ニトロは粗熱の取れた夏みかんカードを、バター使用のものから瓶に移していった。それをキャシーが手伝う。とろりとしたクリームイエローが瓶の底に溜まっていく。
「ニトロが好きなケーキは、他にもあるの?」
 バター不使用の夏みかんカードも瓶に納め、空いたボウルを洗いながらキャシーが話の穂を接いだ。ニトロももう一つのボウルを洗いながら答える。
「特別好きなのはないかな。あえて言うなら美味しいのがいい」
「それってむしろ贅沢な好みじゃない?」
「そうかもね。あとは飲み物に合わせて、やっぱりその時の気分だよ」
「飲み物はカプチーノ?」
「大体。それでコーヒー系ならシフォンとかチョコレート系が多いかな。タルトなら紅茶がいいけど、酸味の強いコーヒーならそっちもいいな」
「やっぱり贅沢」
 キャシーはふふと笑う。洗い終わったボウルをクレイグが拭いている。
「こだわりがあるのね」
「そうだなあ、言われてみればこだわっているかもね」
「タルトで一番好きなものはある? やっぱり『美味しい』もの?」
「やっぱり、そうだね。だけどあえてと言うならミックスベリーが一番好きだ」
「それじゃあ今度作ってあげる。私、タルトが一番得意なの。今日は生地まで作る時間はなかったから――」
 彼女の目は冷却器の中で冷やされているタルトカップに注がれている。総数36個。その土台カップは全て袋から取り出しただけの市販品である。ニトロはうなずき、
「まあ、今日はいきなりだったからね」
「夏休みになったら皆でピクニックに行きましょうよ」
 と、キャシーは恋人へ振り返った。
「またスライレンドで、公園の広場でご飯を食べて、東屋ガゼボでお茶をして、きっと素敵よ」
「いいね」
 クレイグは楽しげにうなずく。
「皆で行こう」
「忙しいと思うけど、その時はニトロがお弁当を作ってきてね」
「ああ、いいよ」
「フルニエも」
「いやー、どうかな。俺もバイトで忙しいしよ」
「いいじゃない、来てよ。だってあと一年もないんだから」
 そのセリフにクレイグの顔色が変わる。それは切なげで、何か怯えているようでもある。様子が変わったのは彼だけではなかった。無論ニトロも思うところがあり、フルニエもどこか感慨のようなものを浮かべている。特に園芸部に動揺があった。一年生のいない部は、来年はどうなっているだろう?
「ま、それなら、どうにかして行くかな」
 フルニエが場の空気を読んだかのように言う。
 キャシーは己の言葉のもたらしたものを何も感じていないように、彼の承諾に笑顔を浮かべた。
「だがそんならカスタードパイも作ってきてくれよ。俺はカスタードが好きなんだ」
「ええー、いやよ」
「何でだよッ」
「荷物が増えちゃうし、そんなにあっても食べ切れないわ」
「俺が独り占めしてやるからいいじゃねぇか」
「食べ過ぎると気持ち悪くなっちゃうわよ?」
 先ほどの話が丸めてフルニエに投げつけられる。クレイグが吹き出して、ニトロも笑った。フルニエは不機嫌に頬を歪める。キャシーはまたころころと笑って、園芸部員の二年生がその光景を羨ましそうにじっと見つめる。その姿を三年生達が不安げに見守っている。
 と、そこに闖入者ちんにゅうしゃが現れた。
「いやはや雨がひどい」
 がらりとドアを開け、肩から背中にかけて、何よりズボンの裾をびっしょり濡らしたハラキリが何か緑色のものを片手に調理室に入ってくる。皆の目がそちらに集まり、園芸部の部長が「あ」と小さく声を上げた。
「あれ? 駄目でしたかね」
 部長の反応に足を止め、ハラキリが言う。彼が手にしているのはミントだった。
「果実以外は許可が必要でしたでしょうか」
 部長は妙に堂々としている相手に気後れした様子を見せた。しかし彼女はすぐに威厳を繕い、
「はい。せめて一言でも言ってほしかったです」
「それは申し訳ありません。以後、気をつけます。……今回は」
「――わたし達もご馳走になりますので、駄目とは言えませんよ」
 そこで態度を緩めて、サイドテールの髪を揺らして部長は微笑んだ。
「むしろ、わたしが気の利かないことをしてしまいました。この雨の中、ありがとうございます」
「そう言われると逆に立つ瀬がなくなりますねえ」
 頭を掻いてハラキリが進んでくる。部長が笑い、それにつられて園芸部が笑う。ニトロも笑った。キャシーとクレイグ、そしてフルニエはどこか感心したように部長を見つめている。
「間に合ったようで良かった。足りますかね?」
 ハラキリが採ってきたミントは茎つきで数本。その葉の特徴を見たニトロは親友の目敏めざとさに胸中で感心する。自分も学校のあちこちにハーブが主役として、それともコンパニオンプランツとして、あるいはグラウンドカバー用として植えられていることを知っていたが、その『サラダミント』があるとまでは知らなかった。幾種もあるミントの中でも香りは穏やかで、そのまま単体でサラダにできるほど食味もいい品種。菓子にはもちろん適しているし、他のミントでは強すぎるという場合にも重宝だ。少し育ちすぎていて、大きすぎる葉も多いが、
「十分」
「こちらで洗っておきましょう」
「よろしく。ああ、濡れていたらあれだから」
「了解です」
 瓶に移した二種類の夏みかんカードはさらに熱が取れ、程よく固まっている。冷却器の中のタルトカップに注がれたカードはそろそろ芯まで冷めただろうか。残り時間を考えたら次の工程に進まねばならない。まあ、冷めてなかったとしてもそれなりに味わえるだろうし、文句が出たら笑って誤魔化そう。ニトロはホイップクリームを作り出す。
