「『ギルヤン・ガィリャード』」
男女で軽く跳びながらステップを踏み、相手と手を組んで体を寄せ合ったり、腕を組んで回ったり、肉体の接触もそれなりにある踊り。四人一組が基本であり、一定のタイミングでパートナーを替えながら踊る。そのため転倒の機会がいくらでもある踊り。その転倒がもしや恋の始まりとなれば幸いであろうが、破滅の発端ともなれば目も当てられない。
そう、ティディア姫と踊ることを望まぬ者はない。
しかし、そのドレス、そのレース飾りに傷をつけてはと恐れるのも無理はない。
それでも、その気後れを踏み越えようという男達はやはりいた。
歓声が上がる。
踊り場に
ニトロは眉根を寄せた。
見覚えのある人だ……テレビやネットニュースで何度か見た……
「アンセニオン・レッカード」
マスターの意を察した芍薬が言い、ニトロはポンと手を打った。
そうだ、レッカード財閥の御曹司。人気者のアンソニーだ。
次いで争って踊り場に出てきたのは二人の男で、国軍の服を着た若い紅顔の男と、やたらとリボンで飾り立てた
「こういう場合ってさ、巧みに退いたりするのが上流社会の“嗜み”じゃないんだっけ。感情的に『露骨』なのは品位を貶すとかなんとか」
直接的な実体験はないにしろ、様々なメディアからはそのように聞く。
「“コノ宴”ノ
「うん」
「若イ方ハ、ニコロ・エルジン・セグル伯爵。モウ一方ハ、ギリグ・テンドーヌ――ティーン向ケブランド『ディクシャ&セクシャ』ノデザイナー兼創業者。ドッチモ『ティディア・マニア』ダヨ」
「おや。ああでも、だからか、なるほど」
「伯爵ハ名前ノ響キガ主様ト似テルノガ特ニ悔シイミタイ」
「そんなこと言われてもなあ」
「ケド、バカガ主様ヲ呼ブ度ニ自分ガ呼バレテル気ガスルノハ嬉シイラシイ」
「ああ、そうなんだ……」
「ダカライッソ『ニトロ』ニ改名シヨウカッテ本気デ画策シテルソウダヨ」
「そいつぁ何の解決にもならないんじゃないかな」
「マッタクネ」
争い続ける二人は段々エスカレートしてきている。初めは哂っていた周囲も冷やかになってきた。このままでは折角の場の空気も冷え切ってしまうだろう。
それを敏感に察したらしい。
「やめて! 私のために争わないで!」
と、実に悲壮な感じでお姫様がのたまった。
ニトロはもう冷め切ったホットミルクを黙々と飲み干したが、その『お約束』は効果
そしてそれがいくら『決まり文句』だとしても争わないでと憧れの君に言われては仕方がない。伯爵とデザイナーは争うことは止めたものの、しかし進退を決めかねてその場で棒立ちになってしまった。見かねたように燕尾服に勲章をたっぷり飾る老人が進み出てきて、二人と王女との間に立つ。何をするのかと皆が注目する中、彼は袖口からサファイアの輝くカフスボタンを外すとそれを後ろ手に隠し、
「左か、右か」
伯爵は右と言った。同時にデザイナーも右と言った。そこで伯爵が左に変えた。
老人はうなずき、
「小生はお二人に対して公平に振舞い申した。それは畏れ多くも我が老骨をご照覧ある王太子殿下がお認め下さろう」
朗々と宣した仲裁者を、ティディアが承認する。
かくして伯爵が勝った。
ただ賛辞は老人に集まった。老人はシルクハットを振って歓声に応える。デザイナーはその影に隠れて未練たらたらの様子で引き下がっていったが、その姿が皆の注目から外れたのは不幸中の幸いであっただろう。伯爵は神に感謝を捧げ、姫君こそ聖女だとばかりに熱く見つめている。
