「さて……」
 マドネルは気を取り直すように部長と顧問へ目で伺いを立てた。
 部長と顧問は顔を見合わせ、うなずき合い、顧問が言った。
「それでは、まずは30秒ずつ、ポーズを見せていただけますか?」
 ニトロは少し移動した。クオリアがこちらを見る。彼は微笑む。
「どのようなポーズを取りましょう」
「先ほどお取りになられたものを、順番に」
「承知致しました」
「皆さんはしっかり観察してください。この時間を実りあるものにするために」
 顧問の言葉を受けて、部員達の目に力がこもる。
「各ポーズの解説もいれましょうか。どのマッスルに注目すべきかを」
 マドネルの提案に、顧問が微笑む。
「そのポーズの名称だけなら。あとは生徒達が各々見定めますし、見定めねばなりません」
「なるほど、それは素晴らしい。ではまずは『フロントリラックス』」
 両腕を体の脇に下ろし、マドネルはまさしく“堂々”といったポーズを取る。リラックス、とはいえ全身に力が行き渡り、胸板はどんな弾丸をも受け止められそうだ。足は白布に根を張ったかのごとく、その立ち姿は巨木にも似て揺るぎない。
 部員達は、真剣に、食い入るようにモデルを見つめる。ニトロは足を忍ばせ続ける。
「次に『ダブルバイセップス』」
 マドネルが左右に広げた両腕をぐっと曲げ、力こぶを作る。
 それはあの時、この場所で、ダレイの取っていたポーズであった。
 ニトロの胸に、夏みかんの香りが吹き抜ける。
 クオリアは今日もあの情熱でモデルを見つめている。
 今にも炎の揺らぎそうな彼女の背を最後に目に納め、ニトロは、誰も知らぬうちにドアの開いていた美術準備室へそっと入った。
 そこに先ほど自分が注目を集めている隙に皆の視界から消えたハラキリが待っていた。
 二人で静かに準備室から外に出る。
 廊下には噂を知った生徒が何人か集まっていた。しかし中が見えないために所在無げにしていたところ、思わぬ所からニトロとハラキリが出てきたことに驚いたらしい生徒が声を上げる。それを背後に、二人は足早にその場から去っていく。
「マドネルさんも、十分若いんだけどな」
 人目を逃れて階段を降りながらニトロが言うと、ハラキリは笑った。
「それはニトロ君もそうでしょう」
 ニトロは肩をすくめた。
「最近、やけに歳を取った気がする時があるよ」
「単に疲れているだけでは?」
「簡単に言ってくれるよな、本当に。実際疲れるんだぞ?」
「君は十分に若いですよ。気の持ちようです」
「ハラキリは年寄り臭いよな」
「自覚しています」
「でも年寄り臭いってのは若い人にいう言葉だよな」
「ふむ。物は言いようですね」
「それで。
 ハラキリはこの後どうするんだ?」
「どこかで時間を潰して、連絡がきたらマドネルさんをお送りしに戻ります」
「その時クオリアに捕まらないようにな。やっぱりあの調子だとやっぱりモデルにって言い出しかねない」
「今日はもう美術室には近づきません。事務棟で待つことにします」
「よろしく伝えておいてくれよ?」
「かしこまりました。ニトロ君は? 仕事にはまだ時間があるでしょう」
「そうだなあ」
「トレーニングルームにでも行きますか?」
「そういう気分じゃないな」
「ではお茶でも飲みながらのんびりしますか」
「なら園芸部にハーブを分けてもらおうか」
「ミントですか」
「カモミールもあったっけな」
「それもいいですねえ」
「クレイグは、まだ校庭にいるかな」
「どうでしょう。いたら誘いますか?」
「――いや。
 ダレイに任せよう」
「ええ。
 きっと、それが良いのでしょう」
 特別教室棟から人気ひとけのない中庭に出る。二つの棟に挟まれながらも白を基調とした壁や敷石の映じる明るさの中、月桂樹が青々と生命力に満ちている。足元を彩るインパチェンスを眺めながら、ニトロは言った。
「マドネルさんは、ほんと凄い人だよなあ」
「ええ」
「やっぱり挫折を乗り越えてきたからなのかな」
「そうかもしれません」
「てことは違うかもしれない?」
「挫折を乗り越えたら凄い人になれるとは限りませんからね」
「うん、まあ、そうかな?」
「しかし挫折を乗り越えることによって得られるものはあるでしょう」
「てことは、その得たものを活かせるかどうかが大事ってことか」
「拙者はそう考えます」
「乗り越えたこと自体はどう思う?」
「それはもちろん素晴らしいと思います。ただ、挫折を乗り越えてものちに駄目になることもありますからね。そもそも挫折によって潰れる人間も多いものですし、挫折なんぞしなくていいならしない方が良いと思いますよ」
「若い頃の苦労は〜なんて言葉もあるぞ?」
「目的に対して必要な、という前提があります。あくまで手段に付随するもの、それ自体を目的にしちゃいけません。大体、苦労しっぱなしで根性のひん曲がった人間も数多くいるものです」
「それは、うーん……そういうもんかな」
「君は苦労のしっぱなしで、挫折も色々と経験していますがね」
「あれ? 根性のひん曲がったって俺のこと?」
「しかし君はそれらを着実に乗り越え、糧にしてきているから素晴らしい」
「……」
「そして人に笑われている」
「笑ってもらってるんだ!」
「カモミールにします?」
「まったく、お前はもうちょっとこう……まあカモミールでいいけどさ、言い忘れてたけど今の時期のはちょっと苦いぞ?」
「苦いくらいでちょうどいいんじゃないですか?」
「ちょうどいい?」
「ええ、毒でもなければ」
「毒って、はは、そうかな――そうだな、ちょうどいいか」
「では、今度はちゃんと許可を取りにいきましょうか。悲しませないためにも」
「ああ、そうしよう」
 中庭の外へと向かおうとするハラキリの軽口にニトロはうなずき笑い、そこでふと目を落とした。脳裡に去来したその考えを一度咀嚼し、それをつぶやくように口にする。
「挫折の話とはちょっと違うけど」
 ハラキリが振り返る。
「悲しいことがあるから喜びがあるって言うだろ?」
「そんな感じでよく言われますね」
「それもさ、悲しいことは……やっぱり、少ない方がいいよな」
 ハラキリは視線をニトロから前方へと向け直し、どこか愉快げに言った。
「君がそう思えるのは、やはり苦労をしてきているからですかね?」
 自ら話を混ぜ返すようなその言葉――しかしその先にある親友の意図を見つめて、ニトロは、ただ笑った。

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