正確に言えば、ハラキリの誕生日は十日も前に過ぎていた。
 ただその当日はニトロが『漫才』の仕事のために忙しかった。その日はハラキリも現場には遊びには来ず、だから祝えなかった。ティディアも仕事終わりに彼を捕まえて祝ってやろうとしていたらしいのだが、ひょっとすると彼はそれを察知して逃げたのかもしれない。彼女は残念がっていた。
 もちろん、ニトロも残念だった。
 するとこの話を聞いた彼の両親が、誕生日会をうちで開こうと提案したのである。お世話になっているお礼、というのも全くの嘘ではない。だからこそ父と母も息子の親友を祝う手伝いがしたかったのだし、むしろ自分達も祝いたかったのだ。
 ニトロが芍薬に相談したところ、やはりハラキリはそういう会を開くといえば遠慮するだろうとのことだったので、名目上はディナーとして招待することにした。その企画立案をした時期はちょうど後期期末テストの真っ最中であったため、会を催すのはそれが終わってからということになった。
 しかしこの日程の延期が、ニトロの思わぬところで大きな効果をもたらすこととなった。
 何かと勘の鋭いハラキリ・ジジがポルカト家の嘘に気づけなかったのは、何より彼自身がもう己の誕生日のあったことを忘れてしまっていたことに拠る。元より自分の誕生日そのものに関心の薄い彼だ。そこに忘却が加われば、彼が『もしかしたら自分のために誕生日会を開いてくれるつもりなのかも』と疑うことがなかったのも当然だろう。
 もし、ハラキリが事前にこれを察知していれば、適切な理由を造って断りをいれていたことは確実である。実際、ニトロ達の本当の目的を知った後、彼は強い逡巡を見せた。迷惑とまではいかないが非常に困惑を深め、奥深い苦笑を浮かべた。それはニトロが親友の顔の中に見てきた中でも一・二を争うもので、まるで口の内部で何かが焦げついているかのような顔だった。
「さあさ、ハラキリ君、どうぞ座って」
 ニトロの母――リセ・ポルカトが椅子を引く。
 結局ハラキリが祝宴をがえんじたのは、既に準備が完了していたから――つまりポルカト家の好意を無下にすることを良しとしなかったからである。彼は朗らかな笑顔のリセに促されるまま恐縮そうに席につき、真っ白なクロスを敷いたテーブルを眺めた。
 カトラリーも細長いシャンパングラスもよく磨かれて、高級レストランの食器もかくやとばかりに輝いている。テーブルの中央には椿カメリアをメインにしたアレンジメントフラワーがあった。鮮やかな赤い花弁と黄色い雄しべが目に華やぎ、濃い緑の葉が目を落ち着かせる。その色彩を助けるかのようにカスミソウの白い花が添えられており、それはさながら椿に降る雪に思えた。そして雪は粗い肌の花器を通じてテーブルクロスに広がっている。そう、つまり、これは一面の雪景色であった。そこに寒さに負けず凛と花は咲く。赤く、赤く。
「素敵な見立てですね」
 ハラキリが言うと、リセは相好を崩した。彼女は主賓に自分の意図が伝わったことが誇らしげに息子を見る。その息子の顔には疲れがあった。それは両親を連れてお騒がせしたご近所に頭を下げて、急いで玄関前を掃除してきた名残である。しかし彼はもう済んだことは水に流して母親に笑いかけ、ハラキリの隣に座った。リセはニトロの対面に座る。
 その間セミオープンキッチンで作業をしていたニルグ・ポルカトが、ボトルを持ってテーブルへやってきた。今までワインクーラーにつけられていたそれをテーブルに置き、
「まずは一言、いいかな?」
 訊ねられたのはハラキリであるが、彼はニトロを窺った。それにニトロは疑念を覚えた。別になんてことのない問いかけなのに、何をハラキリはこちらに意見を求めるような目を向けるのか。
 ひとまず、ニトロはハラキリを促す。
 ハラキリは、ニルグへうなずいてみせた。
 するとニルグは胸を張り、
「えー、本日はお日柄も良く」
「そういうのはいいから」
 即座にニトロが言った。前口上を無情にも切断されてしまった父は、しかし息子の有無を言わせぬ圧力に屈し、
「それではここでお祝いの歌を」
「それもいいから」
 ガタッと音を立てたのは、今まさに立ち上がらんとした母であった。彼女は軽い中腰の状態で息子を凝視する。父も息子を凝視していた。二人とも愕然としている。見ればハラキリは苦笑とも渋面とも言えぬ影を口元に刻んでいる。ニトロはやはり断固として両親を止めねばならぬと決意した。――と、いずこからともなく伴奏が流れ出す。皆がハッとするところ、またも即座にニトロが言った。
「メルトン、勝手に流すな。止めろ」
 しかし伴奏は止まらない。そろそろ前奏が終わる。ニトロの両親は逡巡している。二人はまだ歌うことを諦めきっていないらしい。主奏に入りさえすれば歌えるという希望が瞳の中で輝きを増している。そこで息子は携帯電話を素早く操作した。一拍置いて、
「ホギャン!」
 メルトンが悲鳴を上げた。ニルグとリセが驚いたように中空を見つめた。そこはいつも宙映画面エア・モニターが投射され、二人に呼び出されればすぐにメルトンが肖像シェイプを表す場所であった。だが、そこには何も映らない。ただ伴奏が止まった。ニルグとリセが絶望的な顔をした。
「大丈夫だよ、メルトンにはちょっと休憩してもらうことにしただけだから」
 ため息混じりにニトロは言い、続ける。
「歌はなしってことになったはずだろ? 『拷問になる』からさ」
