「……」
目を開いたニトロの視界は、闇に包まれていた。
その世界で最後に聞いた芍薬の声が、未だ脳内にこだましている。
彼は手を握ってみて、指を順番に動かしてみた。それがちゃんと意識した通りに、予想した感触を伴って動くのを確認してから、両手を頭の横へと動かして、フルフェイスタイプの
暗い天井が目に入った。カーテンに光を遮られ、晴れた日の朝だというのに夜のごとく暗いその天井はニトロがそこに在ると知っているものであった。それを見た瞬間、ニトロの心は安堵に震えた。
「主様?」
芍薬の声が鼓膜を揺らしてくる。それも確かにこの耳を通して聞こえた。その声音は微かに震えていた。
ニトロは上半身を起こした。
彼は己の腹を見つめた。
無傷である。
下着だけ身につけた体のどこにも鳥についばまれた跡はない。あるのは全身各所に貼り付けられた電極であり、それも
ニトロは電極から伸びる線をなぞって台座のような形の
芍薬の、震えを残した声がする。
「主様ガ呻キ出シタカラ、オカシイト思ッテあたしモ入ッタンダ」
ニトロの全身は汗に濡れていた。冷や汗と脂汗が混じっている。気色が悪かった。
「あれは……仕様?」
やっとのことで、ニトロは声を出した。仮想空間と同じように、あの最期の時のように自分の声が聞こえた。それに思わずゾッとするが、ロボットハンドが腕に触れ、彼は息を落ち着ける。芍薬は言う。
「仕様ト言エバ仕様ダッタ。ランダム発生スル
「……うん」
「モシカシタラ『特殊訓練』カモシレナイト思ッタンダケド、主様ニ対シテ、アレハ非道イ。ダカラ強制終了シタンダ。……良カッタカイ?」
「もちろんだよ。本当に助かった」
ニトロは、大きく息を吐いた。差し出されたタオルで顔を拭い、
「あのままだったらと思うと、気が変になりそうだ」
「抗議ニ行ッテクルネ」
怒気のこもった芍薬の声に、ニトロは慌てて言った。
「待った」
「エ?」
驚いたような、戸惑ったような芍薬に、彼は努めて落ち着いて言う。
「ハラキリが無駄にこんなことをするとは思えないから、意図を確かめたいんだ。抗議するとしても、その後にしよう」
登校したニトロは真っ直ぐ目当ての教室へ向かった。
彼も既に登校していることは芍薬に聞いている。
ニトロががらりとドアを――思わず強く――引き開けてそのクラスに入ると、一拍の間を置き、声が上がった。
声を上げたのは数人の生徒。男女共に話題の『王女の恋人』が突然やってきたことに意表を突かれ、中には歓声を上げている者もいた。
しかしニトロはその声が全く聞こえていないかのように歩を進め、乱暴な勢いで目当ての席へ腰を下ろした。
「おはよう」
ニトロが座ったのは、
「……おはようございます」
様子の違うニトロの来訪に、ハラキリは眉根を寄せる。その顔にニトロは軽く苛立つ。が、
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「はあ、何でしょう」
「場合によってはマッハパンチな、鼻に」
「いきなり穏やかじゃないですねえ」
「穏やかなはずがあるもんか、いいか? 真面目に答えろよ?」
そのためにわざわざ直接聞きに来たんだ、そう目で語り、
「今朝『格闘プログラム』を使っていたらな――」
ニトロは体験したことをそのまま語った。
すると教室のそこかしこで呻き声が上がった。有名人の会話に耳を済ませていた生徒達が、ニトロ・ポルカトのあまりに真に迫る体験談にドン引きしたのだ。間近な席にいる黄色い靴紐の女子などは青褪めてさえいる。一方、その話を真正面からぶつけられている当のハラキリ・ジジは誰よりも平然としていた。
「マジで『格闘』なんて穏やかなもんじゃねえぞ、あれは。もし止めてもらえてなかったらいくら低
ニトロがそう総括した言葉に、周囲の誰もが同意していた。しかし唯一それに同意しないのが、やはりハラキリであった。
「つまり、聞きたいことは、何故あんなものが入っていたのか、ということですね?」
