(『彼の分別、彼女の流儀』の前)

 霧が立ち込めていた。
 ほんの1m先の物も輪郭がぼやけ、5m先ともなればうっすらとした影を残して灰色がかった白に沈む。呼吸する大気は冷たくも濃密で、体を覆う外套の表面はしっとりと濡れている。足下には黒い地面があり、細い道の両脇には茶枯れた草が湿り気を帯びて這いつくばっている。
 払暁ふつぎょうの光はか弱く、色濃い霧を払うにその力はまだ足りない。
 ニトロは不安な気持ちで歩を進めていた。
 隣には同じ外套を羽織るティディアがいる。
 先頭を登山家ばりに大きな背嚢を負ったハラキリが歩いている。
 殿しんがりにはハラキリと同程度の大きな背嚢を負ったヴィタがいる。
「……」
 どんなにあたりを見回しても、何も見えなかった。数十分前からずっと歩き続けているのだが、視界に入る景色はいつまで経っても霧と足下にだけ現れる黒い道だけで、そのためずっと同じ場所で足踏みし続けているような錯覚に襲われて仕方がない。時折前方の白い闇の一画にいきなり濃灰色の亀裂が走ったかと思うと、近づくにつれて葉の落ちた木が正体を現して、通りすぎたそばから空白の中へと溶けていく。その時ばかりは自分達が間違いなく歩を進めているのだと確信するが、非現実的な光景に知覚が乱されてそれも次第におぼつかなくなってくる。
 アデムメデス国教会の祭事――それに関連して行われるイベントのために南大陸にやってきていたニトロ・ポルカトは、つい先刻まで快い眠りの底にいた。
 それが突如部屋に入ってきた親友に叩き起こされ、連れ出され、まだ真っ暗な内から飛行車スカイカーに押し込められて、そうして今、仇敵たる王女と並んでまるで見通しの立たぬ不安な道行に付き合わされ続けている。
 不安でならなかった。
 現時点において彼を支えているのは、この事態をどうやら芍薬が承認しているということのみである。何しろこういう不自然な状況において親友はたまに厄介な敵の協力者となるから信用することができない――が、そのハラキリ・ジジに、芍薬は「ヨロシク」と声をかけていた。だからニトロは初めから現在に至るまで逃亡を図ることなく、とかく訳もわからぬままに霧の底を歩き続けていられた。
「……」
 外の見えぬよう窓に細工のされたスカイカーを降りた時からこの調子である。
 霧の切れ間は一寸たりとも現れたことがない。
 この地へのニトロの第一印象は不気味だということで、現在もそれは変わらない。もう少し霧が薄ければ神秘的に感じられもしようが、これほど濃い霧はこの世のものとも思えなくなってくる。
 さらにニトロにとって不気味極まりないことは、車を降りたところで合流したティディアが朝の挨拶を交わして以降はずっと沈黙を貫いていることだ。
 彼女は黙々と歩いている。
 彼女だけではない。その執事も、車中でどこに何をしに行くのかという問いをはぐらかし続けてくれた親友も、ずっと押し黙って歩いている。
 道の地肌は段々荒れてくる。何度か枝分かれした後には明らかに人の踏み入れることの少ない獣道となり、露に濡れた石や草が黒い地面を覆い隠していく。道幅が狭まったことでティディアが後ろに下がった。こちらの踵とあちらのつま先がほとんど接するような近さでついてくる。
 いよいよニトロは不安になった。
「なあ、どこへ行くんだ」
 慣れた街道を行くようなハラキリの背に問いを投げかける。声すらも霧に包み込まれ、一音一音がブツ切れに聞こえて、そのため目標に届いたかも判らない。
「もう教えてくれてもいいだろ」
 少し声を高めてニトロが付け加えると、ハラキリは振り返りもせず、
「もう少しですよ」
 と、それだけを言った。彼の歩みは鈍らず、むしろ急ぎ出している。
 ニトロはすぐにも霧に飲まれて消えてしまいそうな親友を見失わないように追いかける。いまいち信用の置けない状態だとしても、やはりこの場で最も信頼できるのは彼を置いて他にないのだ。道が全く荒れてきた。今まではほとんど平坦だったところに起伏が現れ、やがて険しさを増す。隠れた石につまずきそうになり、濡れた草に足を取られそうになり、慎重に進もうとして思わず歩度が遅くなる。
「もう一息よ」
 ティディアが言った。それだけを言って、彼女はまた黙々と背後についてくる。特に足を速めてきたわけではないが、ニトロは追い立てられているような気がしてならない。
 疑念は深まる一方であった。
 そんなに急ぐならスカイカーで目的地まで飛んでいけばよかったろうに……ならばこの道中に意味があるのか。そもそもこの道程に何の意味があるのか。芍薬を納得させるようなことだから、それなりに大きな意義もあるはずなのだが……
