ティディアとヴィタが残していった感動は、しばらく消えなかった。
四人がリビングに戻るとテーブルには新しい皿が並んでいた。
スープ仕立てのパスタが供される。
話題はやはりあの歌声を離れなかった。背もたれにストールの掛かる空席は、あの旋律を留めるためであるかのようにそこに残されたままだった。
ニルグとリセは頭が痺れているようで、その気持ちは――悔しいが――ニトロも否定できない。だから彼は二人がパスタと共に酒盃を進めることにあまり意識をやらなかった。
それが失敗だった。
いくら感動とその余韻のためとはいえ、ニトロはどうにかして両親がアルコールを摂る速度を緩めるべきだった。
両親が飲みすぎて泥酔したとか、嘔吐したとか、そういう無様な事態となったわけではない。父も母も酒の飲み方を知っている。ただ、それでも酒によって陽気になることは避けられない。
そう、ニルグとリセはとても陽気になった。
歌声への陶酔は酒の酔いに移り、酒の酔いは再びハラキリ・ジジの誕生日を祝う心を盛り立てる。そうだ、あのような素晴らしい歌を聞けたのはハラキリ君のおかげである。あの王女様にあんなに心を込めて歌を歌ってもらえるなんて! それもこれもハラキリ君が素晴らしい人だからだ。そんな人が息子のことをいつも気にかけてくれるなんて……お父さんは、お母さんは、嬉しくてたまらない!
たまらないのはむしろニトロであった!!
ハイテンションになった父も母もハラキリ・ジジに祝いの言葉を繰り返しながら、しかしその会話の中心はやがて自慢の息子のこととなる。息子の親友にもっと息子のことを知ってもらいたくて、饒舌に両親は思い出を語り出す。
彼は恥ずかしかった。
されど両親は止まらない。というかこの環境にすっかり順応したハラキリがそれを面白がらぬわけがない。よって彼はニルグとリセをうまく促す。ことあるごとに自分も二人に祝い倒されるために気恥ずかしさを覚えることもあったが、それ以上に両親よりも顔を赤くしてツッコミを入れまくるニトロ・ポルカトが楽しくて、ハラキリも相応に悪乗りしていた。
酔いが巡ってもニルグの料理の腕は狂わず、メインの『ヴァーチ豚、クレプスの岩塩と共に寝かせた肩ロースのグリル』の焼き色は見事の一言で、その味わいがまたリンゴの風味とよく合った。ハラキリの食は進んだ。両親のシードルも進んだ。ニトロは恥ずかしかった。だが親友が隠すことなく楽しそうに笑っているから、本気になって怒れはしなかった。
ハーブソースを纏わせたヴァーチ豚の最後の一切れを心ゆくまで堪能したハラキリは満足の息をつき、
「お疲れですか? ニトロ君」
訊ねられたニトロは眉間に皺を寄せ、
「お陰さまでな」
ハラキリは愉快そうに肩を揺らす。テーブルの向こうには笑い疲れた両親が、この会ももうすぐ終わる、と、寂しそうにしている。
「ニトロ、デザートを持ってきてくれないか?」
父が言う。もっとハラキリと話したいのだろう。ハラキリは気を取り直した母と薔薇の話をしている。どんな話題にもうまく対応する術を持つ彼は、薔薇の世界について掘り下げるのではなく、薔薇が関わる他のテーマ――今はロディアーナ宮殿にあるロザ宮の薔薇園に話を持っていき、そこで相手の知識の中に己も知る題材を発見するやそれをすぐさま話頭に上げていた。正直、ニトロはその技に舌を巻く。
「冷蔵庫に入ってるから」
「わかった」
ニトロは立ち上がり、キッチンに向かおうとして足を止めた。ヴィタがうちの冷蔵庫は父の部屋にあると言っていた。そこで踵を返して二階に向かい、違和感凄まじくも父の部屋に確かに置かれていた冷蔵庫からチョコレートケーキを取り出して、リビングに戻った。食卓では父が母に相槌を打ちながら、ハラキリの知識に感心していた。
「持ってきたよ」
「うん、切り分けよう」
ニルグが立ち上がるより少し早く、マルチクリーナーがやってくる。その手にはナイフが納められていた。
「……どっちかな?」
ナイフを受け取った父に訊かれ、ニトロは即答した。
「芍薬だよ」
「本当に?」
