晩秋、オペラの下で

(『夜の美術館にて』の数日後)

 今日も今日とて『漫才』の特訓のため、ティディアの指定してきた練習場――副王都セドカルラはロディアーナ宮殿近くの有名な劇場にやってきたニトロは、その地下にある小劇場で待ちぼうけを食っていた。
 緞帳の開け放たれた舞台で一人、学校から直接やってきたため制服のまま、床の感触を確かめるようにうろうろと歩きながら台本ホンに目を通す。
 デビュー日が、二週間後に迫っていた。
 現状で掛けられるネタは幾つかあり、そのどれを当日に使うのかはまだ決まっていないが、今読んでいるものは『お高くとまる富裕層を風刺するもの』だった。鼻持ちならないボケを連発する“お金持ちのお嬢様”をいち平民がツッコミ倒すという構図は確かにまあ伝統的なコメディではあるものの、それを実質くに一番の資産家の娘がやるというのだ。まったく、自分にはそれ自体がまた底意地の悪い風刺のように思えてならない。
 彼の足音だけが重苦しく響く、小劇場とはいえ約500人を収容する観客席にはハラキリ・ジジが一人、最後列に陣取っていた。もちろん観客役としてここにいるのである。同時に彼は審査員でもあり、『ニトロ・ポルカト』のボディガードでもあった。彼も今は何やら本を読んでいるらしい。
 シンと静まり返った地階の反面、地上の大劇場では年に一度――決まって11月8日の日没と共に始まり、明くる祝日の日の出と共に終わるオペラが行われている。それも既に二幕に掛かっていようか。2000近い座席は熱狂的なオペラファンや上流社会のお歴々に埋められ、さらにロイヤルボックスには王と王妃が座している。加えて第一王位継承者と第二王位継承者も来場を告知されており、その後者、ミリュウ姫の両親と並んで談笑を交わしている姿は早くもネットニュースに流れていた。
 そしてその王家のお三方は、ここにニトロ・ポルカトがいることを知らない。
 少なくともニトロはそう聞いている。
 これはティディアに『家族に紹介』されるのは断固拒否したい彼にとって凄まじいニアミスであった。が、当のティディアも時期尚早と思っているらしく、そのような機会は絶対に作らない、もしそうなれば『漫才コンビ』を解消してもいいと言うので彼は大人しくここにいる。というかそうであればむしろお三方への拝謁を願いたい気もするが、といってそれを自分から希望しては奴の思う壺だろうからやっぱり大人しくここで待つ。
 やがて、舞台袖からヅカヅカと音を立てて第一王位継承者が飛び出してきた。
 ニトロがそちらに振り返ると、エレガントなドレスに身を包んだ彼女は思わぬ剣幕である。
「あれはもう切る。理由は私の『不興を買った』でいい。もしあれに申し開きができる度胸があるなら聞いてやる。ただし後任にはメズス、これは決定事項よ」
「かしこまりました」
「女の素性も改めて洗い、バックがいるようなら必ず見つけること。ただし女には手出し無用。誰かの手駒にせよそうでないにせよ、あれは使える」
「かしこまりました」
「……」
 詳しくは知りたくないし、むしろそのやり取りすら聞きたくはなかったので忘れることにして、ニトロは今一度台本に目をやった後、すぐ傍らでヒールの音が鳴ったのに初めて気がついたかのようにそちらを見やった。
「やっと来たか」
「遅刻の理由はね」
「言うな!」
 恐ろしい剣幕でニトロが言うと、ティディアは意味深な笑顔を作り、
「まあいいわ、で、これ」
「……」
 ニトロはティディアがいきなり差し出してきた物体を見つめ、再び彼女を見やり、
「このメガネが、何だ?」
「付けて」
「何故」
「『カンペ』が出るから。そういうのにも準備しておかないと」
 カッと鋭い音がした。反射的にニトロがそちらを見ると、こちらもドレスアップしたヴィタが観客席に降り立っていた。その手には大きく開かれていく板晶画面ボードスクリーンがある。彼女は最前列の席に陣取ると、画面の表をこちらに向けて見せた。ニトロは台本を映していた携帯電話モバイルを仕舞いながら、
「じゃあ、あれにも出るのか?」
「その時の状況によって色々変わるからねー。ああいうのもあれば後方のスクリーンに出る場合もあるし、今日はメガネだけどコンタクトの場合もある、ワイヤレスイヤホンに指示が来ることもあるわ」
「あー、聞いたことはあるけど……」
「対応できるでしょう?」
「できなくても、させるんだろう?」
「その通り」
 ニトロは眉間に皺を寄せつつも、メガネを受け取った。ティディアは微笑み、
「でも、私はニトロができるって信じているわ」
「そりゃどうも」
 吐き捨てるように言って、ニトロはそのメガネ型の装着式端末ウェアラブルをかけた。そして画面レンズ越しにティディアを見た瞬間、彼の頬が激しく引きつった。
 いつの間にかティディアが全裸になっていた。
 あられもない姿で恥部も隠さず堂々と見せつけていた。
 ――否、違う、これは、ティディアが全裸に見えているのか!?
