「――予定通りに着くそうです」
「じゃあ、迎えに行こう」
 ニトロが立ち上がろうとした時、ふと廊下から馴染みのある声が聞こえてきた。
 そちらに目をやると、開け放たれたドアの前を横切り、談笑する五人の生徒が窓の向こうにさっと現れた。先頭を行くのは黒紫の髪を夏服の背に流す少女だ。彼女の傍らに場を奪い合うようにして男子が二人、その後に続くのはペアウォッチをつけた男女……ニトロと一緒にスライレンドへ遊びにも行ったカップルである。その二人が最初にこちらに気がついた。
 笑顔で二人が手を振ってくる。
 ニトロも親しく手を振り返す。
 それに気づいた男子二人が敵意にも似た眼差しを送ってくる。
 そしてキャシーが振り向いた。
 彼女は、微笑む。
 ニトロも笑顔で応えた。
 彼女は手を振る。
 ニトロもまた手を振り返し、ハラキリは小さく手を立ててその代わりとした。
 少女は今一度目を細め、廊下の先へ消えていく。
 男子二人が彼女を追う。
 カップルも先へ進んだ。
 教室に残っていたクラスメートが隠し切れぬ好奇心を目に映している。
 ニトロは校庭を見た。
 ダレイが思い切りボールを蹴り上げていた。
 それをクレイグが見上げている。
 ぐんぐんと空に昇り、ある一点で静止したボールは、やがて顔を上向ける少年を目がけて落ちていく。
「あんだけ蹴り上げても相手の陣地にちゃんと落とせるんだから凄いよな」
 ハラキリは何も言わない。ただ眺めている。
 ニトロは今度こそ立ち上がった。そこにハラキリが言った。
「ニトロ君」
「なんだ?」
「お役目を終えたらすぐに逃げますよ」
「そりゃもちろん。てか、ハラキリは残れよ」
「御免被ります」
「だってお前の仲介だろ?」
「それは前回まで。今回は、あくまで美術部からの依頼ですよ」
「……一人だけうまく逃げ回りやがって」
 恨みがましいニトロの目を、ハラキリは素知らぬ顔ですり抜けていく。
 教室を出た二人が向かったのは、特別教室棟。その文化部の部室が並ぶ階であった。
 ニトロは、放課後は基本的に美術室にいるクオリアに聞いたことがある。
 彼女が兼部しているはずの文学部には出なくていいのかと。
 すると彼女はこう応えた。
 文学部は基本的に毎日集まることはない。個人の裁量で活動することを旨としている。普段の交流は電脳空間ネットスペースだけでも十分だ。ただし隔週に一度、『部誌』のための作品の進捗状況を“目を見て”報告し合うために集まることが義務となっている。
 しかし、クオリアはニトロにこうも語った。
 そんな文学部も連日集まる時期がある。
 それは“追い込み”の時期である。
 文学部は年に四回、秋の本誌に加え、各学期の最終日に小誌を発行している。つまり今期で言えば明日、学校SNSエスエス文学部公式アカウントからそれはダウンロード可能とならねばならない。そのため、タイミング的に各学期末テスト後はいつも部員にとって正念場になるという。
――「テストでフル回転した頭をそのまま使うのよ。だから、文学部にとってはテストの方が準備運動ね」
 クオリアは笑いながらそう言っていた。とはいえ本人は書き溜めたものがあるので問題ないと、余裕であった。
 文学部の部室の窓は不透明化されていた。しんと静まりきっている。ニトロは硬く閉ざされたドアをノックした。すぐに返事はない。やがて、
「はいよぉ」
 面倒そうな調子でドアを開けたのは制服を着崩し、脱色した髪を無造作に、というよりもぼさぼさにまとめた女生徒だった。濃い青の瞳の周囲は軽く充血し、目の下にはクマが浮かんでいる。彼女――文学部の部長は客の顔を認めると、なるほどとうなずくように、
「ああ、ニトロ・ポルカトか」
「え? キャッ!」
(キャ?)
