翌日の朝。
ミーシャとクオリアは登校するなりクラスメートに囲まれてしまった。スイーツバイキング店『グラン・ボナ』での一件が、結局あの場に居合わせた客達によってインターネットメディアに伝えられたためである。その反響は大きく、一夜が空けると大手報道機関にも取り上げられ、各局のワイドショーでは『いたいけな少女達に絡んだ“自称プロ”』への罵倒が繰り返されていた。
もちろんその悪漢に絡まれた少女達が誰であったのかという具体的な証言はどこにも見られなかったが、二人を知る者にとっては、それがミサミニアナ・ジェードとクオリア・カルテジアのことであることは容易に知れた。教室にはミーシャを慕う陸上部の後輩達もやってきて、SNSで連絡を取っていたとはいえ、先輩の無事な姿を実際に確認するや安堵の涙を流した。同期の部員達も彼女を見舞いに来ては安堵を隠さない。
しかし事件のことで動揺しているのは周囲ばかりで、当の二人は奇妙なほどに落ち着いていた。
それが周りには不思議であった。
ミーシャは心配してくれた相手に明るく応じるし、時にはもらい泣きしながら相手の見舞いの言葉に偽りない喜びと感謝を示す一方、事件について答える際にはどこかニュースで知ったことを話すような調子となる。恐怖や嫌悪を否定はしないが、事件そのものについては全く淡白なのだ。そう、それは妙に客観的であり、まだ一日と経っていないのに既に飲み込まれた遠い過去のことと言わんばかり。クオリアに至ってはそもそもそんな事件になど遭遇していないというように、誰に何を聞かれても黙々と朝から熱心に絵を描き続けるだけ。
昼休みには校長が二人を呼び出した。慰めの言葉と共に悪漢への怒りが表明され、そして力になれることがあれば何でもすると約束したらしい。教室に戻ってきた二人を早速皆が取り囲んだが、やはりミーシャは明るいだけで冒険譚を語るような興奮はなく、動揺もなく、クオリアはひたすらペンを動かし続ける。その反応が、学内におけるこの事件への興味を静かに、しかし急速に鎮めていった。
そのため“見舞い客”もすっかりなくなった放課後、ニトロはようやく二人とゆっくり言葉を交わすことができるようになった。
二人に降りかかった災難を知った時、彼は大きな衝撃を受けたものである。すぐに連絡を取った。だが、
「だからもうなんでもないんだって」
あっけらかんと、ミーシャはやはりそのように言う。机に腰かけた彼女は足を組んで腕を組み、
「電話でも言ったろ? ニトロが気にするようなことは何もないんだ」
彼女の座る机の椅子にはクオリアがいる。彼女は今もまだ大判の
「クオリアもそう言ってただろ?」
昨晩、ニトロの電話口に出たのは二人同時だった。ミーシャと、ミーシャの家に泊まることにしたクオリアとの会話を思い浮かべ、彼はその時の困惑をそのまま再現するように、
「まあ、そう言ってたけどさ」
「ならもういいだろ」
「そうは言われても、やっぱり何かできることがあるなら」
「しつこい」
ミーシャは唇をへの字にする。むき出しの膝の下で揺れていたつま先が、まるで獲物を狙うかのように静止する。
ニトロは、吐息をついた。引き際である。ミーシャがそこまで言うのであれば、そしてそう言った時の彼女の顔を思えば、こちらからはもう何も言えることはない。ただ、
「本当に無事でよかった」
「うん、ありがと」
彼が引いたことが実に満足であるように、ミーシャは大きくうなずいた。近くにはこちらを見つめるキャシーがいて、その隣でクレイグは笑っている。先ほどミーシャと口喧嘩を繰り広げていたフルニエは少し離れた席でまだ不満そうだ。彼は“自称プロ”への正義の執行をあくまで主張していたのだが、逆にミーシャはそれこそがどうにも我慢できないらしい。別に博愛精神なわけじゃない、ただそれが気に食わないの一点張りで退ける。妥協点も譲歩もないその喧嘩をとりなしたのはダレイであり、その最中もクオリアは意に介せず絵を描き続けていて、
「お、ハラキリ、どこ行ってたんだよ」
教室に戻ってきたハラキリにミーシャが声をかける。
「トイレですよ」
「随分長かったぞ?」
「答えましょうか?」
「やめろ」
顔を歪めるミーシャへ飄々と肩をすくめてみせたハラキリは、そこで自然にニトロを一瞥した。その目に異常を報せるものはない。彼に各方面に探りを入れてもらっていたニトロは、やっと――心の底から――安心した。
「食事風景ですか」
クオリアの絵を覗き込み、ハラキリが言う。
「と言うより食事する女性ですかね、主題は」
