頭に天国錦鶏ヘブンリーフェザントを一羽丸ごと乗っけているような帽子を被る女性に一言二言返していたティディアが、ふと、誰かに目を止めた。
 その様子がやけに異様な感じでもあったから彼女の視線を皆が追う。
 カメラも追う。
 四分割された画面の一つが切り替わる。
 全ての眼差しが集まる先でビクリと震えたのは、誰あろう、ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットその人であった。
 矢のような無数の視線に射抜かれて彼女はその場で立ちすくむ。
 姉の後ろで『教育長』と話していた妹が異変に気づいて振り返り、教育長の細君を笑わせようとしていた兄の袖を慌てて引いた。
 そこへ王女が一直線に進んでいく。その進路上に入り込もうとしていた千鳥足の酔漢が驚き慌てて立ち止まろうとして失敗し、傍にいたこちらも足元よろめく酔婦を巻き込み悲鳴を上げて派手に倒れる。それらをひょいと飛び越し脇目も振らず王女は突進していく。
「おや」
 思わぬ展開である。ニトロは注視した。芍薬が邪魔にならないよう姿を消し、分割していた画面を統合し、その映像にモニターを占有させる。
 突然やってきた第一王位継承者を前にして、全く対応し切れぬ植物園園長の凍りついた顔がクローズアップされていた。
 芍薬はいくつかのチャンネルから最も良く状況の掴める映像を選別する。
 画面が切り替わり、すると半ば威圧的に立つ王女の前でセリャンダ・ゼワネット姉妹きょうだいが揃って目を剥いている姿が認められた。この反応は姉妹で似ているな――などとニトロが考えていると、最初に事態を飲みこんだ妹が挨拶をするために膝を曲げようとした、その瞬間ティディアがルクサネア・セリャンダ・ゼワネットの左手首をわしっと掴んだ、かと思えば何も言わずに楽隊の方角へと彼女をさらう。
 あっという間の全く訳が分からない状況にルクサネアは声もなく、しかし転んで王女に迷惑をかけてはならないと思ったのか彼女はつまずきながらも懸命に足を運んで途中で右左と交互に出すのを間違えて右右右とケンケンをしながらもどうにか次代の主君についていく。王女に挨拶しようと膝を軽く曲げた状態で取り残された妹と、どうやら「お」の形に口を開いたまま突っ立つ弟は、その姉の後ろ姿を未だに目を剥いたまま見送っていた。
 呆気に取られているのは何も弟妹だけではない。
 会場中の皆も何が起こっているのか、それとも何が起ころうとしているのか全く理解できず、楽団へ突撃するティディア姫と、彼女にほとんど引きずられている苔したような女を呆けたように見つめていた。
 と、その人々から声が上がった。
 カメラもその変化を捉える。
 ニトロも目をみはった。
 ふいに――まさに突如として、王女の着る純白であったはずのドレスが玉虫色に変わっていた。ドレスだけではない、手袋も同様に変色している。一方でレース飾りには一切の変化はなく、これまでと同じくダイヤの輝きに満ちた白色のままである。が、だからこそ、そのレースもまた目覚ましく変化していた。玉虫色の上できらめくその白さは格段に目に映える。さらに照明だけでなく地の色の反映をも受けることで、その煌きにはこれまでにない趣が生まれていた。
 何が契機となってそのような変化が起きたのかは解らない。
 光線の加減かもしれないし、この場に見えない女執事が特殊繊維に働きかける波長の光を主人に当てるよう工作しているのかもしれない。あるいは彼女がアルコールを摂取したからだろうか?
 何にしても、その変化は『クレイジー・プリンセス』に期待する者達を満足させていた。それまで焦らされていただけに、そこにはより大きな感動があった。
 王女の動作に応じてたえなる色彩は複雑に変幻する。
 一口に玉虫色と言ってもそれは実に多彩で、時に赤を、時に青を、はたまた黄や紫へと基調色ベースカラーをも変化させ、さらにその上に鮮やかなスペクトルを千変万化に揺らめかせる。
 なんとも不思議な色調であった。
 やがてそれを見る者達は星雲を思い出す。
 そう、その色を見つめていて自然と思い浮かんでくるのは、宇宙空間に広がる遠大にして神秘的なあの光陰。となれば輝くレース飾りはまるで網目をなす星屑の帯であろうか?……そうだ、星屑の帯、星雲! おお! 王女は宇宙を纏っておられる!――その認識によって存在感を増した姫君の姿態を、荘厳な美を、眠りから醒めたかのように理解した者達がハッと息を飲む。息を飲んでまた感動を大きくする。
 そうして人々の顔色が変わっていく様をニトロはじっと眺める。
「ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットニハ、一ツダケ専門外ノ趣味ガアル」
 と、芍薬が言ったことで、ニトロは思い出した。植物園で彼女の祖父母と話した折、ふとした弾みで出た話題。園長は――孫娘は早朝の苔庭を歌いながら見回ることが好きなのです。それを庭の隅でじっと聴くことが、祖父母わたし達の最大の悦びなのです。
