「そこで、一時的な絶望にうちひしがれていた彼女に私はこう持ちかけた――『勝負しましょう、もし貴女が勝ったら借金を肩代わりしてあげる』」
 ニトロは紅茶を吹きそうになった。それがティディア個人にどれほどの負担になるかは解らない。しかしどうあれ軽々しく賭けられる金額ではないはずだ。それでも王女は揚々として続ける。
「彼女は言った。顔どころか魂まで輝かせて、なのに苦々しく」
「しかし私には賭けられるものがありません」
 言ったのはヴィタだ。ティディアが応じる。
「別に何でもいいわ。そうね、その髪の毛一本でも」
「ッもし負けましたら」
 ヴィタは屈辱に抗するように言った。
「全裸で空から舞い降りてご覧にいれましょう。それでご満足頂けなければ、髪の一本と仰いますな、この身をどうにでもご自由にお取り扱い下さいませ」
「面白い、それで受けましょう。……アドルルでは暴落のことを俗にスカイダイビングって言うから、そこから連想でもしたんでしょうね」
 ティディアは紅茶で唇を湿らせた。ヴィタはカップケーキを食べる。
 ニトロは、ふと何の前触れもなく、あの時飛び降りようとする婦人を止めようとした自分にひどく偽善的なものを感じた。しかし何故だろう?――今、唐突に、どうしてそんなことを感じたのだろう?――それが判らぬまま、不可解な苦味を吐息に混ぜて薄めるようにして彼は言った。
「あれは、あっちが言い出したことだったのか」
「やー、私がそれを誰かに提案するくらいならニトロの前にそうやって降臨しているわよぅ」
「そしたら撃墜してやる」
「それも一興ねー。
 で、それでポーカー一発勝負」
「よくやるもんだなあ。負けたらとは考えなかったのか?」
「愚問」
「愚問承知」
「ふふ。――でもね、さっきもちょっと触れたけど、彼女はギャンブル狂だけどギャンブラーじゃない。負けを取り戻そうと躍起になっている相手を捻るのは簡単なものよ」
 ニトロからすれば、だとしても普通は金額の重さがそれを簡単にしないと思うのだが。
 ティディアはカップケーキをつまみ上げると一齧りし、
「だけど負けた彼女は、今度は絶望しなかった」
「……開き直ったのか?」
 ティディアは首を振った。カップケーキの残りを食べると先程までの上品さはどこへやら、ぺろりと指を舐めて言う。
「希望があったからよ」
「希望?」
「表向き慈善事業に熱心な貴婦人――ギャンブルに狂いながらもその人物像を巧みに維持してきた彼女のような人間が、全裸でスカイダイビングなんてことをすれば身の破滅。それをキッカケにどうしてそうなったのかと探られて、彼女の意外な素顔も暴露されてしまう」
「ゴシップが潤うな」
「だけどそれをしてもなお彼女には利益を得る計算があった」
「……」
「思い当たることが?」
「……ある種の恥は、あるいはあらゆる恥の経験は、その恥にどう向き合うかによって後には勝利となる」
「国教会お得意のお説教ね」
「お前がそう言うか」
 ニトロは流石に苦笑した。ティディアは目を細めて小首を傾げ、
「でも、正解。彼女はギャンブラーじゃないけれど、博徒としての誇りはあった。そしてニトロの言う通りに打算した。それがどんな恥であり、身の破滅であろうとも、それを自ら受け入れ堂々と実行することで克己の精神を手に入れ、その精神によって何人たりとも犯せぬ神聖な勝利を我が胸に刻むことになる――と」
 ティディアはそこでニヤリと笑った。
「だけどね? 彼女はやっぱりギャンブル狂なのよ」
「つまり?」
「敗北した時点で、彼女の中では新たな勝負が始まった。勝ち負けが付くなら何であれ賭けにできる」
 ニトロはうなずく。ティディアは笑みを得意に染めて、
「彼女はこう目論んだでしょうね。
 その勝負における勝利は、つまり“ティディアから”科された恥辱に打ち勝ったという“ティディアからの”勝利に転じられる――と。それが例え世間的には勝利と認められなくても、それを武勇伝として吹聴できる別の世間がある、しかも『クレイジー・プリンセス』に勝ったとなれば無二の存在感を得られる。一方でその武勇を認めない世間様に対しては『私はティディア様に目を覚まさせて頂いたのです』とでも涙ながらに悔悟を装っておけばいい。そうすれば片方では豪胆な女と尊崇を集め、片方では悔い改める者の模範になれる。そんな自分の利用価値は“方々に”アピールできるでしょうね」