「怒ラレタネ」
 芍薬がハラキリに言う。
「怒られましたね」
 ミントを洗いながらハラキリは飄々と言う。ひょっとしたら……許可を取らなかったのはわざとだろうか? 彼は付け加えるように言った。
「撫子には内緒で」
「サテネ」
 彼の真意は判らぬが、そのやり取りを小耳に挟んだニトロは笑いを堪えるのに凄まじい努力を要した。
 ハラキリはそれに気づいていたようだが何も言わずに洗ったミントからペーパータオルで水を吸い取っている。
 そのハラキリに園芸部が近づいていった。先ほどのやり取りに加え、彼が芍薬と親しげな様子を見せたことで壁が一気に薄れたらしい。部長が先陣を切って朝の件を持ち出して、そこから何気なく話が広がっていく。
 気がつけば、ハラキリが招待客ゲストに対する主人ホストのようになっていた。
 芍薬がうまく双方の媒介になっているし、ハラキリも何だかんだでそつなくそういう役割をこなすからニトロには安心だった。フルニエはちょっと悔しそうだが、彼は『オリジナルA.I.』が少々苦手なので、まあ、仕方がない。
「ホイップクリームも売っていますよ」
 と、ハラキリが、難しそうだと不安を訴えた園芸部員に言う。
「初めから絞り袋に入っていますので、それを買ってくればこんなことをする必要はありません」
「おいおいそれを今一生懸命作ってるやつの目の前で言うか?」
「ご苦労様です」
「よぅし、お前のクリームにだけ塩を入れてやる」
「全部混ぜているのに選択的に塩を入れられるとはニトロ君は器用ですねぇ、神業です」
「はっは、神業が欲しいなあ、そこまで器用じゃなくて残念だよ。ところでそろそろいい感じになってきたんだが味見しないか? 口を開けろ、ミキサーごとツッコンでやる」
「ところで中庭に月桂樹がありまして」
「? ああローリエか、まあ、シチューやらトマトソースやら。作らないぞ」
「ローズマリーとオレガノもありました。肉料理の定番ですよね」
「そうだな。自分で作れ」
「最近敷地内にイチジクも見つけたんですよ」
「じーぶーんーで、つーくーれ」
 これまでとは違うニトロ・ポルカトの様子。しかし攻撃的に言いながらも親しみの消えない彼とその『師匠』とのやり取りに初めは園芸部員達も面食らっていたが、すぐにメディア越しに見る『ニトロ・ポルカト』の面影を目の当たりにしたのだと、その面々に喜びが表れる。
 ホイップクリームを作り上げたニトロは冷却器からタルトカップが12個並ぶバットを取り出しにかかった。クレイグとフルニエが手伝って、3つのバットを全て台に置く。
 タルトカップの中の夏みかんカードはしっかり冷めているようだった。バター使用のものとバター不使用のものが同数、同じクリームイエローながらもわずかな色の差が両者を区別させて目に楽しい。ニトロはホイップクリームを詰めた絞り袋を手にしたところで、ハラキリに訊ねた。
「あっちには何人?」
「三人」
 ニトロは、笑んだ。そして次の作業に移ろうとして、ふと、彼はキャシーを見た。
「やる?」
 と、口金を付けた絞り袋を軽く持ち上げてみせる。
「私がしてもいいの?」
「そりゃね。ある意味、花形だし」
「嬉しいな。それじゃあ任せて」
「うん。ああ、これは無しでね」
 二色のタルトカップをそれぞれ幾つか除外したニトロにキャシーが怪訝な眼差しを送る。
「調整だよ」
 それをバター使用・不使用と合わせて、生クリームあり・なしでも調整するのだと受け取ったキャシーはうなずいた。
 ニトロは冷蔵庫から夏みかんのコンポートを取り出してくる。ナイフで切り出した果肉の爽やかな黄色が甘い艶をまとって輝いていた。本来ならこちらももっと時間を置いて味を馴染ませたいところだが、上出来だろう。
 キャシーがタルトカップにホイップクリームをリズム良く綺麗に搾り出していく。
 そのクリームの上に、ニトロとフルニエが水気を切ったコンポートを乗せていく。コンポートはクリーム無しのものにも乗せる。
 園芸部員達が歓声を上げていた。
 クレイグはここぞとばかりにモバイルで写真を撮っていた。
 ハラキリは黙々とミントの葉をむしっている。
 そのミントの葉をニトロとフルニエが一度パン! と叩き、香りを出してからタルトに添えていく。フルニエの作業姿はどこか繊細で、その立ち居振る舞いは絵になっていた。その様子にニトロは思わず口の端を持ち上げる。しかし真剣なフルニエはそれに気づかない。
 小ぶりな小麦色のタルトカップを満たす、クリームイエローの夏みかんカード。
 その上に真っ白なホイップが優雅に座り、そこに艶やかな黄色い果肉が飾られて、色鮮やかなミントの緑が全てを引き締める。
 完成したカップスタイルの『夏みかんカードのタルト』が並ぶ様はとても可愛らしく、それなのに、どこか壮観であった。
 手を拭きながらニトロは言った。
「さて、それじゃあ片付けの前に味見をしようか」
 黄色い声が調理室に響いた。
「好みのものをどうぞ、ミントが苦手なら外してね」
 一人一人、手を伸ばす。
「いただきます」
 先生ニトロの音頭で皆一斉にお菓子を口にする。
 そしてまた、歓声が響き渡った。

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