彼女は朗らかな様子で、この荒れた場にあって何の波風も感じていないかのようにくりっとした目を男の顔に向けて、かすかに鼻にかかった声で言う。
「ヘンリー・ユステスさん、あなたは困窮しているとお伺いしておりますが」
唖然として、肩越しに振り向き女の顔を見上げたまま、男は何か喘ぐように口を動かす。
「失礼、ご自分のペンネームをお忘れでしたか。ではご本名を」
「誰だテメエ!」
「恥ずかしながら、ご同業ですわ。セトロ・モドマンさん。お噂はかねがね。いつかはニトロ・ポルカト様に盗聴を仕掛けたところ、大切なA.I.ごとお仕事の全てを失ったとか。最近もまた大変な失態を犯したそうですわね」
男の顔色は、またもどす黒かった。しかしそれは先ほどの色とは違った。女の青く透き通る瞳を見る彼の目は、揺らいでいる。そこには逆に自分が見知らぬ者に知られていることへの恐怖があった。それでも男はこれくらいの事態には慣れているとばかりに、自分に不利になる感情の全てを怒りで上書きするように、
「だからどうしたって言いやがる! まずはこっちに答えるのが礼儀だろうが! テメエは誰だ!」
「落ち着いてくださいませ」
女はポンと男の肩に手をやった。そして男の耳元に唇を寄せると何かを囁く。その瞬間、男の顔から血の気が引いた。どす黒かったものが蒼白となった。驚愕に瞼が限界まで開き切る。彼は立ち上がろうとしたようだが、どうしたことか、何か巨大な物体に押さえつけられているかのように足を滑らせるだけで立ち上がることができない。周囲にはそれがただ彼が衝撃のあまりに腰を抜かしたようにしか見えなかった。が、男は立ち上がれない事実にまた血の気を失っていた。
「やめろ……」
ようやく、男は搾り出すように言った。
「それはやめてくれ、やめろ、頼む」
「あら、本当に息が臭い」
女性は顔をしかめ、その拍子にぐっと手に力を込めたようだった。きっと爪でも食い込んだのだろう、男がギャッと声を上げる。
「やめてくれ! マジで頼む、頼むよ! やめてくれ」
苦痛に顔を歪めて男は懇願し始めた。今にも泣き出しそうな顔で、神に祈るように手を組んで女を拝む。ミーシャとクオリアはもちろん、誰もがその異様な光景に息を飲んでいた。男の肩に手を置いたまま、朗らかに男を見下ろしていた女は言う。
「では消えなさい。そして二度と現れないこと。でなければ、絞め殺されますわよ?」
「なあ、頼むよ? マジでそれだけはやめてくれよ?」
「さあ!」
その言葉に、男は鋭く喉を鳴らした。本当に絞め殺されてしまったかのように顔をまたどす黒くして、うなずいた。
男は立ち上がった。
それと同時に女の手が男の肩から振り落とされた。
「ああ、お待ちになって」
逃げ出そうとしていた男の手首を掴み、女が引き止める。すると男は大袈裟な悲鳴を上げた。
「何しやがる!」
それは思わず毒づいてしまったらしい、すぐに男ははっとして女に謝り始めた。ごめん、ごめんと卑屈に、まるで縋りつくように。
「わたしに謝ってもしかたがありません。このお嬢様方に」
「申し訳ありませんでした!」
即座に男は従い、茫然としている少女達に頭を下げる。
「お約束いたします! 二度と現れませんのでお許しください!」
女は、二人にその美しい瞳で訊ねた。
ミーシャとクオリアは互いに目を合わせた。しばし目を合わせたまま考え、やがてクオリアがうなずく。そこでミーシャは女にうなずいてみせた。
「感謝なさい」
「感謝いたします!」
再び男に頭を下げられても、二人はどう反応すれば良いのか分からない。
「それから迷惑をかけたのですから、ここの支払いはあなたがなさいませ」
「はい、はい、どんなことでもいたしますから」
「よろしいでしょうか。お嬢様方には返金していただくということで?」
問われたのはオーナーである。彼は一も二もなくうなずいた。
「いいや!」
そこに叫んだのはミーシャであった。女が振り返る。男は舌打ちをするようにミーシャを見た。そこには余計なことをするなという脅しがあった。ミーシャは、今度ばかりは屈さなかった。
「それじゃそいつの金で飲み食いしたことになる。それは嫌だ。絶対にごめんだ!」
その興奮した少女の言葉に、女は感じ入ったかのように唇を開いた。男は歯噛みしているようだったが、女の一瞥を受けて震え上がる。女はオーナーを見た。オーナーは感嘆の念を目に浮かべていた。そこに拒否はない。
「これは考えが至らず、差し出がましいことをいたしました」
女は少女に頭を垂れると、男の手首を離した。