母が驚いたように言う。マルチクリーナーは手でお辞儀をすることでマスターの言を肯定した。
「すごいわねぇ」
感心しきりの母の横で、父はマルチクリーナーに向かって礼を言っていた。マルチクリーナーはその場でくるりと回るとキッチンに戻っていき、今度はケーキ用の皿を重ね掲げて駆け戻ってきた。
「ありがとう、芍薬さん」
父が言うのにニトロが言う。
「今のはメルトン」
「え?」
「ソーダヨ、パパサン! 間違エルナンテ酷イヤ!」
「ああ、ごめんよメルトン」
慌てて謝るニルグの横で、リセが目を丸くしてニトロを見つめる。
「すごいわねえ」
ニトロからすれば、単に芍薬は最後に『ポルカト家のA.I.』にもちゃんと仕事を与えるだろうと思ったのだし、メルトンはメルトンで自分も
「今のは立派な芸でしたね」
笑いながらハラキリが言った。
「そうか?」
はにかみながらニトロは席に着いた。
入れ代わるようにリセが席を立ち、キッチンに向かう。
ニルグもケーキをそれぞれの席に切り分けるとキッチンに向かった。
コーヒーの香りが漂ってくる。
最後の飲み物である。
会の終わりがすぐそこにやってきていた。
カップを用意する父と、コーヒードリッパーに湯を注ぐ母。少し飲みすぎた両親は幸せそうに言葉を交わしている。ニトロは胸の内で一つ息をつき、目を隣に戻し、
「なんだか落ち着かない感じになっちゃったな」
「いいえ」
ハラキリは首を振った。
「楽しかったですよ」
「そうか? それなら良かったんだけど」
「ええ、お招き頂きありがとうございました。本当に、楽しかったのですよ」
ニトロは少し驚き、ハラキリを見つめた。ハラキリは今まで見たことのないような柔らかい笑みを浮かべていた。
「なんでも経験してみるものですね。しかし今日ほどの会はもうないでしょう、だから今回だけで十分です」
だがすぐにいつもの彼らしいセリフを聞いて、ニトロは思わず笑った。そして言う。
「いいや、もうないなんてことはないさ。来年も、再来年も、きっといくらでも」
「そうですかねえ」
「ああ、だってほら――」
そこまで言ってニトロは迷った。このハラキリを納得させるにはどう言えばいい?
「だってほら?」
何も言い出せずにいると、ハラキリが意地悪く問うてくる。ニトロは何かの弾みで言った。
「俺が俺だ」
きょとん、と、ハラキリは呆けた。
それを言ったニトロ本人は我ながら何を言っているんだと呆れてしまった。本当はもっと言いたいことがあった。ハラキリがないと言うなら『俺が』用意する。もちろんそれは俺一人で用意するものではなく、父も母もいるし、芍薬もいる、ついでにメルトンも協力してくれるだろう。なんなら次は学校の友達も呼ぼう。未来には希望を持っていた方がいいじゃないか。俺はそう思うんだ。だけどそれだけでハラキリが納得するとは思えない。全ては君の推測、そう言われてはおしまいで、もし確実な根拠を求められればそれは結局『俺だ』としか言えない。俺の気持ちだけだと。他にも色々な考えが脳裡に駆け巡り、それらをひっくるめて押し固めたら飛び出したのがさっきの一言。――我ながら言葉足らずにも程がある!
一方で呆けていたハラキリは、やおら声を上げて笑い出した。
「なんだよ」
それがあんまり大きな笑い声だったから、ニトロは頬を固めた。ハラキリは目に涙すら浮かべ、
「確かに、確かに」
そう繰り返し、どうにか笑い声を押さえ込むとニトロを見つめ、急にニヤリと笑った。
「……なんだよ」
「君が君であるならば、これからもお姫さんと一緒に楽しませてくれるでしょう」
「!」
カッとなってニトロが反論を繰り出そうとした時、キッチンから両親が戻ってきた。
「なになに、そんなに笑ってどうしたの?」
コーヒーの揺れるサーバーを手にして母が目をきらめかせている。
「僕たちにも聞かせてくれないかな」
トレイにとっておきのカップを載せた父が期待に顔を輝かせている。
ニトロは誤魔化そうとしたが、ハラキリがしれっと会話の穂を接いだ。
笑い声が起きた。
祝宴は、もう少しだけ長く続きそうだった。