諸霊と聖歌の日

(『晩秋、オペラの下で』の数時間後)

「夜ともなればもう冬ですねえ」
 ライトアップされたロディアーナ宮殿を遠目にしてハラキリが言った。
 王都の鎮座する地方は四季を通じて過ごしやすい。それでも四季それぞれの特色は、やはり人の肌に触れてくる。春はぬくもり、夏は暑く、秋は涼しく、冬は寒い。ただ極端になることはない。たまに酷暑がやってきて、稀に厳寒の朝が到来することはあっても、すぐに適度な暑さが戻り、適度な寒さに息が白くなる。夏は薄着を楽しめて、冬は厚く着飾れる。春には花が咲き乱れ、秋には紅葉が鮮やかだ。四季それぞれの楽しみを楽しみながらも過ごしやすいというのだから、この地に玉座を定めた男は素晴らしい見識を持っていたものである。
 友と歩きながら、ニトロも宮殿を振り返った。
 煌びやかに照らし上げられた華麗な宮殿をまた煌々と輝く双子月の下に眺めると、数々の鬼畜非道の伝説を残したあの覇王には、存外繊細な心もあったのだろうかと思いがよぎる。
 深夜、日付も変わり、祝日を迎えたロディアーナ宮殿の敷地内には多くの人があった。
 元々人気の観光地であり、普段から夜になっても人出のある場所ではあるが、それ以上に今はその祝日を楽しむ人々で静かに賑わっている。
 ――『諸霊と聖歌の日』――
『諸霊』とはあらゆる生物の霊のことである。それは人間われわれの命を支える動植物の霊である。そこには互いに支え合う人間も含まれる。収穫祭の後、今年も命を長らえさせてくれたあらゆる万物諸種の霊魂へ感謝を捧げ、かつその霊魂が冬を越えてまた生命の萌芽する春に(それは実際にも、比喩的にも)無事にあらわれるよう祈るのが今日この日である、と国教会は教える。
『聖歌』とは、もちろん国教会の認定を受けた聖歌のことである。同時にこの諸霊へ捧げる歌曲のことも言う。加えてこの日は覇王による国家統一の後およそ300年経って完成した“聖歌大全”の記念日でもあった。統一と同時にアデムメデス国教に吸収された他宗教の歌も組み入れ、事業発足から歴代の音楽家達の苦心と情熱と神がかりによってまとめられたこの大歌集は、長い年月を経た現在もそのままの形で受け継がれている。
 深夜零時を越えてから、所々に歌声が聞こえていた。
 二人が通り過ぎてきたロディアーナ宮殿の正門前広場では国教会の服を着た一団が合唱していた。宮殿の所有する広い敷地の各所にある広場にも歌う人々がいて、道を行けば歌を口ずさむ人々とすれ違う。
 そしてこの日、多くの人は何か動物に関するものを身につけていた。例えば犬のストラップ、鳥の羽を飾った帽子、猫やウサギの耳の付いたカチューシャ、中には着ぐるみを着ている者もいるし、凝った仮装をしている者もいる。それらは諸霊の“依り代”を携え、あるいはそれを演じるためだ。もちろん仮装をしなくとも、何かグッズを身につけなくとも、しかし人間であればそれだけで諸霊のいちであり、依り代である。例え歌わなくとも心臓がリズムを打っている。それが国教会の語る意義である。とはいえほとんどの人はそのような意義までは考慮していない。そうやってアニマルグッズを身につけるのも、仮装するのも、人間であることも、信仰のためではなく、お祭気分を味わうため、それを味わうことで人生に活気を加えるためだ。
 ただ、この祝祭が訪れると、アデムメデスは俄かに年末を強く意識する。
 この日の終わらぬうちから人々は年末の『五天の魔女』のパレードを、年越しの『二年祈祷』を、年明けの『穏安の祝日』を待ち焦がれ、日々変わらぬはずの生活の中で人心は浮き立ちながら、やがて普段宗教を格別意識することのない者までも、気がつけば暮らしから切り離せぬところに沁みついている“教え”を省みる。