男は今度こそ逃げ出していった。事態を把握できず不安げに店内を伺っていた順番待ちの列を掻き分けるようにして、脇目も振らずどこかへ走り去っていく。
――嵐の去った後、店内は静まり返っていた。
皆が女を見つめていた。
先刻まではその食べっぷりで注目を集めていた女が、今は全く別の存在として皆の目に映っていた。
「まあ、あの方は色々と怖い方々にも目をつけられているのですわ」
自分に集まる視線が『何を言って男を脅したのか』という問いかけであるとでも思ったのか、女はそう言った。だが、もちろん誰もそんな問いかけをしていたのではない。それでも驚愕を構成していた一部が明かされたことで、周囲には奇妙な安堵が広がっていく。
ほお、と、どこかで吐息が漏れた。
それが一気に空間を緩和した。
ざわめき出す。
オーナーが騒ぎについて客達にお詫びをし始める。
その声を聞きながら、やはり皆は謎の女から意識を外せないでいた。
半ば呆けるように女を見つめていたミーシャは、ふと、吐息を漏らしたのは誰であったかを知った。
クオリアだった。
食べかけのスイーツの向こうで、友達は懸命に涙を堪えているようだった。体が震えている。ミーシャは、ああ、と思い至った。あれだけを言うために、彼女はどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。
「クオリア」
ミーシャはそっと手を伸ばした。そこで彼女は自身も震えていることに気づいた。
クオリアが微笑み、やっと手を伸ばしてくる。その手もやはり震えていた。
二人は手を組んだ。
震える二人は、お互いの震えがぶつかり合って、しだいに消えていくことを感じた。
「大変でしたわね」
あの女性が声をかけてくる。
二人は彼女を見上げ、しかし何も言えない。
「とても立派なお振る舞いでした。あなた方は
目を細めて女は言う。その言葉にミーシャは涙ぐむ。そのまま堪えていたものが決壊し、ぼろぼろと溢れ出す。クオリアも同じであるようだった。ただ彼女はそれでも懸命に涙を堪えていた。二人の様子に隣の――あの男に椅子を奪われたテーブルの婦人達が慌てて近寄ってくる。見知らぬ婦人の優しい声に、ミーシャは少しだけ平静を取り戻した。
「少し、休ませておあげになってくださいませね」
女がオーナーに言うと、彼はもちろんだと胸を張った。
ところで店内はまだ正常ではない。
まだ誰も、再び甘い世界に溺れようとはしていない。
当然であろう。
しかしそれを打ち破ろうとするかのように、女は大袈裟にため息をついた。
「それにしても、思わぬことで大切な時間を使ってしまいましたわ」
そこにオーナーが何かを言おうとする。無論、その時間を巻き戻そうとしたのだろう。だが女は目で制した。美しい瞳に射抜かれてオーナーは沈黙する。そして女は続けた。
「後で食べようと思っていたパフェも、五段重ねにしてみたかったパンケーキも、特に美味しかったケーキだってあと三つずつは頂きたかったのに。そうそう、マカロンも口一杯に頬張るつもりだったのですわ」
そこかしこで吐息が漏れた。それは明らかに呆れ声が形にならずに漏れ出したものであった。ミーシャも流石に呆れてしまった。この人はまだまだまだまだ食べようとしていたのか!
「でも何より残念なのは、最後の一杯を頂けなかったことですわね」
そう言いながら席に戻り、小旅行に行けそうなバッグを重そうによいしょと持ち上げる。実際、これから彼女は出張でもするのかもしれない。
帰り支度をする彼女はちらりと少女達を見る。
その視線に気づいたミーシャはクオリアと目を見合わせた。
「大変ご馳走になりました。皆様ご将来が楽しみですわ」
ビュッフェ台の後ろでまごついていたパティシエ達が恐縮そうに頭を下げる。女はオーナーに礼を言い、ウェイター達にも微笑を残して去っていこうとする。
「あの!」
まだ膝に力の入らぬミーシャは彼女を大声で呼び止めた。
太陽にきらめく海のような瞳が振り返る。
「何でしょうか」
彼女の眼差しはこちらに期待を寄せている。ミーシャは、言った。
「最後の一杯って……」
すると謎の女は格別に微笑んだ。
「エスプレッソですわ」
その幸せな声に、ミーシャはつりこまれた。彼女だけではない。クオリアも、他の誰もがそれを聞く。
「わたしはスイーツの後に飲むエスプレッソが大好きですの。量はシングル。お砂糖はたっぷり。香りを楽しみながらスイーツの思い出を振り返り、その思い出ごとさっと飲み干して、それから底に溶け残ったお砂糖をすくって食べるのです。とても苦くて、くどいほど甘くて、ほろ苦い。それこそ大人の味なのですわ、素敵なお嬢様方」