ケルゲ公園駅前から徒歩三分、繁華街の目抜き通りから一本裏に入ったところ、地下にBAR、二階に雑貨店を構えるビルの一階にその店はあった。
店の情報を読み込んでみれば、そこは三ヶ月ごとにパティシエを代えてスイーツバイキングを行っているという。招かれるパティシエのプロフィールは様々で、過去の履歴を見ると誰もが名を知るようなビッグネームがいれば、店舗開設を目指すルーキーもいた。今回のゲストは三人。いずれも将来を嘱望される若者達だ。ここまでの評判も上々のようで、ミーシャとクオリアが店にやってくると列ができていた。賑わう店内にいるのは女性が大半、恋人の連れ添いといった男性がちらほら見えて、単独でいる男は一人だけ。しかし彼が幸せそうであるのが何より味を保証しているように思えた。幸い待ち時間は短い。クオリアが最近読んだ本の感想を話し終わらぬうちに、順番が回ってきた。
「わ」
店内に入ったミーシャは思わず歓声を上げた。
実に上品な空間だった。
少しばかり時代がかったインテリア。それに合わせた服装のウェイターが爽やかに出迎えてくれる。銀色に輝くビュッフェ台に並ぶスイーツは鮮やかな色彩でまず目を楽しませ、そして食欲に訴えかけてくる。台はウェイターがこまめに整えているようで、バイキングにありがちな食べ散らかされた様子はない。清潔で、甘やかな香りが満ちていた。そこにこちらも飲み放題のドリンクからコーヒーの香りがビターなアクセントを加えている。
ミーシャとクオリアはクーポンを使用して、70分間のパラダイスに参加した。
二人用のテーブルに案内されるなり、席の下の荷物カゴにバッグを置き、ビュッフェ台に向かう。ケーキは当然、プリンやミニパフェもあった。ジェラートもあり、マカロンのような焼き菓子もある。台の後方に浮かぶ
「……それだけでいいのか?」
木目調の席に着くや、ミーシャはクオリアの皿を見て眉をひそめた。そこには正方形のケーキが二つ――赤と白のバランスも綺麗なフレジェと、素朴なチーズケーキ。それにミルクティーが一杯。
「やっぱり損だろ」
「たくさん取っても食べ切れないから、様子を見るだけよ」
笑うクオリアはミーシャの皿を見ていた。そこには五種類のケーキが雑に並んでいる。食べたいと思ったレアチーズケーキは二つ取ってきていた。それぞれ小振りながらも合計六つ。加えてピスタチオのジェラートもカップに取ってきている。ドリンクは忘れていた。
「そっちは食べ切れるの?」
「これぐらい、ぺろりだ」
早速フォークを手にしてオレンジピールの入ったレアチーズケーキを口に運び、フォークを咥えたままにミーシャは目を細める。ん〜ッと鼻を抜ける歓声がクオリアの耳をくすぐった。クオリアはフレジェの角を削って舌に乗せ、微笑んだ。
「正解!」
ミーシャが言うのに、クオリアもうなずく。
それからミーシャはあれこれとケーキを味見し始めた。一つ食べては快感に身をすくめ、一つ食べては頬を緩ませる。ころころ変わる彼女の顔をじっと見つめながら、クオリアはフレジェを少しずつ減らしていく。
味見が一巡したところでミーシャは一つ一つの感想を言い出した。目を輝かせて語る彼女には、友達とこの幸せを共有したい願望が満ちている。そこでクオリアはレアチーズケーキを少しもらった。ミーシャがじっとクオリアを窺う。目を細めてクオリアがうなずくと、ミーシャの頬はそれを味わったとき以上にほころぶ。そんな友達の顔がクオリアには新鮮だった。
これまで陸上競技に打ち込んできた体育会系の食欲とでもいうのだろうか、ミーシャはあっという間に皿を空にした。クオリアはチーズケーキに取りかかったばかりである。その様子にいくらかバツの悪そうな面持ちを見せたものの、
そしてカフェオレに砂糖を入れながら、一段落ついたようにミーシャは言う。
「そういえばさ」
「ええ」
「聞いてもいいかな」
「聞きたいことがあるならどうぞ」
「言いたくなかったらいいんだけどさ」
「ええ」
「ダレイとは、どうなんだ?」
問いかけてきたミーシャの態度には気後れがあり、反面、恋への関心がその瞳に輝いている。クオリアは大きな眼で彼女をじっと見つめ、かすかに首を傾げた。
「なんでもないわ」
「マジで? だってよく一緒にいるじゃないか」
「ええ、よく手伝ってもらってる」
ミーシャが少し疑わしげにクオリアを見る。
「手伝わせてるだけか?」
「お話もするけれど、彼はあまり喋らないタイプだからね」
「クオリアとは話してるぞ、ダレイは」
「そうね。お話して、手伝ってもらって、そして彼のお陰で私はこうしてミーシャと話しているわね。感謝しているわ」
「好きじゃないのか?」
突然、単刀直入に質問が来た。クオリアは笑ってしまった。
「好きか嫌いかで言えば、好きよ。でも、ミーシャはそういうことが聞きたいんじゃないでしょう?」
「……うん。でも言いたくないならいいんだ」
「言いたくないわけじゃないの。だけど、答えはさっきと一緒。なんでもないわ」
ミーシャはまた取ってきていたオレンジピールのレアチーズケーキを口にした。
「……ダレイはさ」
