クオリアと共に、ニトロは事務棟の玄関にやってきた。玄関の向こうにある正門、その周囲に群がる人々の影が揺れている。ハラキリが会釈したのに気づいて振り返れば、連絡を受けた美術部の新しい部長が顧問の外部インストラクターと一緒にやってきていた。
「こんにちは、ポルカト先輩、ジジ先輩」
「こんにちは」
 顔馴染みになっても変わらず丁寧に頭を下げてくる部長に応え、顧問にも挨拶を返したニトロの横で、ハラキリが携帯モバイルを取り出した。電話があったようだ。
「――ええ、そのまま強引にでも、いやご迷惑をおかけします。連絡はしてありますので、ああ、『美術部の招待を受けたポルカロ』と名乗ることをお間違えなく」
 正門にたかる群衆の後方から横にも縦にも大きい男がぬっと現れた。彼は驚く人々の間を掻き分けるように、しかし馬鹿に腰低く通り抜けてくると、門前に立ちはだかる警備アンドロイドと一言二言交わした。門が開き、彼が中へ入ってくる。
 ニトロは驚いたのだが――考えてみればおかしなことではないが――マドネルはスーツを着ていた。
 それにしても窮屈そうである。
 糊の利いた白いワイシャツの襟と、見事に日焼けした首が激しく喧嘩していた。ネクタイが寸足らずになっている。おそらくオーダーメイドの一張羅。だが、それが仕上がった後さらにボリュームが増えたのであろう腕や肩や胸、太腿はもうパンッパンである。
 写真で見るのと実物を見るのとでは迫力も違う。
 出迎えたニトロと握手し、荷物を預かったハラキリの案内で、事務員と必要な手続きをしているそのモデルを見る美術部部長と顧問は明らかにたじろいでいた。
 と、そこにいきなり校長が現れた。
 彼はクオリアの進路を塞ぐように進んでくると、客の体格にいくらか気後れしつつ握手をするや「我が校の美的水準」とか「素晴らしい若者の類稀なる才能を育てておられる方に」などと早口で歓迎の辞をまくし立て始めた。
 マドネルはその内容を聞き漏らすまいと努力していたが、一方的な演説口調についていくのがやっとの様子である。
 やがて校長はニトロの視線に気づいた。
 素晴らしい若者の眼差しは「手短に」と訴えていた。
 一応の体面を取り繕った校長は区切りの良いところで切り上げ、マドネルの手を離した。
 クオリアがようやく進み出てきて、解放されたマドネルへ手を差し出す。
「本日はおいで頂き、ありがとうございます」
 壊れものを扱うように彼女の手を握り返したマドネルは、ニッと笑った。
「こちらこそ素晴らしい機会を感謝します」
 そこに顧問が挨拶を加え、部長も丁寧に頭を下げる。高校二年生の男子にしては細身ながらも健康的な水準に入るはずの美術部部長は、それでもマドネルと並ぶと哀れなほどに痩せ細って見えた。しかし、彼が哀れなほどに全身を強張らせているのは、その外面の差に圧倒されているからだけではないだろう。
 その怯えに気づいたマドネルは、彼に手を差し出した。
 部長もそろそろと手を差し出した。
 マドネルは、にこやかに握手をした。部長の目がわずかに見開かれる。見るだけでは判らぬ相手の力に実際に触れて驚いたらしい。そしてその直後、彼の様子が変化した。どんな心理が働いたのか、彼の緊張は解け、さらには相手の大きな手を信頼と共に握り返した。
 そう、信頼である。マドネルは握手一つで少年を信頼させたのだ。ニトロには解る気がする。それは何も特別なことではない。それこそが彼の人柄なのだ。
 己の仕事を立派に終えたと言わんばかりの校長と別れ、ニトロ達は美術室に向かった。
「ここまで大変でしたでしょう」
 顧問の言葉にマドネルは笑って応える。
「いえいえ、あれしきの人など大したことはありません」
 クオリアと部長の話している内容から美術室の準備が終わっていることだけを確認して、ニトロは注意を前方に振り向けた。
 進路上に現れる生徒達はこちらを認めるや一様に驚愕している。『ニトロ・ポルカト』と『ハラキリ・ジジ』が侍従のように露払いをする後に、のっしのっしと続く日焼けした巨漢。その凄まじい存在感!
