「おお」
彼は思わず声を上げた。
自然の悪戯と言おうか、地形の妙と讃えようか、丘を登りきったところで彼は霧の上に出た。
周囲に、すぐ足元に、今まさに自分達が歩いてきた場所に、湖があった。
そう、まさに雲海の上に出たように、この丘からは霧の湖が見渡せた。
眼下一面真っ白である。
ぐるりと眺望すると、どうやらこの地帯は盆地状になっているらしい。左右を小山のような丘陵が取り巻いていて、ずっと後方には高台が見える。そこには国教会の高い尖塔が望めた。振り返って前方にはほとんど間近に岩山が、突然地中から立ち上がったかのように二つ並んで聳えている。ここから見上げるとどちらも巨壁のように高々と切り立ち、双峰の様子が似ているところからすると、双子なのか、あるいは元は一つであった岩山が真っ二つに割れたのであろうか。その割れ間からは山向こうの空が覗いて見える。その底は深い谷になっているらしい。盆地に溜まった霧は、その深い谷へと流れ込んでいる。
「……おお」
ニトロは感嘆の吐息を漏らした。
谷へ流れ込む霧は雄大な川となっていた。
それは荘厳で、神秘的な光景だった。
どうどうと遠くから水音が聞こえるのはやはり本物の川があるからだろう。
おそらく霧はその川の流れに沿って流れているのだ。
霧の中を歩いていた時には地上に滞り、全く動いていないように思えた白い塊が、巨大に、緩慢にうねりながら谷底を舐め尽くしている様を見ていると、ニトロはふと恐ろしさを感じた。
まるで滝を眼前にして川に浮かびながら、すぐ目と鼻の先で滝つぼへ落ちていく水を見つめているかのようだ。体を岸に結びつけているから自らも流れ落ちることはないけれど、見つめているうちに常に延々と落ちていく水の流れに心は引き込まれ、そうしているうちに体を離れた魂だけがそちらの方へと吸い込まれるような気がして幻惑されてくる。
ニトロは知らず、ティディアの手を強く握り締めていた。ティディアは痛みを覚えながら、しかしそれを大切に握り返していた。
――はっと気がつき、ニトロが手を振りほどく。
ティディアは眉を曇らせたが、すぐに少年をからかうように目を細めた。少年はどこかバツが悪そうに目を背ける。彼女は唇を微かに動かし、それから少し離れた場所にいるヴィタへ声を投げた。
「時間は？」
「間もなく」
ここでは声は良く響く。
朝の光はどこまでも無邪気で、霧の川の上に立ち込める幽かにモヤのかかった清廉な大気を淡く黄金に輝かせている。
ニトロはそこでヴィタの周囲に七人の男女がいることに気づいた。先程の僧衣の男性もいる。彼以外にまた二人が僧衣を着ていて、他は作業着を着ていた。土地の管理だけでなく研究もしているのだろう、僧侶達は国教会の
「ハラキリ君より向こうに行っちゃ駄目よ」
と、ティディアが囁いた。
「あの先は、崖だから」
ニトロはぞっとした。ここから少し低い場所で両足を霧にかすませるハラキリの先はもう地面が見えない。ヴィタの言っていた意味が今になってはっきりと理解できた。おそらく、この丘からあの二つの岩山に至る途中にも深い溝が大地を横切っているのだ。どうどうという水音は、まさしく滝の音であるのだろう。
「ここは長らく王家の秘密の一画。国教会の秘匿する所、神の秘蹟を知る処」
謳うようにティディアが言った。
ニトロは思い出した。
南大陸の絶景の一つ。
それを見ようという人間は、現在も王家と国教会の厳しく管理する土地に特別に立ち入りを認められた上で『その時』に遭遇する奇跡に恵まれねばならない。
彼はティディアの、皆の見つめる方角に目を向けた。
盆地に溜まった霧の湖がやがて川となって流れ込んでいく険しい谷間。
谷を切り出す岩山の表面は、鏡のように輝いている。夜露に濡れた岩肌が光を反射しているのだ。
皆が押し黙る。
ニトロも沈黙した。
ティディアがそっと肩を寄せてくるが、彼はそれに気がつかない。
その絶景の実現する条件が揃うのは、年に一・二度あるかどうかだ。
岩の二山の割れ間に覗く細長い空の奥底に、目が痛くなるほどの明るい光が差し込んできた。
太陽だ。
先触れの光を追って岩山に隠されていた太陽がふいに谷間に現れ、水平線に昇る朝日のごとく霧の上に出てくる。瞬間、眼下を行く霧が、霧の川面が、目をくらませるほどの金色に輝いた。
「すごい」
ニトロが小さく声を上げ、さらに光が増した時――
「おおお！」
管理者達が声を上げた。
ニトロは息を飲んだ。
谷に満ちたあまりに眩い光が霧を貫く。
すると金色に輝いていた霧の川が、見る間に金の粒子をほどいて七色に染まった。
霧は今や地表を覆う彩雲となってうねり、波打つ。
それはまるで虹の川であった。
虹の川は流れながら所々で瀬に白泡が跳ねるように彩雲から霧に戻り、霧から黄金に移ろったかと思うとまた彩雲に変化し、光と戯れ、悠々と過ぎ去っていく。
「……ああ」