 ニトロは慌ててメガネを外すとそれを彼女に投げつけ、
「うぉぉおい! これアレだろ! 色々条例に引っかかる『擬似透視オートコラアプリ』だろ!」
 ティディアは微笑む。
「で勃起した?」
「するか阿呆! てか少しはオブラートに包めクソ痴女!」
「痴女って何よぅ、今夜はこんなにも淑女レディなのに」
「見た目はだけはな! だけどレディはそれが偽物だろうと自分から裸を見せようとはしない! 間違っても精神的に痴女なのはレディじゃない!」
「それは暴論よ、だって例えば」
「た・と・え・る・な! どうせ上にいる誰かが実はどうとか言うんだろう!?」
「何で分かったの!?」
「容易に想像がつくわ!」
「で海綿体にcGMPで充血膨らんだ?」
「え、何? いゃやっぱ言うな」
「医学的なオブラートで勃起をば」
「分かってたのに! てか包むの下手くそか!」
「やだ、包みきれないなんて」
「うぉぉおおい!」
「そそり立つ!」
「うるせぇコンチクショウ!」
 その時、ヴィタの手にするボードスクリーンに文字が現れた。
――『本題に戻って』
 ニトロの眉目が吊り上がる。
「本題からそれてばっかりいるのはコイツでしょ!」
「駄目よニトロ、カンペにツッコンでも観客には意味不明だわ」
 そこにティディアが一転冷静な口調で指摘する。とはいえ最後列に陣取る観客ハラキリは状況からカンペに何が書かれていたのか察しているようだ。そして微笑ましそうに観劇を決め込んでいる。反面、真顔のティディアは淡々と続けた。
「流れやカメラワーク次第でカンペいじりもスタッフいじりも有りだけど、多様は禁物。身内のノリは身内には絶大だけど、そうでなければただ蚊帳の外。蚊帳の外ではお客さんは蚊に刺されるばかりで面白くない。私達に相手にされてないって不満になる上、蚊に刺されることも蚊帳に入れてくれないアイツラが悪いからだと憤懣やるかたない。そうなれば、本当につまらない」
「お、おお?――いや、うん? まあ、うん、そうなんだろうかな」
 先と今とであまりに違う相手の態度に、何より指摘の内容にまごついたニトロがぎごちなくうなずく。と、
「ま、いくら良い出来といってもそれで興奮してくれるのなら私も苦労はないわ。だって、ねぇ?」
 片手の指を何やらキーを打つように動かしながらふいに話を戻し、ティディアはにんまりと笑った。瞬間、ニトロは犬歯を剥き出した。露骨に感情を弄ばれて余計にむかっ腹もそそり立つ。彼は唸るように言った。
「いいや興奮してきたぞ、十分に」
 しかし彼の怒気にもティディアはむしろ喜ばしい様子で、
「それじゃあ心を鎮めて、もう一度」
 と、再び差し出されたメガネを、ニトロは非常に険しい目つきで見つめた。
「今のは消したわ」
「……。
 芍薬」
「御意!」
 ずっと出番を待っていたらしい芍薬が小劇場に声を響かせる。ニトロはティディアを睨みつけ、
「チェックさせろ。でないと帰る」
「信用ないわねえ」
「だったら少しは信用してもらえるようにしたらどうだ?」
「検査させたら信用してくれる?」
 おう、と応えようとして、ニトロはそれを飲み込んだ。言い換える。
「この限りにおいてはな」
 するとティディアは指を一振りしながら、口元をぐっと歪ませた。やはり彼女は言質げんちを取ろうとしていたのだ。まったく、だからこいつは油断ならない。が、同時に油断ならないこの女はそれを見破られたこともまた快感で堪らないらしい。軽く身震いまでしている。まったく、変態である。
「オイコラバカ」
 と、早速装着式端末ウェアラブルメガネを調べた芍薬が静かに怒声を発した。それに応じてティディアが軽く頬を膨らせる。
「何よぅ。今のはホントに切っていたでしょう?」
「今ノハネ。ダケド『見返リゾンビ』ト『浮遊ゴースト』ガ入ッテルジャナイカ」