 そのセリフに反応したのはハラキリだった。彼の視線を感じて振り返ったニトロは思い出し笑いを口元に浮かべ、
「芍薬に聞いたよ。『誕生日の祝いの歌を黙って聞かされるのは拷問だと思う』――だろ?」
 ハラキリは、苦笑した。ニトロは目を細めると両親に振り返り、
俺も、やっぱり歌いたい気持ちは分かるよ。だけどそんなことしなくてもハラキリには伝わるからさ」
 その言葉で両親はとうとう納得したようだった。バツが悪そうに笑って母が座りなおす。そして父もバツが悪そうに笑みを刻んでボトルを手にする。小気味の良い音がした。ニルグはハラキリの傍らへ歩を進めると、汚名返上とばかりに、ベテランのソムリエのような所作でボトルを傾けた。
 細かな泡を立て、グラスに淡い金色の液体が注がれていく。
 見た目にはシャンパンにも似ていた。
 しかしハラキリは鼻腔に触れたその香りに、それが発泡性のリンゴジュースだと知った。ニルグは次にニトロのグラスに注ぐ。そのラベルを見て、ハラキリは少し驚いていた。評判の高い林檎酒シードルの醸造家が、自慢の果汁をアルコールの飲めない人にも味わわせたいと生産しているものに違いない。彼のシードルはプレミアがついて手に入りにくく、そのリンゴジュースも『ジュース』という括りの中では最も手に入りにくい逸品である。
 ハラキリがふと視線を感じて振り向くと、ニトロが微笑を浮かべていた。それはどこかその品を用意したことを誇るようであり、また説明を受けずともその価値を見抜いたことへ賞賛を向けているようでもある。
 全てのグラスを満たし終え、ニルグが席についた。さりげなくラベルが主賓に見えるようボトルを置き、グラスを手に取る。リセとニトロも手に取った。最後にハラキリがグラスを持ち上げる。
 ニルグが言う。
「息子がいつもお世話になっています。ありがとう、ハラキリ君」
 ハラキリは戸惑ったように――そう、それにこそ、ニトロは先ほどハラキリが見せた不思議な様子の正体を悟った。
 戸惑い
 ここまでの道中、ハラキリ自身口にしていたその感情がおもむきを変えて今、彼の顔にはっきりと現れていた。いつもは飄々として掴み所のない『師匠』が確かに同い年なのだとニトロは実感する。と同時に彼の胸に強烈な不安が芽生えた。いや、正確には蘇った。しかしその不安が当たっているかどうかを確かめる術はない。
 その内にハラキリは戸惑ったままニルグの言葉を、そのポルカト家の総意を受け止め、うなずいていた。
「お誕生日おめでとう」
 ニルグを追ってリセも言う。慌ててニトロも言祝ことほいだ。
「おめでとう」
「――ありがとうございます」
 少年の返答を受けてニルグはグラスを掲げた。
「乾杯」
 穏やかな音頭に、ニトロとリセも唱和する。ハラキリはグラスを控えめに掲げて、苦笑した。それはニトロの良く知るハラキリ・ジジの笑顔だった。戸惑いが完全に消えたわけではなさそうだが、それを上回る何かが彼の心に湧き起こったらしい。ニトロは安堵した。勝手に設けたこの誕生日会――もしかしたらハラキリにはひたすら迷惑なことを押し付けているだけなのかもしれないと不安になっていた彼は、不思議な感慨と喜びを覚えながら親友と目を合わせた。
 そして二人は同時にグラスに口をつける。
 爽やかな果実の香味と素晴らしい酸味が走り抜け、さらりと流れていく上品な甘みを奥ゆかしいコクが支えている――
「ああ、これは美味しい」
 思わずといったようにハラキリがそう漏らすと、ポルカト家が微笑む。
「それじゃあ料理を出そう」
 ニルグが立ち上がり、キッチンに戻っていく。
「これが今日のメニュー。ニトロから苦手なものはないって聞いているけれど、もし何か注文があったら言ってね」
 と、リセの差し出してきた板晶画面ボードスクリーンを受け取り、その献立を見てハラキリはまた驚いた。前菜二種・パスタ・メイン・デザートというコースの中、初めの冷たい前菜には異星いこくの名があり、メインには希少な『ヴァーチ豚』が用いられている。それはアデムメデス三大豚の一つで、その人気から王都でも手に入りにくく、となれば当然――
「……」
 つい「これほど奮発なされなくても」と言いそうになったところ、ハラキリは堪えた。ここで金銭のことを言うのは礼を失する。だが彼が何かを言おうとした様子は表に出ており、リセが耳をそばだてるようにこちらを見ていた。
「そうですね……」
 ハラキリはメニューを手元に置き、ニトロの母と、キッチンからスプレー缶のような器具と皿を手に戻ってくるニトロの父を順に見て、
「おそらく、シードルも購入されているのではないですか?」
 最後にリンゴジュースのボトルに目をやって、ハラキリは言った。
「流石」
 と、ニルグが感嘆する。リセは感心の目をニトロへ向けていた。息子と感動を共有したいらしい。それにニトロはちょっと恥ずかしそうにしている。ハラキリはその光景に笑みを浮かべ、
「おじさんとおばさんはどうぞそれをお召し上がりください。豚にリンゴは王道ですから」
「いやー、やっぱりハラキリ君は物知りだねえ」
 自慢の息子の自慢の親友をニルグが褒め称える。リセはまたニトロを見る。ニトロはちょっとテンションが上がり始めた両親に懸念を覚えた。が、その懸念よりも先に彼は一つ大きな問題に直面していた。

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