彼はモバイルを操作しながら言う。その態度にニトロは心を抑えつつ、
「そうだ」
「それはですね」
モバイルを机に置いて、ハラキリは言う。
「君を慣れさせないためです」
「何にッ?」
平然どころか薄笑いすら浮かべたハラキリに、思わず怒りを含ませてニトロが問う。と、ハラキリは一瞬目を軽く伏せ、
「決まっているでしょう? 『格闘プログラム』にですよ」
ニトロの眉間に深く皺が刻まれる。
「どういうことだ?」
「『格闘プログラム』は非常に便利です」
「うん。お陰で助かってる」
「しかし便利な一方で、その手軽さ故に慣れを生みやすい」
「それが何か悪いのか? そもそも『格闘プログラム』はその手の動きに慣れさせるためのものじゃないか」
「慣れも過ぎては害悪です。技術を要する作業において『慣れた頃が一番怖い』とはよく言うことでしょう? 話によれば、君は剣術の練習で何度も“死んで”いましたね」
「ん? うん」
「君はそれに慣れていましたか?」
「……ああ、まあ、こんなもんだって感じでは、そうかな」
ニトロの正直な肯定に、ハラキリはうなずく。そして彼は話の拍子を取るように指で机をトンと叩いて言った。
「それはもちろん形式的な死です。しかし形式的な死であってもそれを習慣的に経験しているだけでは、やがてはそれが『死という形式』にすり変わってしまう。体感型ゲームでよく聞くことですが、初めは強敵に殺されることに衝撃を覚えたプレイヤーも、ゲームの攻略法を見つけるために何度も殺されているうちに、殺されることが普通で、しかも、その死の衝撃を体感することすらもが一つの作業になっていくと。――ゲームならそれでいいです。しかし『格闘プログラム』においては困る。現実に置き換えた時、その状況で死ぬのは実際には“自分”であるはずなのに、訓練だからとはいえ自分の“分身”が死んでいるのだと勘違いされてしまっては訓練の質も落ちてしまいますし、さらには実際危険でもあります」
「――うん」
「そこで、それを防ぐために突発的にイレギュラーな環境を差し込むことで習慣化への警告をすると同時に、異質な“死”を体験することで初心に返ってもらおうと。もちろん、それもまた擬似的なものでヴァーチャルなものでしかありませんが。
……効いたでしょう?」
ニトロは、うなずいた。彼の視線はハラキリのモバイルにある。そこには『覚えあり、しかし要調査』と書かれていた。
やおら、ニトロは思わず笑ってしまった。
ハラキリが完全には把握していないことが起こっていたということには恐怖を覚えるが、それ以上に、この話を聞いて、おそらくはこちらと同様に驚いているはずのハラキリが、それでもすらすらと方便を述べてきたことに呆れると同時に感心してしまったのである。しかもその方便が妙に納得させられるだけの筋を立てているのだから堪らない。
しばらくして、笑いを鎮めた彼は言う。
「効き過ぎだ。つか強烈すぎるだろ」
「以後気をつけましょう」
軽く頭を下げたハラキリにうなずき、ニトロは立ち上がった。
ドン引きしていた教室の様子は、ハラキリ・ジジが珍しく口数多く語った姿と、彼のその無茶苦茶な主張を受け入れてしまった『王女の恋人』の度量によって、今や半ば呆気に取られながらも感心しているようだった。
その景色を見てニトロはちょっと失態を演じてしまった――少なくともハラキリを引っ張り出して人に聞かれぬ場所で話すべきだった、と後悔する。
だが、まあ、仕方がない。
もっとハラキリ・ジジと話をしないのかとこちらへ向けられる周囲の期待を振り払うように、ニトロは一歩足を踏み出した。
「それじゃあ、また後でな」
その念押しに、ハラキリはうなずいた。
「ええ」
そしてちょっと面倒臭そうな様子で付け加える。
「今日はジムにも付き合いましょう」
それは『調査報告』はその時にということである。
ニトロは了解し、そして教室を出て行った。