ハラキリ・ジジのための誕生日会が再開され、すぐに会話の花は大輪となった。冷蔵庫の中に潜む、という体験談をティディアが笑い話に変えて披露する。ニルグとリセは巨大クラッカーの失敗談をティディアに語る。そこで初めてハラキリがその時の感想を口にした。戸惑いながらも見続けていた滑稽な親子のやり取りを飄々と語り、その語り口が、笑いの対象にされているポルカト家の三人をこそ笑わせる。園芸仲間でもあるリセとヴィタは
ピンチョスは順調になくなっていった。無論、最も食したのはヴィタである。会話に耳を傾けながら涼しげに休むことなく食べ続ける執事の健啖さには、それを知っているニトロも改めて感心させられてしまった。ニルグとリセはひたすら嬉しそうにニコニコと
やがて前菜の時間が終わる。
次のパスタに移る前に、ティディアが立ち上がった。ストールを外し、それを貸してくれたリセに目で礼をしながら背もたれに掛ける。
「さて」
主人の目配せにヴィタはうなずき、同じくストールを背もたれに掛けて
そしてティディアが言う。
「名残惜しいけれど、私達はここまで。短い時間だったけど、楽しかった」
ティディアはゆっくりとテーブルから離れ、執事の作った空間に至ると、軽やかに踵を返した。
艶やかな黒紫の髪が翻る。
彼女の肌を隠すのは丸いカップ状のトップスと、細い植物の葉から作られているらしい腰ミノ。その枯れ色の葉の隙間には白いボトムが覗く。フローリングを踏む素足は爪も玉のように磨かれて、足首には貝殻を連ねたアンクレットが巻かれていた。
ヴィタが戻ってくる。
ティディアと同じ衣装を着る彼女の手には小さなギターのような楽器があった。彼女は向こう側の透けて見える薄絹も持ってきていて、それをティディアに手渡した。ティディアはそれを首にかける。首から垂れる薄絹は端が床まで届くほどに長い。その余剰を王女はまず肘に掛け、布の端に近いあたりを手に載せる。するとそれはまさに
「お別れをする前に、拙いながらも芸を一つ」
微笑み、ティディアは言った。彼女の斜め後ろにヴィタがあぐらをかいて座りこみ、楽器を構える。藍銀色の奏者の横には窓の外、室内からこぼれる光を受けて、ノースポールの白い花々が星団のように輝いている。
「皆様には日頃のお礼を込めて。ハラキリ君には祝福を込めて」
その口上にハラキリは小さな笑みを浮かべ、うなずいた。椅子の向きを変えてティディアとヴィタを正面に見られるようにする。ニトロもそれに倣った。
「僭越ながら、心からの歌声を」
ぽろんぽろんとヴィタが小さなギターのような楽器を鳴らす。4本の弦を
ティディアが息を吸い――
そしてここに、美しい歌声が満ちた。
それはまるで海を渡る風に似た透明な声。
リビングという生活空間にあって遠く遠く、聴く者をどこまでも遠くに運び去ってしまうかのように軽やかで、しかしどこか恐ろしく深い声。
ヴィタの奏でるのは4弦しかないとは思えぬほどに音が豊かで、温かく、少し切ない。
メロディに乗せられる
ティディアはゆらゆらと揺れていた。ゆるやかに左右に、柔らかに前後に、足を踏み出す度に彼女のアンクレットの貝殻がシャラシャラと囁く。地を踏みしめて腰をくねらすと腰ミノがせせらぎ、うねる肉体は海のうねりにも似て、されどそこには得も言われぬ女の官能が燃えている。
薄絹を風になびかせるようにして彼女は舞った。
まさに命の海に漂いながら、彼女は歌った。
ニルグとリセは息を止めて聞き惚れる。
ニトロさえ陶酔感に襲われた。
ハラキリも聞き入る。
そのハラキリに、ティディアは時折眼差しを送っていた。そして空を撫ぜる手が彼に心を送る。それはその歌舞の形式に則ったものであろう。それでもそこには確かに
――瞬間、ニトロとティディアの目が合った。
ニトロは思わず苦笑した。冷蔵庫の中で冷えて固まっていたバカが今、どうしてこんなにも美しく歌えるのだろう?
そして苦笑するニトロと最後の詞を声高く歌い上げるティディアとを視界に収めるハラキリの口元には、曖昧な笑みがあった。
(不思議な関係ですよねえ)
一人の友と、一人の女。
ニトロからすれば、その女のバカな思いつきに巻き込まれて人生が変わった。
自分からすれば、二人が織りなす騒動に巻き込まれたことで人生が変わった。
本音を言えば、自分は誕生日のお祝いの歌を歌われることだけが『拷問』だと思っていたわけではない。自分のための誕生日会、というのも考えただけでゾッとするものであった。しかし今、こうして自分は楽しんでいる。体裁を整えるための作り笑いではなく――
「「ブラーバ!」」
歓声が背後に上がる。そこでハラキリはティディアが歌い終えたことに気づいた。ニトロが拍手している。歌い終えたティディアはヴィタが立ち上がるのに手を貸しながら、横目にこちらへ瞳を向けていた。その黒曜石のように妖しく色めく黒紫の瞳と目を合わせた時、ハラキリは彼女がこちらの心を覗き込んでいることを知った。彼は苦笑し、遅れて手を鳴らす。その拍手の裏側に彼の心が隠れたのを見たティディアは吐息の代わりに微笑を浮かべ、目をニトロに移した。そうして素直に感動を示すニトロの顔を見た時、刹那、彼女のその顔に形のない感情がふいに表れた。それをハラキリは見逃さなかった。とはいえそれが意味するところまでは掴めず、いつか誰もが恐れる『クレイジー・プリンセス』の弱点を掴めることを期待して、今は礼を述べる。
「素晴らしい贈り物を感謝します。お
歌い手と弾き手は揃って頭を垂れた。
一段と拍手が高まる。
キッチンからも音が聞こえて、ニトロが振り返るとマルチクリーナーのロボットアームが手を叩いていた。メルトンだろう。ピュイッとスピーカーから口笛が鳴る。それもメルトンのものであろう。しかしそれを許したということは、芍薬もその歌を認めているらしい。
頭を上げたティディアは嬉しそうに笑っていた。ヴィタも微笑んでいた。そして王女と執事は慌しくその格好のまま玄関を飛び出ていった。四人が玄関まで見送りに出ると、二人は既に迎えに来ていた車に飛び乗っていた。窓からティディアが手を振るうちに車は走り出す。道を曲がり家の影に消え、そして車は影の中から夜空に向けて上昇すると息つく間もなく王城へと飛び去っていった。