 美術室に辿り着いた頃には彼は早くも学校中の噂になっていた。学校SNSエスエスでは誇張された目撃談も様々に語られ出している。一方で正門前の群集が発信した情報は既にネットメディアに捕捉され、学内からこぼれ出た情報とも合わさり軽薄な反応を引き起こしている。
「現代でも“七姉妹”は元気だな」
 モバイルを眺めていたニトロが小声で言うと、ハラキリはうなずき、
「ちなみに、長姉のペルファメだけ国教会に『ペルファミル』という“噂の守護天使”として取り入れられています」
「へえ、そうなんだ」
「で、“噂から悪影響を排す”のが、そのご加護」
「それは……なんだか一気にか弱くなってないか?」
 眉根を寄せるニトロの言にハラキリは笑い、やはり小声で、
「元の女神のままなら一国を滅ぼすくらい強力なんですがね」
「マジか」
「戦いの趨勢を決める重要な役割を担っていますよ。興味があれば『アーエスティウム』を読んでみて下さい」
「あ、それはあれだ。ええっと、東大陸の、古代最大の国が滅亡する時の……『デガナ戦争』を題材にしたやつだ」
「ご名答。アデムメデス史では頻出問題ですね」
「いい復習になったよ、『師匠』」
 今、美術室の机は全て一端に寄せられ、開いたスペースの中央に、階段を一段上がる程度の壇が設けられていた。
 美術部員達は白いシーツの掛けられたその壇を囲むようにして思い思いの場所に椅子を置き、画板を膝に乗せて座っている。
 顧問が注意事項を改めて部員達に語っていた。
 不思議な緊張感があった。
 高校という場所もあってヌードモデルではないにしろ、これから生地面積の極めて少ないパンツだけの成人男性を目にすることへ、一年生の女子達は当惑を隠せていない。その中にも平然としている者もいるにはいるが、それに比べるとクオリア・カルテジアの落ち着きぶりは何か神秘を悟っているかのようだ。二年生の女子二人は流石に先輩の風格。無論、部長も堂々としている。が、もう一人の男子、一年生の彼はこの場で心が最も落ち着かないでいるらしい。
 しばらくすると顧問が美術準備室に向かい、ドアをノックした。
 彼の準備も――整ったようだ。
 にわかにニトロの身にも緊張感が漲る。
「やるしかないんだよなぁ」
 ニトロは声を潜めてぼやいた。ハラキリが実に不本意そうに応じる。
「安請け合いするからです」
「ハラキリだって同じようなもんだったろ?」
「絶対スベりますよ」
「スベッて済むかな」
「やはりニトロ君だけでやってください」
「ああ、もう俺一人でもやってやるさ」
 時が来た。
 ニトロは覚悟を決めた。ハラキリは何だかんだで付き合ってくれるらしい。
 顧問が準備室のドアを開くと、ひたりと素足を床につき、ブーメランパンツ姿のマドネルが現れた。
 ドアの閉まる音に重ねて小さく息を飲む音がどこかに聞こえる。
 マドネルがまるで花道を歩くかのように登壇する。
 白布の上に威風堂々と佇む巨漢には、聳え立つという形容こそが相応しい。
「それではマドネルさん、よろしくお願いいたします」
 顧問に続いて美術部員が一斉に「よろしくお願いします」と続けた。
 その直後、ニトロとハラキリがパン! と手を打った。
 突然の出来事に美術部員達が瞠目する。
 顧問も驚いていた。
 クオリアも仰天である。
 注目の中、さらにパン、パン、パン、パン、とリズム良く手を叩きながらニトロは声を張り上げた。ハラキリもまたヤケクソに声を張り上げる!
「「ハイ、ハイ、マッスォ! ハイ、ハイ、マッスォ! マッスォハァイ! マッスォハァイ! ハイ、ハイ、マッスルハイ!!」」
ふンぬ!!
 彼のための掛け声に煽られて力を込めたのは無論! 壇上のマドネルである!
