ハラキリはいつの間にか外にいた。
「挿絵は二枚ですか?」
 それでいて話はしっかり把握しているのが彼らしい。クオリアはおもしろそうに微笑み、
「いいえ。三作に提供して、計五枚」
「自作は?」
「書評が一つと『有名な小説を再度読み解く試み』を一つ」
「大活躍だ」
 書き溜めてあると聞いてはいても、ニトロは感嘆する。クオリアは肩をすくめた。
「活躍だなんて。ただ好きでやっているだけよ。というよりこれが私の『主食』だもの、止めたら死んでしまうわ」
 冗談半分に言っているようだが、どうも冗談には聞こえない。ツッコむべきかツッコまざるべきか……判断つきかねたニトロは話頭を転じた。
「『例の絵』は進んだ?」
 クオリアはその問いに急所を突かれたような顔をして、首を大きく傾けた。
「駄目ね。まだ形にならない。すぐに形になると思ってたんだけど、こう……」
 言いながら彼女は手をくうにさまよわせる。
「掴めない、掴めないうちにどんどん初めに思っていた形がなくなって、見えなくなる。ミーシャの走る姿にも感動して、その感動はまだ私の胸にあるのに行き場だけがなくて、ただただ燃えていて、イメージを織り成すはずの糸の破片が宙に待っていて、そこにあるはずのものが掴み取れなくて、だけどすぐそこに形になることを待っているものがあるって解っていて――もどかしい。もどかしくて……」
 吐息をつき、手を下ろし、そして彼女は不思議な形に唇を歪めた。
「それにね? 挿絵みたいに、相手の提示した素材があるものならいいんだけど」
 そこまで言って彼女は口を閉じ、ニトロとハラキリを一瞥した。二人が言葉を待つ間、彼女は躊躇い、躊躇い、やがて覚悟を決めたように言葉を接いだ。
「今、好きに描きたいものを一から思おうとすると、どうしても悲恋に打ちのめされる人が浮かんでしまうの。それが邪魔をする」
 沈黙が降りた。
 それはほんの少しの沈黙であったけれども、重たかった。
 と、ハラキリが言う。
「それを描けばよろしいのでは? それが好きに浮かぶなら」
 クオリアは首を振る。
「『芸術は無垢』『芸術に罪はない』なんて言葉もあるけれど、私はそうは思わない。例え芸術そのものは無垢で罪のないものだとしても、それを扱う人間はそうではないわ」
「それは、考えすぎじゃないかな」
 慰めと困惑の混じるニトロの言に、クオリアは自嘲するように笑った。
「いいえ。自分で分かるのよ。これは詩想が紡いでくれたものじゃない、ゴシュペが吹き込んでくるものだって」
「――?」
 彼女の言っていることが半分解らず、ニトロはハラキリを見た。
「ゴシュペは東の神話の“醜聞”を人格化した女神。転じて、醜聞を楽しむ心のことを言います」
 そこで一度言葉を切ったハラキリは、ふいに片手をひらりと振るや、
「ちなみにゴシュペは七姉妹の六女で、長姉に“噂”を人格化したペルファメがいます。次女に“誇張”のオルヴ、三女に“歪曲”のディストー、双子の四女“中傷”のスランデルと五女“賞賛”のラーウス、末妹には“流言蜚語”のディマーゴン。“賞賛”のみは鈍足ですが、それ以外は風神と同等タメを張る俊足。それらが大活躍するのが劇聖スロウスプーンの『ヒマワリの女王』でして」
 と、急に薀蓄うんちくをひけらかしたハラキリの意図に気づいてクオリアが付け加える。
「さっき部長かのじょが引いていたのは、その中のセリフよ」
 ニトロは感心のあまり大きくうなずいた。その様子にクオリアが笑い、その彼女の笑顔にニトロの心も――知らぬ間に強張っていたらしい心も緩む。
 クオリアはハラキリに目を移し、気を取り直すように息を吐くと、力強く言った。
「もちろん、それが本当に私の描きたいもので、描かねばならないと思えるものなら、私は描くわ。けれどそうではないのなら、私は絵を描くことを嫌いになりたくないから、絶対に描かない」
「例え飢え死ぬことになろうとも?」
「そう言えたらかっこいいかしら?」
 またも冗談半分に言っているようだが、やはりどうも冗談には聞こえない。しかしハラキリは笑い、ニトロも笑った。そしてニトロが言う。
「でも、そういう引用をするってことは本当に部長さんは演劇が好きなんだね」
「正確には“そのためのホン”がね」
「てことは、脚本ホンがない演劇は? 即興劇とか」
「見向きもしない。無言劇や舞踏劇にも興味がないわね。彼女にとって舞台はホンを語る『読み聞かせ』の場なのよ。だから、役者の演技力とは読み聞かせが上手いかどうかに尽きる――と、これが彼女の主張」
「へえ、面白い考えだけど……それだと演劇好きとはぶつかることもあるんじゃないかな」
「よく演劇部の部長――前部長か、とやり合ってるわ。そのくせ二人で劇場巡りとかしているの」
「そりゃまた。
 で、彼女は何を?」
「短篇戯曲」
「なるほど」
「演じてみる?」
「それは固辞したいな」
「あら、ニトロは演技力あると思うんだけど」
「――漫才で『役』をやってるから?」
「そう。とても上手」
「それは……漫才のために鍛えられたからね」
「それじゃあティディア様のお陰?」