 外套に包まれる体は温かい。通気性の高い生地のため蒸れることもなく、外気の冷たさと合わせれば爽快と言ってもよく、こうしてうねるような大地を上り下りしているとちょっと難儀な早朝ハイキングに連れ出されただけなのではとも思えてくる。
 視界の隅を影が走った。
 何かと思えば数羽の鳥が足音に驚いて飛び立ったらしい。霧の中をふうわりと揺らぐように、まるで無重力空間に羽ばたいているように、大きな翼が音もなく霧をかき回して消えていく。
 歩を進めるに連れて、時も進む。
 ニトロは霧の底にあって日差しの強まりを感じた。ほんのわずかずつ、白の彩度が上がっていく。
 下り道が終わり、これまでで最も傾斜のきつい坂が現れた。
 休む間もなく歩みを遅めず登っていく。
 ぼそりとハラキリが何かを言ったようだ。
「え?」
 ニトロが聞き返すと、ハラキリはようやく足を止めた。振り返った顔には笑みがある。
「間に合ったようですね」
 ティディアが立ち止まったニトロを追い越して、ハラキリにうなずいてみせる。ニトロはまだ不可解の中にいる。疑念は晴れない。ヴィタが隣に並んできた。
「あちこち歩かれませんように」
「え?」
「場合によっては、死にます」
「――え?」
 マリンブルーの瞳は本気である。ニトロは周囲を見回した。霧に包まれている。通ってきた限りは潅木かんぼくも少ない草原、それとも湿原の辺縁であるらしいこの地は一体何であるのだろうか。もしや猛獣の住処なのか。あるいは底無し沼でも点在しているのだろうか。立ちすくみ、耳を澄ませば、どこからかどうどうと水の音が聞こえてくる。
「ニトロ」
 呼ばれて振り返ると、ティディアが手を繋ごうとしてきていた。ニトロは反射的にその手を振り払う。すると彼女はしつこく手を伸ばす。
「駄目よ、ニトロ」
 気がつけばハラキリとヴィタの姿が消えていた。どうどうと絶えぬ低音に混じって人の声がかそけく聞こえる。ティディアはそちらの方角へニトロを引いて行こうとしているらしい。彼はヴィタの警告を顧みた。その警告自体が罠かとも疑うが、どうもそうではないらしい。さっさとどこかへ行ってしまった保護者ハラキリが恨めしくなる。彼は躊躇い、躊躇いながら手を差し出した。その手を握って、ティディアは目を細めた。
「さあ、こっちへ」
 歩き続けてきた彼女の手は温かい。
 ニトロは不本意ながら引かれるままに歩いた。
 道の傾斜がなだらかになってくる。
 どうどうと流れる音を背景に、数人の声が入り混じる。声はしだいにはっきり聞こえてくる。日は高く昇ってきている。
「これはこれは!」
 霧の向こう側から楕円の影が滲み出してきて、それが人の形を取ったかと思うと僧衣を纏う男性が突然姿を現した。彼は両腕を広げて坂をこちらへ駆け降りてくる。途中で彼はこちらも彼を視認したと察したらしく、その場で急にひざまずくや深々と頭を垂れた。
「この度はまことに光栄の至り! わたくし――」
「よい」
 男の口上を一言で切り止め、王女はニトロの手を引きながら訊ねた。
「どう?」
 すると男は髭を慌てて剃ったのであろうカミソリ負けした顔を上げ、まばゆそうに王女を見つめた。そこには美を目にする恍惚と、威を前にした畏れがある。
おそらく
 どうやら男は土地管理者であるらしい。ティディアは鷹揚にうなずくと、ニトロをさらに先へと誘った。ひざまずく男が慌てて道を開ける。彼は恭しく王女を通すと、彼女に手を引かれる少年へ目を向けた。その目には羨望と、同時に何か……そう、そこには子どもの前でプレゼントを後ろ手に隠した大人の眼差しがあった。
 男のその眼を見た時、疑念ばかりではち切れそうだったニトロの胸に初めて期待が芽生えた。それが何に対する期待なのかは分からない。ただ、とにかく、ここには一見の価値のある何かが霧によって隠されているのだ。
 ニトロはティディアと手を繋いで坂を登っていった。こういう状況ともなればいつもは鬱陶しく身を寄せてくるはずの彼女は手を握ることだけで満足しているらしく、それどころか二人寄り添い歩く現在よりも未来に期待を寄せて頬を明らめている。
 こいつは何を考えているのだろう?
 坂を登るうちに霧が薄まってきた。足元の霧はまだ濃いが、頭上のとばりはもう消えかけている。白いヴェールを透かして空の青が見えた。その青は薄く、ふいに濃く、突如としてニトロは霧を突き抜けた。

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