アデムメデスの貴族に生まれついた者は、大抵一度は王家の一員になることを夢に見る。凛々しい王子、美しい王女、その恋人になれれば、ゆくゆくはその伴侶となれれば……しかしそれはあまりに畏れ多く、夢のまた夢。
だから大人になるに従って、夢は王家の一員になることよりも王家の一員に直接仕えることへと形を変える。
王家運営組織の構成員、さらには家庭教師、側仕え、侍従・侍女に近衛兵、そして執事――その御身のよりお近くで働くことができればそれだけ幸せだ。必ずや命を賭して尽くしてみせよう。その御方はきっとわたしを心にお留めくださる。その名誉、その栄光! いいや、貴族でなくたって多くの者がそう夢を見る。
だからこそ、東大陸のクレプス-ゼルロン山脈の一角、寂れたルッドラン地方に住むたかが田舎貴族の
それはまさに奇跡の大出世。
セイラ・ルッド・ヒューラン。
その時から彼女は郷土の誇りとなった。それまで
そしてまた彼女はその時から国中の社交界で激しい羨望と嫉妬の的ともなった。
その羨望と嫉妬は第二王位継承者の存在感が薄かったこともあって全国的には時と共に薄れていったが、一方で東大陸の社交界ではルッドラン地方を擁するハイアン領を中心にいつまでも薄れることはなく、むしろ年々濃縮されていた。特に彼女がすぐに解雇されると踏んでいた“目上”の者達は面白くない。いつまでも若者達の尊敬の目が“格下”にばかり向けられるのにも不愉快が増すばかりである。
それ故、過日の『劣り姫の変』の折、それが“祭”ではなく“事件”と発覚するや東大陸の社交界ではセイラ・ルッド・ヒューランに対する
しかし人の世はまことに移ろいやすい。
事件の後、謹慎を申し渡された姫君が執事の故郷にやってくるとなると、一転してつい先日まで毒を吐いていた同じ口からセイラ・ルッド・ヒューランを歓迎する声がほとばしった。
なにしろ『劣り姫の変』により再評価されることになったミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――その人となりを語るに欠かせぬ人物として執事の評価も同時に改められ、無能に思えた彼女が実は王女を支え続けていたという事実によってその価値が瞬く間に上昇していたのである。それもいったん地の底の奥底にまで落ちていたからこそ、反動は凄まじかった。
故郷に戻ってきたセイラは仰天した。
請願書、嘆願書、招待状、東大陸各地から届けられたその類の目のくらむような数!
いや、数の問題だけなら彼女が驚くことはなかったろう。
ミリュウ姫への表敬訪問を希望する者については当然予想していた。
しかし、自分自身への面会を希望する者がいるとまでは全く予期していなかった。
しかもそのあまりの多さときたら!
ルッドラン地方の社交界――といっても華やかなものではなく、ほとんど町内会のような催しで親しくしていた同じ“田舎貴族”の娘達が招待状を送ってくることは旧交を温める意味もあって理解できる。が、一・二度挨拶を交わした程度の都会の貴族、それどころか全く面識すらないお歴々、さらにはハイアン領主の母君までもが使者に『直筆の手紙』を持参させてくるとはとても信じられなかった。そんなことをされるような身分ではないと慌ててしまった。
すると、いつまで経っても“田舎貴族であるという自覚”の抜けぬ執事を見かねたミリュウが、
「挨拶よ? セイラ。別に取って食われるわけじゃないんだから、こう、がおーって」
おどけ混じりの主人に笑わされて気の楽になったセイラは、父の伯爵とも相談の上、自邸へのお返しの招待が可能な限りの人々の招待を受け、他とは社交界の催しで会うことを約束した。とはいえそのような華やかな場へ行くためには行動範囲を制限されているミリュウを邸に残して一人出かけねばならない。それでセイラには最後まで抵抗があったのだが、当の王女が強く奨励してきたのに押し負け、まずは
そこでセイラがまた驚かされたのが、周囲の己に対する目であった。
昔は誰にも注目されることのなかったセイラ・ルッド・ヒューランに、誰もがじっと眼差しを向けていた。その多くには賞賛があり、それから羨望と好奇、媚びと追従、そして隠しきれぬ激しい嫉妬から不気味な敵意まで、きっと以前の自分では気づくことのなかったであろう感情が華やかな光の中で色を乱し、穏やかな笑顔と快い談話の陰にちらと奇妙な花を咲かせては散っていた。
それは、一種の発見であった。
その発見は彼女に強烈な自覚をもたらし、彼女の心を鋭く引き締めた。
そうだ、己は敬愛するミリュウ姫の執事である。己の失態は、ひいては愛する『妹』の恥となる。
セイラ・ルッド・ヒューランは社交界を堂々と渡り歩いた。
諸所で礼節を尽くし、誠実に対応した。
田舎貴族の面影などどこにも無く、王女の執事として高邁に、しかし傲慢になることを繊細に避け、再会した人々が目を瞠るほど立場の作る衣を立派に着こなしてきた。
――つもりだった。
帰路を急ぐ
疲労の引き連れてきた弱気が彼女を落ち着かせなかった。
ダンスのステップは間違っていなかったか? 茶会の作法に間違いはなかったか? サロンでは
そんなセイラを安心させたのは、ルッド・ヒューラン邸に戻ってきた翌日、約束通り訪問してきた昔馴染みの子爵夫人の笑顔であった。
「まァまァ
夫人は赤ん坊の頃から知るセイラの成功を心から喜んでいた。ハイアン領社交界のみならず
その一方でセイラは、“姪みたいな子”の成功に
すぐに結論は出せないと、その場での返答は控えた。
本音を言えば即座に断りを入れたかったが、断るにも流儀というものがある。
それに子爵夫人には様々な恩があった。個人的にも、ルッド・ヒューラン家としても。それを考慮すればその程度の提案を断ることなどできるはずもない。が、だとしても自分にはミリュウ様のお世話という重要な仕事がある。もうそれに専念したい。“おばさん”を納得させるには骨が折れるだろうが、それでもセイラは断固として謝絶しようと心を決めた。
そうして頃合を見計らって断りを入れようとした矢先、彼女はふいに父のルッド・ヒューラン卿に書斎へ呼び出された。
何用かと思えば件の講習会についてである。
流石の子爵夫人、堅実な根回し。
時代と共に在りし日の権勢を失ってきたルッド・ヒューラン家、その当代伯爵は貴族として社会に貢献する意義を熱っぽく持ち出しながら講師を引き受けるよう勧めてきた。普段は遠く離れて暮らす父のその思いを無下にすることは、セイラには苦しい。経済面からろくに人も雇えず、雇用を生み出すこともできない――といって地域を振興するにも力の及ばぬ父の密かな苦悩も知っている。心の揺らいだ彼女が思い悩んでいると、さらに事情を知った王女が微笑み言った。