男がずかずかと進んでくる。連れがいるとなれば止められないのか、店員はその場に留まっていた。ミーシャとクオリアはその男のことなど知らない。しかしどこかで見た覚えがあるような気がする。
「探しましたよ」
 近くにあった使われていない椅子を、そのテーブルに座る婦人達に断りもなく引き寄せ、男が強引に相席してくる。
 そこでミーシャは思い出した。
 その男は、カルカリ川の橋でクオリアにぶつかってきた男だった。年の頃は三十前後、髪型は整っているが、無精髭がだらしなく顎を汚している。服装にはさほど気にかかるところはないものの、顔色が悪く、目が妙に赤く潤んでいて、粘るようにぎらついている。
「いや良かった、見つかって本当に良かった」
 随分走り回っていたのだろう、男は額から落ちる大粒の汗をぐしゃぐしゃのハンカチで雑に拭った。
 ミーシャは男を睨みつけていた。
 クオリアは男から遠ざかるように身を引いている。
 周囲の目もここに集まり、ほとんどは胡散臭げに男を見やっていた。店員は、どう対処すれば良いのか判断つきかねているらしい。
「えー、ミサミニアナ・ジェードさん」
「え!?」
 突然フルネームで呼ばれ、ミーシャは思わず声を上げた。
「それから……そう、クオリア・カルテジアさん、でしたね」
 クオリアは眼をすがめ、男を見つめる。
 いよいよ周囲の目は怪訝に染まる。しかし名を知っているからには何も無関係な間柄ではないらしいと様子を伺う空気の中で、男は言う。
「先ほどは幸運にもお二人にお会いしておきながら、大変失礼を致しました」
 言葉遣いは丁寧であるが、それだけに怪しい。ミーシャはいざともなれば男を突き飛ばそう、そして店員に助けを求めようと身構える。その気配を察知したのか、男が居住まいを正すようにしてクオリアの方へ少しだけ身を寄せた。
「いえいえ、心配されることはありません。わたくしはあなた方に相談があって参ったのです」
「相談?」
 無防備にもミーシャは問い返してしまった。男が満面の笑顔で大きくうなずく。
「ええ、そうです、相談です。これはあなた方にしか頼めないことでありまして、またあなた方にとって大変有益なことなのです」
「申し訳ありませんが、私達がそのご相談を受けることはないでしょう」
 背筋を伸ばし、クオリアが言った。彼女の顔にはあからさまな嫌悪がある。だが、男はむしろ親しげに、
「いえいえまずは内容をお聞きになってからでも。聞くだけならば何の損もございませんでしょう? ほんの少しのお時間を、こちらを助けるとでも思って。ですが、わたくしはやはりあなた方のためを思って言いましょう、お聞きになれば有益だと」
 どこか卑屈に男は言う。ふつふつとミーシャの胸に怒りが湧き上がる。
「もういい! どこであたし達の名前を知ったのか知らないけど」
 感情に任せてミーシャは男を追い返しにかかったが、しかしその声に怯えが潜んでいることを男は聞き逃さなかった。クオリア側に寄せていた身をぐっと彼女へ寄せる。思わぬ反応に少女は言葉を途切らせた。そこに男が声を強めて言う。
「ええ、わたくしはあなた方を存じ上げています」
 と、そこで声を潜める。
「よく、ね? よく知っている」
 ミーシャは、ゾッとした。クオリアは鼻頭に皺を寄せて男を睨みつける。男は自分達の何を知っているというのか。それはただのハッタリかも知れぬ言葉であったが、それでも少女を怯えさせるには十分だった。
「まあ仲良くやりましょう。最前さいぜんから申し上げている通り、別にあなた方に危害を加えにやってきたのではないのです。ただ有益なお話を持ってきたのです。そう、あなた方はとてもと仲が良い」
 そのセリフに、瞬間、ミーシャの眉目が吊り上がる。
「おい、てめえ!」
 反射的にテーブルを叩き、彼女は立ち上がった。店内がざわめく。男は何も聞こえなかったかのように笑顔のまま、
「そう、わたくしは『ニトロ・ポルカト』の件でお話をしにきたのですよ、ミサミニアナ・ジェードさん。いえ、ミーシャさんとお呼びした方がよろしいですか? ミーシャ、ミーシャ! そう彼もあなたを呼んでいる」
 ミーシャは吐き気がした。もう怒りは脳天にまで発している。だが、それ以上に怖かった。見知らぬ男に『愛称』で呼ばれることがこんなにも怖いとは知らなかった。
「ああ! これはビジネスですよ!」
 男が急に背後へ振り返り、叫んだ。そこにはオーナーが近づいてきていた。
「ビジネス! なにもこの子達に手をつけようってんじゃねえんだ! それともなんだ、ここじゃビジネスの話をしちゃいけねえってえのか! この店は客に自由に話させねぇってえのか!?」
 口調も豹変させてオーナーを押し留めた男は、次の瞬間には別の方角へ振り返り、
「そこのオンナ! なに撮ろうとしてやがんだ!」
 携帯電話モバイルを構えていた若い女性が肩を震わせる。他にも何人かが慌てて自分の携帯カメラを隠した。