「うん」
「きっとクオリアのことが好きだ」
クオリアはそっと目を伏せた。ミルクティーをスプーンで一混ぜし、
「私はそうは思わない」
「なんで?」
ミーシャは目を丸くした。クオリアは細い肩をすくめる。
「そう言われたことがないから」
「どういうこと?」
「私ね、自分のことに関しては、その人が私のことをどう思っているのか、好きか嫌いかちゃんと言われないと、どっちだろうって決めないことにしてるの」
「え? じゃあ、クオリアはあたしがクオリアのこと好きだって思ってくれてないのか?」
随分簡単にそれを口にされ、今度はクオリアが目を丸くした。ミーシャは自分が何を言ったのか思い当たり、はっとして顔を赤くする。が、すぐにクオリアを見つめ、
「でも、本当だよ」
「ありがとう」
嬉しそうに応えられ、どう反応したものか戸惑うようにミーシャはチョコレートケーキを食べる。唇から離したフォークを軽く振り、
「だけどさ、そういうのって、何となく分かるだろう?」
クオリアは内心、ある少年への片思いをずっと秘めている友達の言葉に、苦笑とも困惑とも言えぬものを抱いた。しかしそれを表さぬようにうなずき、
「そうかもなって思うことはね」
「それじゃあ?」
「それでも決めないことにしているの。この人は私を好きかも知れないけれど、そう決めない。この人は私を嫌いだろうけれど、そう決めない」
そう言うクオリアの声音に、ミーシャは何か重いものを感じながら、しかし言う。
「でもさ、嫌いって言われないとそう決めないってのは、辛くないか? 嫌われてるって感じてるのに普通にするのはキツイし、つうか直接嫌いって言われるのはもっとキツイじゃん」
「私はほら、つい熱中しちゃうタイプだから。一つ思えばこう、ガーッと」
「? うん、そういうタイプだよな、いや悪い意味じゃなくて。クオリアのそういうとこ凄いと思ってる」
「ありがとう」
嬉しいのだろうが、どこか困ったように笑って、クオリアはミルクティーを一口飲む。
「だけどね、私のことを好きでいてくれる人を『嫌ってる』って決めつけて、私のことを嫌ってる人に『好きでいてくれる』って思い込んじゃうのもキツイものよ」
それをクオリアはまるで一般論をそらんじるように言った。ミーシャは、思わず顔を強張らせた。クオリアは微笑む、なんでもないように。
「変ね、あまりこういうことを話すのは好きじゃないんだけど」
「じゃあいいよ、言わなくてさ」
「ううん、ただ、私はこれまでたくさん失敗をしてきたの」
「――うん」
「昔は自分はそれで後悔するような人間じゃないと思っていたけれど、どうもそうじゃないみたいで、だけどもう過ぎちゃったことだからいいやって思っていて、でも、これ以上失敗はしたくないかなぁって思ってる」
「うん」
「私はよく変わってるって言われるんだけど、変に普通なところもあるみたい」
「うん」
「最近は、ちょっとね、楽しいんだ」
「うん」
「本当にダレイのお陰。思いもしなかったな、ハラキ――ハリーと」
言い直されたその名にミーシャは思わず吹き出しそうになる。しかし一歩離れたテーブルも埋まっているから、その“配慮”にうなずいてみせる。
「ポルカロが、面白い人たちだったのは」
「そうだな」
流石にミーシャは笑ってしまう。クオリアも小さく笑い、
「初めてだったんだ。初対面で私は『爆発』したのに、ポルカロは驚いてもすぐに普通にお話ししてくれて、ハリーなんてむしろどこかどうでもよさげにしているんだもの」
「ああ、うん、わかるわかる、あいつはそうだよな」
「そのわりに彼もちゃんとお話ししてくれて」
「うん」
「ポルカロは、いつも真面目に考えてくれるわね」
「うんうん、てかお人好しだよ」
「私は別にそれまで寂しかったわけじゃないし、楽しくなかったわけじゃないの。本を読んで絵を描いて、ちゃんと楽しかった」
「うん、信じるよ」
「……。でね? だけどミーシャとも知り合えて、今はもっと楽しい」
「改めて言われると照れるなあ」
「意外なことに、言った私も照れると思ってたのに照れてない」
ミーシャは笑う。クオリアはチーズケーキの残りを食べる。
「それでも、楽しい今も、やっぱり私は『決めない』んだ」
話題が戻ったことに気づいてミーシャはうなずく。
「決めないままで楽しかった毎日がもっと楽しくなっているのに、それを変える必要もないでしょう?」
本心で言えば、ミーシャはそれを否定したかった。いや、以前の自分だったら即座に否定しようと躍起になっていただろう。しかしクオリアがハラキリとニトロの影響を受けて楽しんでいるように、自分もあの二人の影響を受けていた。冷淡なようで妙に人を観察している曲者と、大変な生活を送りながらも人を気遣えるツッコミ屋。今、ミーシャはクオリアのその信念にも似た言葉を寂しく思いながらも、それを尊重しなくてはならないと感じていた。やっぱりクオリアは間違っていると思うし、もしそれに意見して良いならそうしたいけれど、少なくとも、それは今ではない。
オレンジピールのレアチーズケーキを食べ終えて、ミーシャは言った。