格闘技用トレーニングルームにはミットを打つ音と、激しい呼吸音、そして汗のにおいが満ちていた。
 空調は最適な温度と湿度を保とうとフル活動しているが、それ以上に発せられる人いきれがこの空間を支配している。トレーナーのかけ声、それに応える練習生の声、ミットが連続で乾いた音を立て、サンドバッグを蹴り揺らす重い音が耳を打つ。
 張り詰めて、なのに、解放されている独特の空気。
 トレーニングルームの片隅でニトロは問いかけた。
「それで? 調査結果を教えてくれ」
 有名なブランドの、有名すぎてチープになっているジャージを着たハラキリはうなずいた。
「その前に、一つ前提としてお話ししておくことがあります」
「何?」
「第一に、君が使用した格闘プログラムは第三者の手によって汚染されたものではありません。ご安心を」
「うん。それで?」
「君の体験した“死”は、初めから拙者が意図的に組み込んだものです」
 ニトロの眉間で当惑と怒りが揺れ動き、当惑が勝って影となる。
「どうしてだ?」
「それは既にある程度お話しました」
 ニトロの眉間の影が皺となる。疑問一色のその様を見て、ハラキリが小さく笑う。
「やはり、あの時の話は全て方便だとでも思っていたのですね」
 その言葉を聞いてニトロは理解すると同時、驚きの目でハラキリを見つめた。
「え? じゃあ、どこまで本当だったんだ?」
「そうですねぇ、君は『明晰式』もよく使うと言っていましたから、あんまりそれで頑張りすぎては現実と仮想の混同もあり得るかも……と少しは心配していました」
「いやいや、さすがに仮想と現実の区別くらいつくぞ? いくら慣れたって、仮想空間で殺されても復活できたから現実で同じ状況になっても同じように大丈夫、なんて思わないぞ? だからその手の“危険”はないって」
「ええ、そこら辺は君の分別と認識力を信頼しています。では、慣れに関しては?」
 近場にいるひょろりと細い青年が、ニトロのトレーナーでもある筋骨隆々の大男に指導されている。青年もまた仮想世界で筋と神経に刷り込んで来たストレートパンチの打ち方を、現実世界でも骨肉の記憶にまで沁み込ませようとしている。
「確かに学校じゃ慣れた部分もあるとは言ったけど、護身術の習得は俺にとって死活問題だ。だから、ハラキリの言う意味で慣れたとか、そんな風に余裕を持つことはないよ」
 ニトロははっきりとそう言いながらも、ハラキリの表情を窺っていた。
 こちらをじっと見ていた親友は、やがてうなずいた。
「確かに、そうだとは思います」
 そして彼は続ける。
「しかし君がそう思っていなくても心の方が慣れてしまうかもしれない。それは意識の外に生じる油断、そのため自分では気がつきにくいものです。だから突発的に『特殊訓練』をぶち込んで、もしや気の緩みがなかったかを省みてもらう機会を作っておこうとしていたんです。
 ――納得していただけましたか?」
 ハラキリの言い分にはいくらか引っかかるところがあるものの、そう言われてみれば納得せざるを得ないようにも思う。
 実際、自分はあの怪鳥の出現に対して何の対処も出来なかった。
 それは何故だろう?
 ……突如とした異変に驚いたのは確かだ。
 しかし何故驚いたのか。
 よくよく考えれば、あれもハラキリの仕掛けた極悪なシミュレーションだと思えばすぐに何らかの対処は出来たはずだ。例え怪鳥に敵わなくとも、手には剣もあった、少なくとも抵抗は出来たはずだ。それなのに、それすらもできなかったのは、怪鳥への恐怖や脅威に怯んだからではなく、普段の慣れた練習環境からのあまりの激変――それに対する意外な思いにこそ硬直したためではなかったか。
 トレーニングルームの中央に、普段は床下に収納されているコーナーポストを引っ張り出して作られたリングがある。そこではキックボクシングのスパーリングが行われていた。初級者に胸を貸している上級者が余裕綽々で攻撃をかわしている。しかし初級者が思わぬ角度から放った蹴りが顔をかすめたことで、上級者の顔色が変わった。そこに表れたのは羞恥だった。上級者の猛攻が始まる。外から見ているとみっともないが、リング内の彼は気がつかない。
 ニトロは、小さく吐息をついた。
「そういや、芍薬も『特殊訓練』って言ってたよ」
「芍薬はそう考えてもおかしくなかったでしょうね。しかし止めてくれたわけでしょう?」
「ああ。でも、芍薬は言わなかったけど、止めることにちょっと迷っていたみたいだ。それもどうしてかやっと分かったよ」
「無理もありません。――ですが、そう考えると、芍薬だけは慣れで動いていなかったんですね」
「? どういうことだ?」
 ハラキリは苦笑いを浮かべている。ニトロがさらに目で問いかけると、彼はため息混じりに言った。
「君にご質問いただいた怪鳥の件ですが、本題に入りますと」
「え? ああ、そうか、今の話は前提だっけ」
 それにしては随分答えてもらった気もするのだが、ハラキリはうなずいて言う。