 一瞬、ニトロは言葉に詰まった。ハラキリが笑いを噛み殺している。ニトロは苦虫を喉の奥に隠して言った。
「そういうことになるかな。
 だから俺のは漫才仕様。演劇用じゃないよ」
「そうかしら」
 不服そうなクオリアにこれ以上の攻勢を許せば面倒なことになりそうだ。ニトロはハラキリに助けを求めた。目で訴えた。ハラキリはすっとぼけるように明後日の方向を向いたが、ふと思い出したように振り返り、
「挿絵はどんなものを描かれたので?」
 ニトロは内心で拳を握った。それでこそ親友である。
「それは部誌を見てのお楽しみ」
 一方、ハラキリは失敗を悟った。
「とすると、それだけでも見ないわけにはいかなくなりましたかね?」
「そういうことかしら」
 くすくすと笑って、クオリアは言う。
「でも、ニトロにモデルになってもらったことは無駄になってないから」
「ん?」
「ダレイもね。ジムで見学させてもらえたことも。楽しみにしていて?」
 彼女が口にしたそのジムの見学とは、ダレイ、ニトロと餌食にした画家の粘強しつこ熱願ねつがんを逃れるためにハラキリの繰り出した一手であった。
 モデルは嫌だ。
 しかし勝手に観る分には構わない。
 そう言って、彼はニトロの通うあのスポーツジムへクオリアを招待したのである。
 そこには肉体美を誇る者、また肉体美を目指す者、運動中の人間がたくさんいる。もちろん無関係な人々を凝視し、かつスケッチすることなどマナー違反も甚だしいので不可ではあるが、クラスメートの練習している姿をスケッチすることに限れば理解は得られよう。
 ニトロが思うに。
 それはハラキリの妥協であること以上に、賭けであった。スイッチの入ったクオリア相手には非常に分の悪い賭け。己のコミュニケーション能力に不安を抱えている彼女をどうしても新たに人と知り合わねばならぬ場所に引き込むことで、もしかしたら、ひょっとしたら、あるいは? 諦めさせられるかもしれないと、そう望みを賭けたのだ。
 ――無論、彼女はがえんじた。
 ただ彼女は一人では怖い、とミーシャとダレイを連れてきた。実際、怖いというのも正直な気持ちであったろうが、それよりスポーティーな二人を連れてくることで痩せ細ったじぶんなかまに紛れ込ませたい気持ちもあったのだろう。となると、もしや彼女にその二人の友達がいなければスポーツジムという縁のない場所に踏み込んでくることはなかったか。そう思えばハラキリの賭けもまんざら分の悪いものではなかったのかもしれない。
 しかし、そうまでしておきながら、彼女がトレーニングルームでスケッチをすることはとうとうなかった。
 道具も全て持ってきていたが、現場を見てやはり他の練習生達に遠慮したのだろうし、常に動き回る目標から常に目を離すことなく心に焼きつける方が良いとも判断したのだろう。
 何より、そこで彼女は出会ったのである。
 理想のモデルと。
 そう、ニトロのトレーナーであるマドネル氏と。
 二人が初めて対面した時のことを、ニトロは鮮やかに覚えている。
 顧客の級友を歓迎したマドネルはクオリアを一目見るなりこう言った。
「プロテイン、飲みませんか」
 ミーシャはドン引きであった。ダレイは呆気に取られていた。が、クオリアは大笑いであった。前もって聞いていた人物像と、その筋肉マッスルを愛する男があまりにそのままであったからだ。
 そして改めてマドネルを見たクオリアの瞳に、火花が散ったのである。
 背の高くたくましいダレイも、実践的に鍛えられたニトロも、彼女にとっては十分なモデルであったが、その二人が比較にならぬほどマドネルは作り上げられていた。
 まるで生きた古代の彫像。
 謳われる怪力の士!
 その時代の息吹に刺激された画家にとって、これ以上の素材が他にどこにあろう?
 君には見所があるとダレイを勧誘するマドネルを彼女は逆に勧誘し返した。
「うちの部でモデルになってくれませんか!?」
 マドネルは驚くほど喜んで引き受けた。何しろその理由が「美しい筋肉だから」というのであれば彼が喜ばぬはずもなかった。
 そのやり取りに、ニトロだけでなく、ミーシャも、ダレイもハラキリも驚いていた。
 後から聞いた話によると、クオリアは自分の絵のため――ということはもちろん、後輩のためにも是非モデルになって欲しいと考えたという。彼女自身、人体を描くにあたって知っておくべき構造は把握していたつもりでいたが、こうして筋肉の形象をはっきりと知覚できる肉体を前にした時、己の無知を悟ると同時に一種の感動を覚えたらしい。こんなモデルはなかなか得られない。それは貴重な機会となるだろう。
 そうして今日、マドネル氏は学校にやってくる。
 ちょうど先日ボディビルの大会があったばかりで、少しピークは過ぎても体はしっかり仕上がっている
 ニトロとハラキリは、その個人的な関係から彼を出迎えるために学校に残っていたのであった。そして――非常に気は進まぬのだが――彼との約束のためにも。

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