あとは女性が一人必要であるが、その女性はいつの間にか踊り場に現れていた。
小粋な
「罪作りな奴」
ニトロは苦笑混じりにつぶやく。あいつに焦がれる気持ちは解らないし、解りたいとも思わないが、人に焦がれる気持ちだけなら理解はできる。しかしあいつはそういった気持ちを軽やかに弄ぶのだ。そして弄ばれたいと願う者がいる。弄び、弄ばれて、そこに喜びが生まれる。それを国教会は背徳と呼ぶ。げに、この世は罪深い。
「主様?」
僧服のイメージからおかしな方向に思索が進んでいたところ、芍薬に呼びかけられてニトロははっと我に返った。
「ああ、大丈夫。ちょっと罪と赦しについて考えそうになってただけだよ」
「イヤ本当ニ大丈夫カイ?」
「大丈夫大丈夫、解決したから」
「本当ニ?」
「うん、考えるだけ無駄だ」
芍薬が控えめに笑い声を上げる。
宴会場に流れる笛と太鼓の音がいよいよ本番、『ギルヤン・ガィリャード』の旋律を奏で始めた。
王女が初めに軽やかにトントンとその場で小さく跳んだ。
継いで他の三人も跳び始める。
トントンと小さく跳び続け、四人のリズムが揃ったところで皆がステップを踏み出した。
そのステップは単純で、右斜め前に踏み込み(左手でパートナーと手を触れる)、元の位置に戻り、左斜め前に踏み込み(右手でパートナーと手を触れる)、元の位置に戻る、前に踏み込んでパートナーと両手を繋いで胸を合わせてくるりと時計回りに半回転、立ち位置をパートナーと入れ替えたところでまた右斜め前に踏み込む――と繰り返す。基本はこの形で、最後のパートナーと両手を繋ぐところだけはいくつかの変化を見せ、また立ち位置を変更することさえ守ればアレンジも自由だ。この変化とアレンジの呼吸が合うかどうかで互いの相性を測る、という意味合いもあるらしい。そしてこれを六回繰り返した後、男達は力比べをするように腕を組み、女達は腰に手を回し合い、同性同士で一度踊ってから四人全員で手を繋ぎあい、輪を作って回り踊って最後にパートナーを変更しながら分かれる。そこでまた最初のステップに戻る。
これを五回踊ったところで1セット。
――気まぐれに観始めたにしては、観過ぎてしまった。だが、思わぬ歌声を聞けたのは幸いだった。友達に話を振られても十分対応できるだけの種も仕入れられた。
「“アンソニー”に戻ったところで消してくれる?」
「承諾」
ニトロの足元に
異変が起こったのは、王女が再びアンセニオン・レッカードをパートナーにしようとした時のことだった。
ニトロが言うまでもなく、芍薬はテレビモニターを消すのを止めた。
“変な声”が所々に上がっている。
驚きか、戸惑いか、それは何やら
ダンスパートナーのアンセニオンは、明らかに驚いている。
また声が上がった。
アンセニオンの驚きに不思議な色が加わる。
それを目撃する人数は徐々に増えつつあった。
今また玉虫色に輝いている王女のドレスが……やはり、部分的に透けた。それは胸元に起こり、王女の乳房の谷間が松明の光にはっきりと照らし出される。玄妙な色彩に穿たれた穴は一呼吸の末に閉じるとまた別の箇所に現れた。王女が左斜め前に跳んだ時、今度はヘソが見えたかと思うと左脇腹から左太腿にかけて何かが
低い声がどよもす。
それは明らかに興奮を隠していない。
元より酒気と陽気に支配され、飲めや歌えや踊れや踊れ。――今、そこに加わったのは蠱惑の美女の破廉恥なサプライズ!
興奮を隠せるはずもない!
