果たしておこう。
きびきびとした動きでウェイターが頭を垂れ、トレイを脇に店内へと戻っていく。
隣席の男性がタンブラーの取っ手に指を通した拍子に、
「――」
ニトロは目をそらした。
(あー、そうだ。将来はここで養蜂家を営むのもいいかもしれないなー)
気分転換に、そんなことを思う。
緑豊かなスライレンド。王立公園には一年中花々が立ち代り咲き乱れ、法律でビルの屋上には必ず緑地を作るよう定められている町中には緩やかながらも四季のあるこの地方折々の花が咲き誇る。
ウイスキートディがカフェの定番となったのも、王都というアデムメデス最大の都市の中にありながらそれら豊富な花を礎にした養蜂が盛んなためだ。採蜜を終えた養蜂家が馴染みのカフェに差し入れに持ってきて、そのお返しにカフェのオーナーがお疲れ様とホットウイスキーに蜂蜜を少し落として差し出す……そんなやりとりが始まりだったという。
名産の蜂蜜は確かに美味しくて、気に入った母が自宅の花壇でも蜂蜜を作れないかと言い出したことを思い出す。父も乗り気だった。もちろん即座に却下した。無理だと。それだけの花で蜂蜜作れ言われたら働き蜂も途方に暮れるわと。
息子にがっつり言われてしまってしゅんとする両親が瞼に浮かび、頬が緩んだ。
(蜂蜜、土産に買っていこうかな)
スライレンドの蜂蜜には、ブランド戦略の一環で直接来なければ買うことのできない商品がある。ちょっと値は張るが、それを買っていってやろう。
「――お」
ふと、内ポケットの中で携帯電話が震えた。取り出して着信画面を見る。
「?」
ハラキリだった。
彼から電話をしてくるのはなかなか珍しい。用があっても簡潔にメールを送ってくることがほとんどなのに……
「――もしもし?」
不思議に思いながらも、親友と思う相手からかかってきた電話に出るニトロの声は明るかった。
「どうしたんだ?」
[ニトロ君、今誰かといますか?]
受話口から聞こえてきたハラキリの声に、ニトロは背筋を撫で上げてくる悪寒を感じた。
本当に珍しい。
ハラキリが、慌てている。
「いや、一人だよ」
質問に短く必要十分な答えを返し、そしてすぐさま質問を投げ返す。
「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」
[今そちらに向かっています。ニトロ君がいる場所は『アランデール』で間違いないですね?]
携帯電話の位置測定機能を使って調べたのだろうハラキリの確認に、ニトロは彼がそこまでしてくる緊急性を感じた。気に留めていなかったカフェの名を確かめようと看板を一瞥する。
「そう、アランデール。それで一体どうしたんだよ」
ニトロはハラキリが答えやすいよう自分が『事態』に気づいていることを示した。
「ティディアが何をしたんだ?」
[お
そこで、突如として電話が切れた。