即席『ニトロ・ポルカトのお菓子作り教室』は和やかに進んでいた。
校庭の片隅に
昨年の『レモンカード』のアレンジである。ハラキリが語っていた園芸部部長の話から発想したものであったが、フルニエが園芸部全員をこの『教室』に招待してしまったからにはむしろ必然的な決定だったのかもしれない。
材料他、必要なものの買出しはもちろんハラキリにやらせた。
すると昼休みに出かけた親友殿は頼んでもいないタルトカップまで買ってきた。
そのためメニューが増えてしまった。
つまんで齧れる『夏みかんカード・タルト』である。
袋の中には使い捨てコップとティーバッグも入っていた。
つまりこれでお茶でもしよう、ということらしい。
何を考えてこんな提案をしてきたのか。いつも何を考えているのか分からない、打算尽くめで動くことも顕著な曲者であるが……いや、今回ばかりはおそらく他意はあるまい。たまたま目についたから――それが理由だろう。彼もたまにそういうことをする。まあ今回は別に嫌なことをさせられるわけではないからいいだろう。フルニエ、キャシーと一緒に菓子作りというのも悪くはない、というか、むしろ楽しそうだ。
渋々ながら放課後のことを考えているうちに気分の乗ってきたニトロも思いついたことがあり、夏みかんカードは二種類作った。
一方はバターを用いた正統派。
もう一方はバターを用いぬ低脂肪派。
雨の中、追加の買出しをさせたハラキリは目を離した隙に調理室から消えてしまったが、品目が増えても手は十分に足りた。その手となってくれたのが特にキャシーである。彼女はお菓子作りが趣味だと言っていたが、実際、とても手慣れていた。手先も実に器用であり、随所に行き届く細やかな気遣いは作業の質を大いに高めてくれさえした。その姿を、クレイグが惚れ惚れと見つめていた。
しかし、そのため所在がなくなってしまったのが、先に手伝いを申し出ていたフルニエである。料理店でもアルバイトをしている彼は夏みかんの下処理をして以降、特に活躍の場もなく、最終的に雑用係を買って出たクレイグの指南役とでもいうような立場に落ち着いてしまった。
それでも時々は園芸部の三人へのレシピの説明に加わろうとするし、ニトロも彼に話題を振ってみるのだが、どうしても長続きしない。園芸部員達に別の話題を振ろうにも彼女らはお菓子作りを見つめながらキャイキャイと声を弾ませ、中でも副部長は
一段落つき、残った夏みかんカードの粗熱が取れるのを待つ間、次の用意を進めながらニトロは視線をぐるりと巡らせた。
園芸部員達は芍薬にポルカト家の庭の写真を見せてもらっている。
芍薬は時折こちらに許可を求める時以外、常に園芸部員達をもてなしている。
クレイグはいつも嬉しそうだ。
煮沸消毒した瓶を並べるキャシーの横顔には微笑がある。
制服の上に白いエプロンを着けた彼女は、やはり綺麗な女の子だとニトロは思う。園芸部の二年生がちらちらと彼女に羨望の眼差しを向けていた。彼女は初めて会った園芸部員達にも屈託なく接していて、実に自然に親しんでいる。身に纏う雰囲気は上品、笑う姿はとても可憐だ。もし自分が『ニトロ・ポルカト』でなかったら、きっと彼女に憧れていたこともあっただろう。
「キャシーが手伝ってくれて、助かった」
調理室の備品であるハンドミキサーを試しに動かしながらニトロが言うと、自慢の黒紫の髪をポニーテールにまとめたキャシーは嬉しそうに目を細めた。
「足手まといじゃなかった?」
「それどころか時間が短縮できた。本当に手際がいいから驚いたよ」
「ニトロに誉められたのなら、自信を持っても誰にも文句を言われないわね」
「俺が誉めなくたって誰も文句を言わないさ」
「そう? ありがとう」
キャシーは歯を見せずに笑う。わずかに傾げられた首に
「それなら将来はお菓子屋さんになるのもいいかもしれないわ」
道具の使い方を確認し終えたニトロは、ハンドミキサーをボウルの横に置く。
「お菓子屋さんになりたいんだ?」
「子どもの頃によく夢見ていたの。好きなケーキを好きなだけ作って好きなだけ食べられたらどんなに素敵だろうって」
「ああ、俺もそういう風に思ったことがあるなあ。ケーキじゃなかったけど」
「ニトロは何を食べたかったの?」
「小学校に入ったばかりの頃、ポテトチップスにハマっていてさ。それで店に並んでいるのを全部買い占めて食べ尽くしたいって思ったことがあるんだ。――だけど」
「なあに、笑って。どうしたの?」
「まあ買い占めるのは無理だから、小遣いはたいて安売りしていた大入り袋を買えるだけ買ってきたんだ。でも当然食べ切れないし、酷く胸焼けして気持ち悪くなるし、どんなに好きなものでも食べ過ぎると地獄だってその時知った」
「そんなに食べたら私も絶対に気持ち悪くなっちゃうわ。ケーキだってそうね」
「そういやキャシーの好きなケーキって?」
「色々好きよ。ガトーショコラ、ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキ、タルトオポム、キャラメルムースにクリームたっぷりのシフォンケーキ。でも一番は、やっぱりイチゴのショートケーキ」
フルニエと話しながらクレイグが耳を澄ませている。彼も彼女の好みを知っているだろうが、やはり気になるのだ。
ニトロは言う。
「イチゴのケーキは俺も好きだな」
「ニトロは上のイチゴはいつ食べる?」
「大体途中で食べるよ」
「私は最後」
「それじゃあキャシーは美味しい物は最後まで取っておく派? そういやいつも何かと最後に一番美味しそうに食べてたね」
「よく見ているのね。ちょっと恥ずかしいな」
「恥ずかしいことはないと思うけど」
「ニトロはいつも美味しそうに食べているけど、やっぱり途中派だから?」
「そういうわけでもないな。イチゴだって最初に食べることもあるし、その時の気分が一番大きいから……むしろ、いい加減派かな? ただ食べるのが好きなだけだよ」
「実は食いしん坊?」
「わりとね」
キャシーはころころと笑う。
「俺は最初派だ」
フルニエが入ってくる。彼に促されてクレイグも言った。
「俺も最後派だな」
「おそろいね」
キャシーの眼差しにクレイグは微笑む。二人の間には暗黙の了解がある。おそらくデートの記憶が、交わるその視線の中に蘇っているのだろう。
「そんで最後に『あ〜ん』とかやってんじゃねぇだろうな、おい」
妬み丸出しでフルニエが腐してかかるが、二人は恋人ならではの目配せと、共通した仕草でそれをあしらう。あしらわれたフルニエは不満を隠さないが、クレイグの顔に隠し切れぬ照れを見て毒気を抜かれ、そこでやっかみを入れるように彼の肩を小突き、それでも消えない友の笑顔に嘆息混じりに肩をすくめてニトロへ視線を投げる。ニトロは笑った。
彼らの様子を眺める園芸部員達は無理に会話に入ってこようとはせず、また仲間内で話をすることもなく黙っていた。教えを請うている相手が初対面の人物ばかりということもあろうが、それよりも『有名人』の普段は見られぬ顔に好奇心を満たされているらしい。