 芍薬が挙げたのはどちらも悪戯ソフトである。前者は使用者を背後から追い抜いていった女性が急に立ち止まり、振り返ったその顔は腐乱しているというもの。後者は時折視界の隅や物陰などに人影が映り、そちらに注目するとしかしその影は消えてしまうというもの。共に起源はコンピューターウィルスにあり、装着式端末ウェアラブルの普及期に大きく流布したものである。前者においては感染を知らずに端末を使用していた者がゾンビに驚いて騒ぎを起こした例が幾つもあり、中にはその弾みから死亡事故も引き起こされていた。後者においては事故こそ起こらなかったものの精神不安を掻き立て、そこから――同梱されていた対A.I.ウィルスで発狂クレイズしたオリジナルA.I.も絡んだとはいえ――ある有名人が精神疾患にまで追い込まれた例が存在する。悪戯ソフトの代表例ながら、その害は悪戯の範疇から逸脱していることでも有名だった。
 しかしティディアは悪びれずに言う。
「ビックリしたニトロの顔が見たかっただけ、可愛いもんでしょ?」
「悪趣味ッテンダ。テカ真面目ニ練習スル気ガナイナラ」
「ああ、帰ろう」
 と、ヴィタのボードスクリーンに文字が現れる。ニトロは叫ぶ。
「そんな指示があるかあ!」
「だからカンペにツッコンでも観客には」
「お前もいい加減にしろ! しまいにゃ本当に怒るぞ!」
「ちゃんと怒れる人は好きよ?」
「ああそうかい! それで!?」
「そろそろ練習」
「……真面目にやるな?」
「心外な、私はいつでも大真面目よー」
「だとしてもそれがふざけてるんだからどうしようもない」
「メガネ、もう信用できるでしょう?」
「芍薬?」
「他ハ正常」
 ニトロは、メガネを掛けた。
 すると視界の右隅に数字が現れた。
「凝視しないで」
 と、ティディアが言う。確かにそのカウントダウンしていく数字を凝視していたニトロは彼女を見た。微笑む『相方』は観客席へ向いて立ち、
「理想的には“見ずして見る”ように心がけて。特にウェアラブルの場合は傍から見ていると目が泳いでいるようになるし、今みたいにじっとると、それこそゴーストでも見ているのかって具合に怪しいわ」
 ――となると、もしや先の悪戯ソフトには何らかの意図があったのだろうか。そういえば明日は『諸霊と聖歌の日』でもある……
(いやいや)
 ニトロは内心で頭を振った。いくらなんでもそれは深読みしすぎだろう。そうやって深読みさせておいて実は何にもない、だけど相手には勝手に感心させておく、という手もこの油断のならない女のすることだ。
――『本番入ります』
 ヴィタがボードスクリーンで知らせてくる。
 画面レンズに表示される数字も減っていく。
 さらにレンズ越しに見る観客席に、突如無数の人影が現れた。見る間に席が埋まっていく。その観客達はどれも顔はぼやけて辛うじて判別できるかどうかなのに、一方で体型も年齢も服装も細部まで造り分けられているから奇妙なリアリティを感じさせる。やがてすっかり仮想客が出揃うと、意外なことに観客席には空きも目立った。ここで満席としないのはこれを設定した人間の思いがけない謙虚さの故なのか、それとも何かのこだわりなのか。とかく実践的にやっていこうという意図はよく分かる。
 ニトロは――付け焼刃の技術ながら――口をほとんど動かさずに訊ねた。
「ネタは何を?」
「まずはフリートーク」
「なに?」
――『15』
「話の枕みたいなものよ、ちょっと長めの。それからネタ。進行はカンペに従って」
――『10』
「了解、で何を?」
「『A.I.とヤブ医者』」
「そーきやがったか」
――『3』
 ニトロはティディアと並び立ち、気配もなく賑わう観客席へ顔を向ける。
――『1』
 ティディアが口火を切った。
「もう春ね」
「ッおぅい、まだ真冬も来てねえ」
「常識的にはそうね。だけど常識に囚われていては新しいものは生み出せない」
「いきなりなんの話だよ。大体発明とかならそうだろうけど、季節は常識的に回ってもらわないと困るだろ」
「ほら、それが駄目。すぐそうやって決め付ける」
「むしろ決めてもらわないと困るって言ってんだ」
「じゃあ春、春、春、春――どうよッ」
「どうにもならねぇなあ」
「まるで私の頭の中みたいでしょう?」
「自分でそれを言う!? てかフリートークはどうしたッ」
「つまり私が自由フリー
「ざけんなコンチクショウ」
「お腹空いた!」
「うるせぇコンチクショウ!」
「仕方ないでしょ!? 忙しくって食事しそこねたから胃が空っぽなのよ!」
「ああそうかい! 今からこれだとなあ、俺はもう胃に穴が開きそうだよ!」



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