「きっと冬もあっという間に過ぎるんだろうな」
 二人の行く道は緩やかに弧を描き、歩き続けているとやがて前方にボダイジュの植え込みが見えてきた。その秋色に染まる樹冠の向こうには礼拝堂がある。ロディアーナ宮殿の印象を損なわない程度の大きさで、権威づけも希薄だが、史上初めてカロコ様式で建てられた礼拝堂として有名なものであった。こちらもライトアップされていて、その外観はここから見ても華美にして優雅。白と金を主にして情緒豊かに装飾された堂内は、普段にも増して人でごった返しているだろう。
 ニトロは吐息をつく。
「光陰矢のごとしって、本当にそう思うよ」
「最近は特に忙しいから余計にそう感じるんでしょう」
「どうかな。単に歳を食っただけかもしれない」
「いやいや。まだ十分過ぎるほど若いでしょうに」
「でも今年だけで何十年分もけた気がするんだよ」
「それはそれこそ“気がする”だけです」
「そうか?」
「ええ」
「そうかなあ」
 道は直接その礼拝堂へは通じず、ボダイジュの植え込みの前で小さな広場に合流していた。他に二本の道の流れ込むそこには幾つもの屋台があり、アニマルグッズ店や諸霊を迎える蝋燭売り、民俗的な護符アミュレット売り、祭ならではのジャンクフードや甘味、それからこの祝祭に欠かせぬ焼き菓子屋が賑やかに軒を連ねている。その暖色の明かりが、滲むような夜寒の中でやけにニトロの目に沁みた。
「お前は礼拝堂に行くのか?」
 広場の明かりからハラキリへと目をやり、ニトロは小さな声で言った。
 息がわずかに白くなる。
 すぐ横を通り過ぎて行った二人連れは幸せそうで、その片方はニット帽にカラフルな鳥の羽を刺し、もう片方はズボンのベルト通しループくくりつけた尻尾を揺らしている。
「感謝と祈り、ですか」
「今日、礼拝堂、って言ったらそうだろ?」
「君は?」
 二人は学校の制服を隠す目的もあって、ビジネスマン風の出で立ちを装っていた。生真面目さを感じさせるメガネをかけたハラキリはチェスターコートのポケットに手を突っ込み、ステンカラーコートを着たニトロは最近人気の帽子を被り、長い年月で凹凸もなくなるほど磨り減った石畳を革靴の底に感じながら広場に差しかかる。人々の目は礼拝堂へ、この日だけ揺らぐ蝋燭の火へ、人目を引く仮装へ、そして愛する人の瞳へ向けられている。
「一応親に誘われてるけどな、どうだろ」
 苦笑するニトロへ、ハラキリはついと視線をボダイジュの向こうへやった。
「なんなら寄って行きます?」
 広場にいる人の流れの主なる一つは、もちろん礼拝堂に向かうものだ。逆にそちらからやってくるものも太い流れを作っている。ニトロも礼拝堂に視線をやった。『漫才』の練習を終えて、ハラキリと共にこっそり劇場を抜け出てきた時、ちょうどあの尖塔に鳴る鐘の音が聞こえたものだった。
「仮装していけば――」
 とハラキリが声を潜める。
「明るい祭壇の前でもバレません」
 ニトロはまた苦笑した。
「仮装って何をさせる気だよ」
「動物のマスクを被るだけでもいいんじゃないですかね」
 ハラキリの視線の先に、明らかにパーティーグッズショップで買ってきたのであろうビニール製のマスクを被った集団がある。猿、犬、鳥、馬、牛、それから――
「あれ、売れてるのか」