 内心ニトロを驚かせたその声は、会議室のように並べられた机のドア側の角に座る、まだ幼い顔立ちの女子の発したものだった。校章の色は一学年を示している。彼女は反射的に手元のタブレットを持ち上げて、
「失礼だ、やめなさい」
 その時、タブレットのカメラとニトロの間に部長が入り込んだ。叱責するというより冷静に指摘するといった声のトーンが空気を凍りつかせる。当の一年生は身をすくめ、また反射的にタブレットをパタンと机に置いた。
「――すいません」
 肩を落とした彼女の声は震えている。
「すまないね、ニトロ・ポルカト」
 振り返った部長が頭を掻きながら言う。
「泣かなかったから、許してやってくれないか」
 その台詞にニトロは思わず苦笑した。
「泣いたら許さなくてよかったのかな」
「こんなことで泣くような安い涙しか持っていないんだったら、許されなくてもどうせ気にしないさ」
 ニトロは、笑った。クオリアと知己を得てから何度か会ったことのあるこの部長もなかなかの個性派である。
 時に演劇部で客演もする彼女はニトロとハラキリを部室に招き入れつつ、
「良かったら、一緒に撮ってやってくれはしないか?」
 と、親指で先ほどの女子を指し示した。この流れで断ることはお人好しには難しい。ニトロはうなずいた。
「撮ってくれるそうだ。ほれ、貸しな」
 彼女が手を伸ばして言うと、先の一年生がパッと笑顔を浮かべてこちらにやってきた。タブレットを渡された部長はさっさと写真を撮って、後輩に返す。そこに他の一年生がおずおずとやってきた。今年は大豊作にも六人の新入部員がいて、ニトロはその内の五人と写真を撮った。残る一人は興味がないらしい。……それとも、それはポーズなのだろうか。妙にニトロ・ポルカトが気になってはいるようだ。
「お前はいいのか?」
 部長が“一応”といったように訊く。その一年生は、まるで示威するかのように力強くうなずいた。
「あれはティディア様の大ファンなのさ」
 こっそりと部長に教えられたニトロは、どういう顔をしたものか解らないままその一年生を見た。ぷいと目をそらされてしまった。
「かわいいもんだろ?」
 部長の物言いにニトロは困ったように笑い、それを誤魔化すように目的の友人へと振り返る。
「お疲れ様」
 ニトロと目が合うなり、ずっとニヤニヤと傍観を決め込んでいたクオリアは小首を傾げ、からかうようにさらに言った。
「人気者ね」
 何と答えたものか、ニトロはまた困ってしまった。そうだと言えば自慢になりそうで、違うと言えば傲慢になりそうだ。咄嗟に機転を利かせ、彼は言う。
「見ての通りだよ」
 すると部長が笑った。
「うまい逃げ方だ。それなら価値観を提出するのはこちらの仕事だな」
「それじゃあ部長はどう思う?」
 その一種挑戦的な問いかけに、部長はにやりと犬歯を見せる。
「『目で見て見ざるは猿にも劣る』――人気者だよ」
「ということらしい」
 クオリアに向き直り、ニトロは肩をすくめてみせた。クオリアが笑い、部長も笑った。部員の中にも笑う者があった。先ほど叱られた一年の女子はポカンとしている。
 場が落ち着いたところでニトロは訊ねた。
「もう抜けられるのかな?」
 クオリアは手元の板晶画面ボードスクリーンを隣に座る二年の男子へ手渡した。彼はそれを真剣に観て、うなずく。彼女はさらに三年の女子に目をやった。同級生は疲れた顔に微笑を刻んだ。
「完璧」
 クオリアは部長を見た。
「それなら抜けてもいいかしら」
 既に“話”は通してあるだろうが、その確認に部長は鷹揚にうなずいた。
「だが、連絡はつくようにしておいてくれ」
「了解」
 荷物をまとめるクオリアを見ていたニトロの肩に、部長がぽんと手を載せる。不意を突かれたニトロが何事かと振り返ると、彼女はどこか挑むような顔をしていた。
「わたしの部長としての最後の部誌だ。読んでくれよ、ニトロ・ポルカト」
「ああ、読むよ。楽しみにしてる」
 その言葉に部員の大勢が反応した。その目、その瞳に光が閃いたのは、『ニトロ・ポルカト』に作品を読んでもらえると知ったためだろうか? それとも、その相手が誰だとしても、読むことを楽しみにしているという存在をはっきりと目に見たからだろうか。
 ニトロは部屋を出た。

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