「あれはうちの百合花ゆりのはなが作ったものです」
「うん」
「それを命じたのは拙者」
「うん」
「拙者としては君に『あ、死んだ!?』と思わせるもの――例えば、剣の修練中であれば、百に一度とか、ごくたまに、それも君が“慣れ”てきそうな頃合に普段とは違う、本当に死んだと勘違いするような刺激が現れるようにしておきたかったんです。それもいつもの訓練と同じ環境なのに“痛みの強度”が違うだけで、それでも君を心底驚かせるようなものを。しかしそれによって初心に返り、次からは相手の剣が怖くてぶるぶる震えちゃうようなものを」
 そうやって語るハラキリをニトロは胡散臭げに見つめた。言っていることはもう解っているというのに、この持って回った……というよりも丸きり言い訳がましい口振りは何だろう? それにそれがどうして怪鳥に食われるというむごい体験に変わるというのだ。
「つまり?」
 ニトロが促すと、ハラキリはへらりと笑った。
「つまり、あれは拙者の発注ミスの結果でした」
 一瞬、ニトロの頭に怒りが昇る。しかしその内容がいまいち掴み切れず、彼は問うた。
「どういうことだ? 発注って……」
 当然の質問にハラキリは息をついて腕を組み、
「そのままの意味ですよ。拙者はいつも『格闘プログラム』の作成を撫子と百合花ゆりのはなに丸投げしているんです。ただ今回はニトロ君のトレーニングプランに沿わねばなりませんでしたから、基本設計を拙者が作って、それからいつも通りに二人に任せていました。通常訓練担当の撫子の方はそれで問題なかったんですが、問題の『特殊訓練』は百合花の担当でして」
「うん」
「そちらには“通常訓練に追加する形で”“死を限りなく体感できるものを”“慣れ防止のため”とだけ注文していました。それがいけなかった」
「え? それだけ? それであんなに凝ったものが?」
「いえ、あれこそが『いつも通り』なんです。だからこそ言葉が足りなかった。注文した段階ではそれで話が通じているつもりでしたが、今思えば特に“内容は通常訓練に準じたまま”と設定しておかなかったのは痛恨です」
「なんで?」
「いつもは“内容は独立して”あるからです。だから“準じた”という指定があれば普段とは違うということで、百合花ゆりのはなにおかしいと思わせることがあったでしょう。少なくとも撫子は違和感を得たはずです。であれば拙者は確認を求められたでしょうから、もしあの怪鳥とのシミュレーションをそのまま君に“死の実感”を感じさせるものとして認可していたとしても、それは決着がついた時点でリセットされるようになっていたはずです。通常のトレーニングと同じようにね。この場合、腹を破られたところで。そうすれば君があれは他の『変り種』の強化版かと疑問を持ち込んでくることはあったにせよ、怒鳴り込んでくることはなかったでしょう」
「なるほど」
 納得するニトロに対して、ハラキリは肩を落とす。
「もっと言えば、そもそも百合花に『特殊訓練』を作らせる必要もなかったんですよ。全て撫子に作らせるだけでもよかったのに、しかし拙者はそれに気づかず、拙者がそうなのですから百合花も特に疑問を抱かずにいつもの調子でこしらえてしまいました。そうしてそれを拙者はいつも通りにチェックをせずに、そのまま君に渡してしまったというわけです。
 慣れが何だと言っておきながら、こちらの習慣のせいで君を非道い目に会わせてしまいました、いや、本当に申し訳ない。バックアップを覗いたんですが、あれは確かに君には刺激的過ぎましたね」
 そう語るハラキリを、ニトロはじっと思い悩むように見つめていた。やおら彼は首を傾げ、
「刺激的過ぎるのはそうとして……」
「何か?」
「ハラキリは、いつもああいうものを?」
「ああ、そこが気になりましたか」
 ハラキリは苦笑し、足首のストレッチをする。普段は自分のことをあまり話したがらない彼も、今回は失態を犯したということもあって抵抗なく話してくれる。
「いつも、と言うと語弊があります。あの手のものは拙者にとってもイレギュラー。通常の訓練を押しのける形で、突発的な・異常な・対処の難しい事態――として現れるものです。こちらも撫子が作っても良いんですけどね、そういう意地の悪い訓練内容に限っては百合花の方が……まあ、底意地が悪くていい」
 芍薬がオユリと呼ぶオリジナルA.I.の噂はニトロも聞いている。彼は小さく笑った。そして笑いながらも、そういう訓練を長年積んできている友に半ば戦慄していた。
「あれは生きながらの鳥葬がコンセプトだったそうですよ。できれば小鳥を数多く使ってじっくり責めたかったようですが、流石に御客様ニトロくん向けということで、あれはあれなりに手心を加えていたということです」
 ニトロの頬に浮かんでいた笑みが乾いていく。手心?――そうだ、手心を加えて、あれか。そう思った途端、彼は思わず訊いていた。

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