ミサミニアナ・ジェードとクオリア・カルテジアは、ケルゲ公園から駅に向かって橋を渡っていた。つばの大きな麦わら帽子をかぶったクオリアは人ごみの中で転ばぬように気をつけながら、薄く小麦色に日焼けした友達に言う。
「ちょっと待って、ミーシャ」
 その声に、ミサミニアナ・ジェード――ミーシャは慌てて振り向いた。相手の歩調に合わせていたつもりだったが、前から来る人とすれ違ったり後ろから来る人に追い越されたりしているうちに、いつの間にか二人の距離は離れかけていた。
「ごめん」
 と、立ち止まろうとするが、人波の勢いは遮ることができない。昨年大ヒットした『映画』の舞台の一つとなり、つい先日その公開から一周年を迎えた今日こんにち、元より有名であったケルゲ公園にはさらに人が集まっている。公園に向かう人の流れから外れたカップルが、どうやら撮影場所へのARガイドを見ているらしい、二人が距離を縮めようとしていることに気づかず間に入り込んできた。ぶつかりそうになったクオリアが足を止める。それを背後にいた男がわずらわしそうに押しのける。
「危なっ」
 よろめいた友達へミーシャは手を伸ばし、その細い腕を取って支えた。次いで男に鋭い目を投げる。一瞥をくれただけで去っていく男を怒鳴りつけたいが、それよりも友達が気がかりだ。クオリアはびっくりして目を丸くしている。このまま止まっていれば、また誰かがぶつかってくるかもしれない。
「橋を渡りきるまで」
 ミーシャはクオリアの手をぐっと握った。クオリアがうなずく。
「頑張る」
 そしてミーシャは歩き出した。ハーフパンツから伸びる彼女の足はすらりと引き締まり、力強い。混雑の中の流れに上手く乗り、所々に生じる渦や波頭を避けて進んでいく。クオリアも淡い緑のワンピースの裾からか弱い足を懸命に踏み出して、友達の手を頼りについていく。
 歴史ある石橋の下、カルカリ川は水も豊かに滔々とうとうと海へ向かう。その水面は夏の日差しにぎらついていた。まるで一面に銀箔を貼り、そこに油の玉をはじいて火をつけたかのようだ。覗き込めば底まで透き通り、うおの行くのに目の和む清流も、この人ごみから見ると凶悪に思えてならない。
 二人は橋を渡り切り、だがたもとの小広場もごった返して休めそうにない、そのまま駅へ向かう。ロータリーに沿った歩道に入り、そこで駅舎の軒下へと逃れる。
 やっと一息がついた。
 クオリアは乱れた息を整える。ミーシャはそれを待つ。ようやくクオリアが息を整えた時、ふと二人は目を見合わせた。まだ手をつないだままでいた。それに気がついて、妙におかしくなって、手をつなぎ合ったまま笑ってしまう。
 二人がケルゲ公園にやってきたのは、近頃初めてニトロ・ポルカトの主演した『映画』を観たクオリアが、その撮影場所に行ってみたいと言うので、そこに何度か訪れたことのあるミーシャが案内を買って出たからだった。しかし目的地に行ってみれば人、人、人の山。彼が出てきたマンホールは警備員に守られていて、そこに立って記念撮影をする順番待ちの行列ができていた。最後尾からは一時間の目安。呆れるクオリアの横で、実際にそこで写真を撮ったことのあるミーシャはそれを黙っていた。
 結局ろくな見学はできなかったにしても、クオリアは自分の目でその場所を見られただけで満足だった。ただ折角だ、ついでにその混雑振りを描きとめておくことにした。ミーシャはクオリアの絵を描くところを見るのが楽しい。板晶画面ボードスクリーンに現れる景色と現実とを見比べて、時に画家に質問し、画家はちょっとだけテクニックを解説し、それが互いにまた楽しい。
 しかしそれも終わるとやることがない。人もどんどん増えてくる。そこで二人はひとまずケルゲ公園駅に戻ってきたのだが、
「これからどうしようか」
 ミーシャが言う。
「もう目的は果たしたし、なんでもいいわ」
 クオリアは小さめのトートバッグから取り出したハンカチで汗を拭いていた。ミーシャは五分丈のシャツの袖で汗を拭おうとしていたところにそれを見て、何食わぬ顔でヒップポケットからハンカチを取り出して頬を拭う。
 麦わら帽子をかぶり直すクオリアへ、ミーシャは言った。
画廊ギャラリーにでも行く? 近くにあるんだ」
「調べてきたんだ?」
 ミーシャはうなずく。
「無理しないで。ミーシャには退屈でしょう?」
「クオリアの感想を聞きながらなら楽しいと思う」
「どうかしら。うっかり辛辣なことを言ったらそこの人に睨まれちゃうもの」
「気を遣っちゃう?」
「気を遣った感想は楽しくないと思う」
「そっか……」
「それじゃあ退屈でしょ?」
「うん」
 正直なミーシャにクオリアは微笑む。それから“なんでもいい”だと相手が困ることに思い至り、
「ちょっと休みたいかな」
「どっかのカフェにでも入ろっか」
「そうね」
 と、クオリアがうなずいた時、ロータリーに浮かぶ大きな宙映画面エア・モニターの流す宣伝がふと耳に入ってきた。
『スイーツバイキング開催中!』
 なんとなく、二人はその広告を眺めた。
「あ、うまそ」
 ミーシャがつぶやく。オレンジピールの入ったレアチーズケーキが映っていた。
「行く?」
「どうしようか。でもクオリアは損じゃないか? ああいうの」
「ああいうところのは小振りでしょ? それにたくさん並んでいるのが綺麗だから、結構好き。それに損と言うなら」
「うん?」
「ああいうところは誰だって元を取ることはできないと思うな」
「まあそりゃそっか。それじゃあ……」
 ミーシャは広告を見て、眉をひそめた。
「でもちょっと高いなあ」
「ちょっと高級志向なのかもね。味は普通のところよりいいかも」
「うーん、でもなあ」
「あ、クーポンがある」
 その広告を管轄するケルゲ公園駅前インフォメーションから携帯電話モバイルで情報を拾い、クオリアが言う。
「女性二人から使えるみたい。500リェン引きだって」
「マジで?」
「うん、マジで」
 ミーシャは考えた。500リェン引きでもやっぱりちょっと高い。だけどいい機会だし、さっきのレアチーズケーキは食べてみたい。
「お小遣い、ちょっともらえたしなあ」
「どうして?」
「部活、頑張ったねって」
「良かったね」
「うん、よかった。……そろそろテスト勉強にも本腰を入れないといけないもんな」
「脳に栄養を蓄えないと」
「――よし。行こう」
「うん、行こう」

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