「さっさと止めろ、オイ、訴えんぞ! 権利の! 侵害! こっちはプロだ! どうなるか解ってんだろうなあ!!」
 若い女性は涙を浮かべて首を振った。モバイルを腰の後ろに隠して、それきりうつむいて顔を上げない。
 男はミーシャとクオリアへ顔を戻した。その時にはもう、彼は満面の笑顔であった。
 ――ミーシャは、もはや怯えきっていた。
 立ち上がっていたはずなのに自分でも気づかぬ間に椅子に座りこんでしまっている。怒号を上げる男の声は聞いたことのない『男』のもので、そこに荒れ狂った暴力の陰が彼女の膝を震わせていた。
 いいや彼女だけではない。今の一喝はこの場をも全く萎縮させてしまった。中には恐る恐る敵意を男に向けている者もいるが、それが何の助けにもならないことは明らかだった。さらに悪いことに――『ニトロ・ポルカト』――その名が出た時、一種奇妙な結託が男と周囲の間に走っていた。それは明確なものではなく、周りの誰も自覚はしていないだろうが、その名に含まれる“情報”がこの場を縛ったのである。
 そう、誰だって知りたいのだ、彼のことを。
「そんなに彼と親しいあなた方だ。まだ皆の知らない『ニトロ・ポルカト』の情報をたくさん持っておられるでしょう」
 男は言う。
「それは皆の宝です。それを少しばかり公開することを、わたくしに交渉させていただきたいのです。あなた方には何の悪いこともない。もちろん情報源は秘匿いたします。『ニトロ・ポルカト』には誰が話したかなんて判りませんよ。ね、悪い話ではないでしょう? あなた方はただちょっとわたくしと『ニトロ・ポルカト』についてお話するだけでよろしいのですから。美味しいレストランに行きましょう。そこでじっくりお話しましょう。もちろん支払いはわたくしに任せてください。ああ、謝礼のことをまだ申し上げておりませんでしたね。当然、あなた方には相応の対価を支払わせていただきます。何しろあなた方はお宝を持っておられるのだから! ただでなどとは! いやはや、そんな無礼なことを申し上げるはずがないではありませんか。ねえ? なんにも悪いことはないんですから。あなた方は『ニトロ・ポルカト』を誉めてくださるだけでいいのです。それで良い服が買えるんです。お小遣いですよ、ラッキーなアルバイトです、いやアルバイトなどと言っては失礼ですね、違いますよ、ただただわたくしがあなた方にご奉仕致したいのです。ね? 悪い話じゃないでしょう?」
 ミーシャは泣きそうだった。男の話を聞いていたくなんかなかった。しかし足が動かない。何かを言おうとすると顎が震えて、喉からは嗚咽が溢れそうだ。彼女は怖かった。何が怖いと言えば、悪意である。男の声にはべっとりとした感情が絡みついている。男が『ニトロ・ポルカト』と言うたびに、そこに尋常ならざる敵意を感じる。まるで怨みがあるかのように、顔には笑顔を張りつかせたまま、その裏側ではあたしの大事な友達の首を噛み千切ろうとしている。――それに協力しろと言うのだ! そしてそれが“悪いことではない”と言うのだ!
「ああ、そうか!」
 男はうっかり大事なことを見落としていたとばかりに手を打った。
「謝礼と言いながら、それについて何の具体的なお話をしておりませんでした。少なくとも10万、お話によっては100も1000も可能です。お話がとてもとても興味深いものであればあるほど、あなた方は儲けられる。いえ金ばかりじゃありません。もしや彼の偽善を暴けるようなら、あなた方は正義です……あの希代の王女様を巧妙な罠から救う正義のヒロインとして世に讃えられるのです!」
「息が臭い」
 ふいに、誰かが言った。
 ミーシャは初め、どこか遠いところでその声がしたのだと思った。
 男も呆気に取られているらしい、彼はそちらに振り向いて、さらにポカンとする。
「ゴミ溜めよりも臭い。糞を食ったってそうはならない」
 ミーシャはその声の源に気づき、彼女を見た。
 頬のこけた痩せぎすの少女が、正面から男へ言い放つ。
「その口を閉じてさっさと消えろ。二度と現れるな。でなければ、絞め殺してやる」
 呆気に取られたまま、男はしばらくクオリアを見つめていた。
 やがて自分がこんな今にも骨の折れそうなガキに面罵されたのだと理解すると、その顔をどす黒く変色させた。怒りだけでなく、笑顔の裏にあった悪感情の全てが混ぜ合わされたようであった。ミーシャは必死に立とうとした。きっと男はクオリアを殴る。それより早く男を突き飛ばさなければ!
「先ほどから景気のよいお話をなさっていますね」
 その時、明るい声がその場に入り込んできた。
 皆がそちらへ振り返る。クオリアへ激情をぶつけようとしていた男さえも驚き振り返っていた。
 いつの間にその人は近づいてきたのだろう?
 男のすぐ背後にあの底無しの胃袋を持つ女性が立っていた。

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