 ティディアがルクサネアを連れていったのは、やはり歌壇だった。楽団の傍らにちょこんとある粗末な台で、しかしそれがこの浮かれた騒ぎに相応しいのだとばかりに腰を据えている。
 壇上にのぼせられたルクサネアは途方に暮れたように周囲を見回した。
 ティディアは楽団長に何やらひそひそと話しかけている。耳元に唇を寄せられた口髭の似合う団長は、緊張しながらも蕩けそうな顔をしてうなずいた。
 次にティディアは歌壇に戻ると、全身で救いと堪忍とを乞う女に何かを囁いた。
 植物園園長の目の色が、変わった。
 地味な苔色の衣を纏う婦人は、すっと背筋を伸ばした。
 ティディアが横目に合図をし、楽団長が指揮棒を振り上げる。
 前奏が流れる。
 ニトロはああとうなずいた。
 これはセリャンダ・ゼワネット家よりも古い歌。
 楽団長が歌壇に向けて指揮棒を振り、穏やかにルクサネアが歌い出す。
 彼女の声を――何と例えよう。
 春鳴き鳥の声、妖精の囁き、鈴の音、あるいは奏でられるハープの弦そのものが歌声となったかのように、それは美しく宴会場に響き渡っていく。
 酒気と陽気に満ちた会場が水を打ったようにしんと静まる。
 歌唱の技術は本職に劣れども、声の天分はそれを補って余りある。聞き惚れる。
 詞に紡がれるのは野の草花の名前。
 それは、レシピ。
 それは乙女がお伽噺に語られる恋の薬を作る歌。
 いつの間にか全体の照明が落とされ、歌壇に集められた光の粒子が声に震えていた。
 ニトロの瞼の裏にはいつか訪れた苔庭が浮かんでくる。
 確かに、早朝のあの庭で、どこからともなく聞こえてくるこの歌声を聴いて過ごせるというのは至福であろう。
 恋の薬の最後の材料は、乙女の涙。
 それに悲恋を予感するか、それとも喜びを予感するかは聴く者しだい。
 歌い手の唇は一体どちらを予感しながらつぐまれただろう。
 余韻が消える。
 ああ、消える。
 すると一拍の間を置いて、満場の拍手喝采が沸き起こった。
 テレビ越しにニトロも思わず手を打っていた。
 歌壇のルクサネアは、今度は歓声にどう応えればいいのか分からず顔を真っ赤にして佇んでいる。王女に何を吹き込まれたのかは知らないが――おそらく園の運営に関わることだとニトロは睨むが――歌い終わって我に返った時、彼女はとんでもないことをしてしまったと思ったらしい。とにかく何度も辞儀をして、やっと壇の傍にやってきた弟妹を見つけるや急いで逃げ込んでいく。弟妹はそのような姉を誇りながらも呆れたように出迎えて、それから彼女の代わりに周囲に笑顔を振りまいた。やがて弟に促されたルクサネアが、まだ真っ赤な顔をしたまま、目の前の貴婦人にやっとぎこちない笑顔を向ける。その貴婦人はラメの入った青い化粧によって文字通り真っ青な顔をしていて、アイシャドウはくすんだ金色、唇はビビッドな黄色、体にはコプアクアこくのドレス――巨大クラゲに胴体を突っ込んだような外観で、気泡の散るジェル状の肉厚な生地を通して向こう側が透けて見えるのに本人の体は全く見えない不思議なドレスを纏い、そうして例の副司祭の愛人を傍らに控えさせていた。
「この人は?」
 異星のメイクのせいで表情は掴みにくいが、非常に鷹揚な雰囲気を持つ女性だ。特にその面差しは鷹揚過ぎて妙な危なっかしさも感じる。
「キャリル・トルッポシオ夫人。曽祖父ガ“大老”デ、祖母ハ“ビネトス領主”夫人、母ハ有名投資家ノ妻、本人ハ資産家ト結婚。娯楽シカ知ラナイカラ娯楽ニダケ熱心ナコトデ知ラレテル。我侭放題ニ育ッタワリニ、至ッテ毒ノナイ『天使様』トモネ」
 ニトロはうなずき、となるとそこに見られる人物相関図に苦笑する。収穫祭
「何ていうか、狸と鴨が数え合ってる感じだね」
 コネも解るがもっと単純に楽しめばいいのに、と思ってしまうのは楽天すぎるだろうか? そんな自覚も込めた毒に芍薬は小さな笑い声を相槌として返してくる。
 名も無き歌姫への賞賛の声が落ち着いた頃、楽団が太鼓を打ち出した。そこに笛の音が重なり、陽気に爪弾かれるギターを聞くにつれ、人々はダンスが始まるのだと察して会場の中央部に目をやった。
 するとまた喝采が起こった。
 美声によって鎮静されていた酒気と陽気が、楽の音と、パンプスを脱ぎ捨て素足で踊り場に立つ一人の貴人の姿によって一時いっときに戻ってきた。しかもそれは一度抑えられていた反動で先にも増して明るい。
 その喝采には礼賛も含まれていた。
 それはあの歌い手を発掘した彼女の慧眼を讃えるものであり、また、率先して“下々”となって踊ろうという心意気へのものである。
 ただし、その心意気は皆に少なからぬ気後れも引き起こしているようだ。
 楽の音の伝える、これから始まるそれこそは、この宴の機縁であり、この夜に必ず踊られる農民の踊り。厳格であった国教会が大地を祓い、歴史の中でその農民達の村も消えた後、皮肉にも貴族社会が保存してきた――
「なんていう踊りだったっけ」

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