「……」
「……」
 マッスルポーズを決めたボディビルダーを、美術部一同、口をあんぐりと開けて見つめていた。
 ただただ見つめ続けていた。
 硬直している。
 見事なまでに思考停止である。
「スベり過ぎて激突しましたかね」
 静寂の中、極めて声を潜めてハラキリが囁く。ニトロは乾いた瞳で事故現場を眺め、
「みんな魂消たまげちゃったなぁ、冷笑すらないや」
「しかし何でしょう。凄くいたたまれない」
「同じくだよゴメンナほんとにッ」
 一番初めに我に返ったのはクオリアだった。彼女の大きな眼がニトロとハラキリを見ようとする――と、その時、
「親愛なる美術部員の皆さん!」
 ポーズを変えて、マドネルが叫んだ。その岩のごとき腹筋の底から轟く大音声だいおんじょうにクオリアの目が再び見開かれる。
「歩む道は違えども! マッスルの美を知るあなた方に! 私は粉骨砕身ご協力致します!」
 次々とポーズを変えてマドネルは言う。どうやら準備室で可能な限り体を温めていたようだ。パンプアップされた筋肉ははちきれんばかりである。絶好調である。キレがある。ナイスバルクである。しかしそのような掛け声を美術部員は知らない。ボディビルダーの歯は白くて眩しい。
「さあ、いかようにもご注文なされよ! マッスルの美、その筆に魂を込めて、共に芸術アートを目指そうではありませんか!」
 マドネルがどうしてモデルになるのをあれほど喜んでいたか、ニトロには解った気がした。そしてマドネルのその言葉が『仲間』へのエールだということも理解できた。とはいえ彼の情熱は明らかに空回りしている。“部外者”だからこそ自分は対応できているが、その熱量を真正面から受けて平気なのはおそらくクオリアくらいなものだろう。実際、彼女はキラキラと目を輝かせ始めていた。極められたマドネルの肉体は確かに素晴らしい。しかし彼を取り巻く他の色調は、唖然、愕然、慄然である。
 その最中、ハラキリが音もなく準備室へと向かい始めた。
 それに気づいたニトロは『師匠』の一瞥によりその目論見にも勘づいた。彼は、狙いすます。そのタイミングを。
「どうしました皆さん! 元気を出して!」
 マドネルは張り切っている!
さあ!! どのようなポーズにも応えましょう!!
「落ち着けい」
「あ、はい」
 マドネルが反射的に“気をつけ”の姿勢となる。
 そして当然のごとく、皆の目が反射的に彼にそうさせた声の主へと集まる。
 美術部員も、顧問も、クオリアも、マドネルも、一言にして場を抑えたニトロ・ザ・ツッコミを凝視した。
 彼は苦笑し、
「失礼しました、マドネルさん。でも、みんな驚いてるじゃないですか」
 柔らかに、ニトロは世話になっているトレーナーへ親しく言う。
「そんなにいきなり高負荷をかけちゃ、心のマッスルも切れちゃいますよ」
「――ああ、これはこれは、確かにその通り」
 マドネルが失態を恥じながら、それを誤魔化すように笑みを浮かべる。
「嬉しさのあまり、つい調子に乗ってしまいました。皆さん、大変見苦しいところをお見せ致しました。本当に申し訳ありません」
 頭を下げるマドネルは、外見から受ける印象に比してあまりに紳士である。彼の正面にいた二年生の女子がふいにくすりと笑った。それが隣の、驚くというより完全に怯えていた一年生の女子に伝播して、一気に空気が穏やかになっていく。
「嬉しさのあまり?」
 と訊ねたのは、部長であった。
 彼の眼差しにマドネルは真摯にうなずき、
「先ほど申し上げたことは全て真実です。私はマッスルの美を信じています。あなた方もそれぞれに美を目指していらっしゃる。道は違えども、私はあなた方に大きな親しみを抱いています。また、あなた方はお若い。私はお若い方々が力を磨き、可能性を広げていこうとする姿に感動を覚えます。そしてあなた方はまさに今、私に感動を与えてくれています。そんなあなた方のために、私がこのマッスルでご協力できるとなれば、これほど嬉しいことが他にありましょうか」
 ニトロがもう何を言う必要もなかった。
 美術部員は皆、マッスルをこよなく愛するおおきなおとこを、今や完全に受け入れていた。

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