さて、ここで問題となるのは、一体どこまで見えるのか? ということである。
上下の恥部は巧みに配されたレース飾りに覆われているし、穴も完全に透明というわけではなく、よく見れば透け感が強いというものであるようだ。それでも胸の谷間やヘソ、影の濃くなる部分は目立って見えた。今度は火花のように小さな穴が複数、すっすっと肩から背にかけて流星のごとく走って消える。それらの『穴』がドレスのどこに開くのかは誰にも解らず、おそらく開かない部分もあるだろう。しかし左側面の腰つき、ヒップは確かにかすめていた、その悩ましいラインは丸見えだった。また一つ爆ぜる、右肩から背中にかけて大きく露となる。クレイジー・プリンセス! 秘部が本当に見えないと誰が言い切れる? 下乳が見えた! もはや王女に対して投げかけるには非礼を極める喚声と、それを諌める眼差しに、それらとは別にただ純粋に彼女の美に見惚れるため息が重なる。
――そう。
彼女は――王女は――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、美しかった。
ステップを踏み、その身をしなやかに躍らせる。瞬間、瞬間、露となる彼女の肌が性を喚起するのは確かであろう。しかしそれだけではない。その肌は、その美しさは、それが現れる不規則さはそれを見る者の心をひどく掻き乱し、乱された心は粗雑で素朴な農民の踊りに潜む原始的なエネルギーに無防備にも晒されて、常に一定のリズムで絶えぬ太鼓に痺れ、引き込まれて次第に単純化していき、次第次第に回る踊りに巻き込まれながら上昇し、非礼も非難も感嘆も一緒くたに皆々気がつく暇もなく、やがて規範に監視された日常では考えられぬほどに精神を昂揚させられていく。
既に多くの事物が忘れ去られたその時代――多くの民が魔法を信じていた時代の踊りを妖しい美貌の王女が踊る。
汗を流す尊顔には笑みがあった。
この場の雰囲気を、この踊りを楽しむ清らかな笑顔。
それもまた魔性であった。
霊妙に輝くレース飾りはまるで封印の鎖。
星雲にも思えた玉虫色は、今や女神の衣。
鎖に縛られ衣に隠された女は今こそ解放されんと躍動し、そうして事実解放されている……否、解放しているのだ。活力を、生命力を。
また爆ぜる。
爆ぜてまた燃え上がる。
ティディアによって動かされ、煽られ、掻き混ぜられた集団感情は宴会場を大きく揺らし、踊り場にはいつしか何人もの飛び入りが現れ、それらはほとんど無秩序に踊り出していた。
パートナー替えのため、王女と腰を取り合いくるくると回る歳若い女優は法悦に蕩けている。
男も女も、そこにいるただ一人とだけ踊りたくてステップを踏んでいる。
――歌にあった恋の薬がその効能を実現させたかのように。
熱狂が渦を巻いていた。
ティディアは、あの伯爵とはもう踊らなかった。
伯爵が再び王女と手を触れようとした瞬間、彼は興奮のあまりに目を回してしまったのである。倒れた伯爵を給仕姿のアンドロイド達が運び出す。見る限り命に別状のあるものではなく、すぐに復活するだろうが、踊りの輪に戻ることは止められるだろう。例えその静止を彼が振り切ったところで、もう戻れはしないだろう。
音楽が再開する。相手のいなくなったティディアには「私を相手に」と願う者達が今にも殺到しそうであったが、それよりも早く、彼女はふと目についた少年を外輪から内輪に誘い込んだ。
中学生くらいだろうか。
正式な社交界デビューもまだであろう。
親しげな王女に面し、似合わぬ
その光景に沸き起こった反応にはどれほどの嫉妬が含まれていただろうか。
どうにかよちよちと歩く少年を保護者に送り返し、ティディアは近くで未練を引きずっていたあのデザイナーを誘い、踊った。無秩序に乱れた隊列が整うまで――初々しい相手が駄目ならば――『補欠』を相手にするのが良いと判断したらしい。実際それは皆に妥協させるところであり、やがて踊りの輪も整っていく。
「また『マニア』が一人増えたかな」
「確実ニネ」
テレビの灯が落とされて賑やかな宴が消える。それもまた、まるで魔法にかけられたかのように。
マルチクリーナーが水を持ってくる。
ニトロは痛み止めを飲み、ベッドに向かった。
歩くと尾てい骨に響く気がする――痛み止めが効いているからそんなはずはないのだが、それでもどうにもそういう気がする。
そろそろとベッドにうつ伏せになると、背中にそっと毛布が掛けられた。視界の隅に、静かにキッチンに戻るマルチクリーナーが見える。
「明日には治ってるかな」
「明日ノ治療デ、キットネ」
正確には今日か……そんなことを思いながら、ニトロは枕に顔を埋める。
電気が消えた。
「治療費ハ水増シシテ
ニトロは笑い、そして憎いほど存在感のある影を瞼から追い出し、吐息を一つ、ルクサネア・セリャンダ・ゼワネットの歌声を思い返しながら穏やかに目を閉じた。
この部屋は、とても静かだった。
終