 定番の動物達の中に『ティディア』がいた。といってもそれは全く似ていない。というかまるで別人である。いや、別人と言うか“人”にすら見えないし、遠い祖先たる“猿”にも見えやしない。しかし製作者は「これはティディア姫だ」と言い張った。その度胸にバカ受けした王女が「これは私ね」と認可した。そうして売り出された商品のキャッチコピーは『これを被れば誰でもプリンセスになれる!』……しかし実際にはビニール製の動物達と一緒に並べてみても違和感しかないあまりに前衛的な代物である。
 ハラキリが言う。
「通販でもトップでした」
「マジか」
 ニトロが吹き出した白い塊が屋台の光に映え、あっという間にほどけて消える。
「まあ、君のところはマスクをして行ったとしても名前を呼ぶでしょうしねぇ」
 と、話を戻してきたハラキリにニトロはうなずき、
「呼ばないように言っても、てか呼ばないように頼めばむしろうっかり呼ぶな。あとああいう被り物はきっと剥がされる」
「どのように?」
「お祈りする時、『邪魔だろうから持っててあげる』」
「『スポッ』」
「『あッ』」
「要らぬ親切」
「余計なお世話」
 二人で喉を鳴らすように笑っていると、ふと聖歌が聞こえてきた。アデムメデスに暮らせば礼拝堂に行かずともよく耳にするものだ。それを歌い出したのは広場の片隅にいた家族連れであった。そこに通りすがりの人が声を合わせて、いつしか即席の合唱団となる。
 この特別な日によく見られる光景を眺めながら、ニトロは言う。
「それにまあ、うちも最近は礼拝堂に行くのも年末年始くらいだしさ」
「ということは、以前は日曜祭日にも行っていましたので?」
「毎週毎回じゃないけど、普通な感じでお説教を聴きにね。小さい時は御堂おどうでもらえる飴が楽しみだったなあ。けど小学校に入ってからあまり行かなくなってったよ」
「一般的にも大体そんな感じと聞きますね。『7歳ななつの聖光拝領』を終えたら遠のくと」
「一応『11の浄斎』も受けたよ」
「そうですか」
 ハラキリは口元に笑みを刻み、ポルカト家の一人息子を横目に見て、それから木々の向こうで優雅に佇む礼拝堂を眺めて息を吐く。
「まあ、わざわざ礼拝に行かずとも晩の食前に祈れば良いともなっていますしね」
「それでそっちは?」
「食卓で祈るほどの信心もありません」
「はっきり言うなあ」
「しかし生きていればそれだけで感謝になるものです。この命が、また別の命に生かされているのならばね」
「聖典の一句?」
「単に適当に言ってみました」
「そうか?」
「ええ」
「そうか」
 近くにいる三人連れが『ティディア様』と言った。
 反射的にニトロが目をやると、男二人と女一人、その男の片方が持つモバイルを残りの二人が覗き込んでいた。聖歌の合唱をバックに途切れ途切れに聞こえる会話からすると、顔にアニマルペイントをしたその三人はこれからあの劇場へ“出待ち”に行くつもりであるらしい。だが、あの周辺はニトロが副王都セドカルラへ来た時から『ティディア・マニア』が“出待ち”の大群をなしていた。今からでは当然分け入る隙間もない。それよりはロディアーナ宮殿の前広場へ行き、夜通しのオペラを鑑賞し終えた王女が家族と共に宮殿に休みに来て、そしてあるいはファンサービスとしてそのバルコニーに現れることを期待した方がまだ尊顔を拝せる可能性が高いだろう。実際、宮殿の正門前広場には、それに賭けた連中がそこでも群をなしていたものである。
「道楽ですねえ」
 と、ハラキリがつぶやいた。
 ニトロはてっきりハラキリはその三人――熱を帯びていく会話から間違いなく『ティディア・マニア』である三人のことを言っているのだと思った。だが、振り返ると、彼はそちらにはまるで関心を寄せずにある屋台を見つめていた。


→後編へ
メニューへ