そういえばニトロはクオリアの絵をまだしっかりとは見ていなかった。彼女の背後に回りこめば線画が目に入る。確かに満席の店内が描かれ、客は皆
「一人大食い選手権?」
そうつぶやいたと同時、ニトロは合点した。
「ああ、これが?」
「とっても素敵な人だったよ」
ミーシャが言った。
現在、
クオリアがペンを止め、ボードスクリーンを操作した。カラーパレットを呼び出して色を作り出す。色調は青。『レディ・グラトニー』は青い目をしている……都市伝説を語るように、それは口から口にコピーされている。だが、どんな青だったのだろう? 彼女をはっきり捉えた画像は出回っていない。
画家は何度も何度も色を作り直した。キャシーとクレイグも覗きにくる。フルニエだけ一人離れて不貞腐れている。
「ああ!」
苛立たしげに、クオリアが息を吐いた。
そこではたと絵を覗かれていることに気づき、周りを見る。そしてニトロと目が合った時、
「あ!」
一個に囚われていた視界が一気に全体へ広がったように眼を見開いて、彼女は急いで言った。
「セケル、ヴィタ様を」
今度はニトロが目を丸くする。クオリアのボードスクリーンにA.I.が王女の執事の画像をいくつか表示する。彼女は執事の瞳に宿るマリンブルーをカラーパレットに吸い出した。再び描画に戻り、その女性の瞳を塗っていく。何より画家の心に残ったらしい色彩が、生気に溢れる瞳を描き出す。
ニトロはハラキリを見た。ハラキリはただ絵の描かれていくのが楽しいといった様子で画面を見ている。ニトロも絵に目を戻した。
「うん、うん!」
ミーシャが勢いよくうなずいている。どうやらそれが『正解』らしい。
やっと満足がいったクオリアは、そこで一息をついた。手を組んで伸びをして、その体勢のまま背後のニトロへ振り返る。
「ねえ、ヴィタ様にご姉妹はいらっしゃるのかしら」
「――いや、聞いたことはないな。なんで?」
「こんなに綺麗な瞳はそうそうないと思うんだ。もちろん皆無とは言わないけれど、でもお身内だったらその可能性は高くなるでしょう? あの物腰もそれだったら納得だし、ヴィタ様も健啖家だってお聞きしているわ」
「顔は全然似てないけどな。声も全然違ったし。だけどあたしもそう思う」
合いの手のようにミーシャが言う。クオリアはうなずき、
「
ニトロは首を傾げる。ハラキリは筆が止まったのを機に適当な席に座り、あくびをしている。
「何もしなくていいって言ったけどさ」
クオリアの提示した可能性に興奮を隠さず、ミーシャがニトロへ言う。
「聞いてみてくれないか? もう一度会いたいんだ」
「私も」
ニトロはまた首を傾げた。二人だけでなく、キャシーにもクレイグにも、ダレイにもフルニエにも注目されて居心地が悪い。ハラキリは眠そうである。そんな友へ殴りかかりたい気持ちを抑えつつ、ニトロは言った。
「同じ大食いってことで親近感を感じて“カラコン”を入れてたんじゃないのかな。それだと身内でなくても、誰でも可能性は高くなる」
「そう言われると自信がなくなるけど、あれはそういうのじゃないわ」
言葉とは裏腹に、クオリアは断言する。ニトロは少し考え、
「分かった。一応聞いてみるよ」
「その言い方だと、なんだか望み
「職業柄、秘密も多い人だからね」
彼の指摘はもっともで、そのため皆の顔に失望が現れる。特にミーシャとクオリアは、まるで女執事の血縁にその人がいるとすっかり確信していたかのようにがっかりする。それが心に刺さり、ニトロは思わず言った。
「ただ、もし本当にヴィタ様のお身内にその人がいらっしゃったとして」
二人が目を上げる。ニトロは続ける。
「そしてやっぱりそれを明かせなかったとしても、一応、伝言を預かっておくよ」
彼の口振りから、それがお人好しの心遣いであることを二人は悟った。何か言い合うように目を合わせ、ふいに、どうしたことか手をつなぎ合う。奇妙なやり取りにニトロが戸惑っていると、二人の総意を伝えるようにミーシャが言った。
「あたし達にはまだエスプレッソは
思わぬ言葉にニトロは眉根を寄せた。皆も理解できず、ハラキリも目を醒ましたようにこちらを見ている。その中で、ミーシャとクオリアはくすくすと笑い合う。
「とりあえず、それだけ?」
ニトロが確認すると、笑い合っていた二人の顔がぐっと真剣みを帯びる。
「つい、お礼を言いそびれたの。あの時はまだ気持ちがまとまってなくて」
クオリアの後を受けミーシャが続ける。
「だから本当にありがとうございましたって――本当に、本当に!」