言葉もなく、もはやため息をつくしかないニトロは眼前に広がる荘厳な光景に圧倒され、魂を奪われていた。その瞳は潤み、透き通る陽光を浴びて煌いている。ティディアは彼のその喜びを見つめていた。
やがて、虹の川は太陽が昇るにつれて姿を消した。
ほんの僅かな時間だけの景観は、まさに幻のごとく消えてしまった。
ニトロが我に返ったのは、もう虹の欠片も流れ去り、黄金も薄れ、半ば霧に埋もれていたハラキリがこちらに戻ってきた時だった。
「どうです」
ハラキリは悪戯っぽく片眉を跳ね上げていた。
「夜更けに連絡があったそうでしてね、もしかしたら見られそうだと。そこで君を強引に連れ出したわけなんですよ」
ニトロは、ぼんやりとうなずいた。色々と納得する。
「……でも、それならそうと言ってくれれば良かったじゃないか」
「それでも見られない可能性が高かったものですし、それに、言わない方がいいこともある――というわけです」
そのセリフにニトロは堪らず笑った。確かに、これは前もって『言わない方がいいこと』かもしれない。
「ニトロ」
ふいに名を呼ばれ、彼は振り向いた。声の主はいつの間にか隣からいなくなり、何かを組み立てている執事の傍で手を振っていた。
「食事にしましょう。虹は消えても、この景色は綺麗だわ」
ティディアの動きにつられて、ニトロは巨大な霧の川に目を移した。陽光が大気を温めるにつれて霧も薄れ始めている。足下にゆらめく白も、遠景を塗り潰す白もしだいに見通しが利くようになってきている。だが、それでもこの景色は確かに素晴らしい。
ヴィタが組み立てているのは組み立て式簡易キッチンだった。あの大きな背嚢には何が入っているのかと思ったら……。ティディアはハラキリが運んできた背嚢からワインのボトルを取り出してみせる。ニトロは苦笑した。
「俺は飲まないぞ」
「王権を以て――」
「乱用すんな！ それにそれは、そちらの」
と、ニトロは記録を終え、今は王女と言葉を交わす機会を待っている管理者達を一瞥する。
「皆さんに振舞うためのものだろ？」
もちろんティディアは『皆さんに振舞うため』に用意したわけではあるまい。しかしニトロの言い回しに彼女は一瞬不満の顔を見せた後、まさに初めからその予定だったとでも言うようにうなずいた。抑えきれぬ歓声が沸き上がった。
「拙者は頂きたいんですがねぇ」
隣に並んできたハラキリがぼやく。ニトロは肩をすくめ、
「ここは特区じゃない。諦めろ」
「あれはいいワインですよ？」
「なら残ったのをもらって帰ったらどうだ？」
「そうですねぇ、そうしましょうか。残ればの話ですが」
頭を掻きながらハラキリも食事の場へと向かっていく。肩を落とした親友の姿にニトロは笑い、自分も足を踏み出した。
エプロンを着けたヴィタが鍋を温めている。彼女の足元には水の入った小さなタンクが二つある。料理は湯で温めるだけのレトルト食品ばかりのようだが、遠目に見えるパッケージはそれらが超高級品であることをニトロに伝えた。数も種類も豊富だ。手伝いを買って出た管理者の一人がチーズを切り分けている。パンもあり、新鮮なサラダもある。ワインは数本。ソフトドリンクもあるようだ。食料込みで簡易キッチンを納めていたヴィタとハラキリの背嚢は、分け合っていたとはいえそれぞれ一体何キロあったのだろうか。
「贅沢ですね」
ハラキリがつぶやくように言う。
ニトロは霧の川を見て、今一度立ち止まった。
「ああ、この上なく贅沢だ」
そして、ふと思い出して、彼は外套の内ポケットから携帯を取り出した。写真を撮り、感謝の言葉を添えて芍薬に送ろうとして、そういえば圏外であったことも思い出す。最高の瞬間には感動のあまり撮影しようと思いつくことすらできなかったから、あの幻景の画像は後で研究者から貰っておこう。是非、芍薬に見せたい。
どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。
遠くからいんいんと鳴り響いて、その音の尾だけがここまで届いてきていた。
それは後方の高台に立つ尖塔から届く歓喜の印であった。そこでは国教会の信徒達がきっと涙を流していることだろう。
「ねえ、ニトロ。サンドイッチを作ってよ」
赤の揺れるワイングラスを片手に――立派な割れ物まで持ってきていたのか――ティディアが呼びかけてくる。彼女のすぐ傍では年若い僧と作業着姿の女性とが夢見の目つきで棒立ちになっていた。どうやら揃って蠱惑の美貌に心奪われ、かつ姫君と言葉を交わせた幸せのあまりにほとんど意識を失っているらしい。
ニトロは苦笑し、再び足を踏み出した。そしてぞんざいに言う。
「自分で作ればいいだろ」
「あら、作ってくれてもいいじゃない」
「ああ、まあ、いいや。何を挟むんだ」
「あるもので適当に、それとマスタードを」
「はいはい、今朝はたっぷりだな？」
ティディアは微かに肩を震わせた。唇が我知らずほころぶ。ニトロは何事もなく向かってくる。彼女は、目を細めた。
「ええ。たっぷり、とっても刺激的によろしくね」
大吉