「確かに……それなら『希望』があるな。目論見道理にいくかどうかも『賭けギャンブル』だけど」
 ティディアは楽しげにうなずく。
 ニトロは思い出していた。ティディアの一度の軽い制止にラドーナが見せた、勝ち誇ったあの顔を。なるほど、そこには自分の思うよりも多くのものが込められていたらしい。しかし哀しくも、それすらティディアによって操られたものでしかなかった。
 ここに語られたことは賭けの顛末以外はおよそティディアの予測にすぎない。
 だけど自分が目撃した一連の情動と照らし合わせれば、それはきっと真であろう。
 彼はしばし間を置き、それから訊ねた。
「俺が同席する必要はあったのか?」
「ニトロの存在は彼女に面白い影響を与えていたわね」
「実に興味深く拝見しました」
 ヴィタが興奮を隠さずにうなずく。ニトロは苦笑し、ティディアを目で促す。
「この席を設けたのは、ニトロに見せたかったから」
 ティディアはニトロを見つめる。彼は真顔となり、再度問う。
「何のために」
「後学のために」
「それで何を学ばせようってんだ」
「あらゆることを」
 そこでティディアは不思議な顔をした。その表情に何か一つの形を見出すことはできない。まさにあらゆる思惑が一面に押し固められているようで、しかも底が知れない。惑うニトロを彼女は悪戯っぽく見つめる。
「ま、色々話しはしたけれど、実際には彼女に『希望』なんてもうなかったのよ。ギャンブル狂であることだけが玉に瑕、なんて善人じゃあないしね。自分がその手の醜聞において注目を浴びればどんなホコリが叩き出されるか彼女も解っていたでしょうに、けれど、彼女はそれを考えていなかった、解っていながら、考えられなくなっていた。自分の身の破滅を知りながら、それでも破滅に突き進む者はどの階層にも、どんな人種にも存在する。それは単に愚かであるからという場合も多いけど、同時に熱に浮かされているからそうなってしまっている場合もある。その中でも最も世間に知られ、時に反感を浴びせかけられながらも同時に受け入れられさえしているものが、恋愛による破滅ね」
 ティディアの意味ありげな眼差しを――実に分かりやすい促しを――ニトロは唇を固めるだけで拒絶する。彼女は舌打ちするように目をそらす。そして小さく息をつき、
「誘惑した私が言うのも何だけど、彼女はただ破産するだけの方が幸せだった。それとも勝負なんかにこだわらず私の“慈悲”にでもすがればよかった。何しろ勝負なんて初めから成立していなかったんだから」
 そう、結局、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナの魂を砕いたのはその事実だった。
「ギャンブルこそ最たるものだけど」
 ティディアは波模様の描かれたティーカップを眺め、それからニトロを刺すように――そう、刺すように見た。
「潮時を読み違えてはならないわ」
「……」
 ニトロはしばらくティディアを見つめた。見つめ合う二人は、しかし感情の交歓とは無縁だった。
 やがて彼は苦笑した。
 彼女の示した大きな意味をわざと矮小化して、挑戦的に言う。
「それも、お前がそう言うか」
 ティディアはまた不思議な顔をした。しかし今度は複雑な網目の裏側に何かが見つけられそうである。が、その意図をニトロが探り切る暇はない。彼女はころりと表情を変えると、どこか下卑た風情を唇に漂わせた。
「というわけで、ニトロがいようがいまいが破滅は確定していたから、彼女の結果については何も気に病むことはないわよ? 裸の恥辱だって、本当は彼女には何の痛痒もなかったものなんだから」
「?」
「ドレスアップした紳士淑女と全裸の紳士淑女が入り乱れるパーティーも、彼女は大好きなのよ。ていうか彼女はそういうパーティーでこそ最も輝いた。一晩でのセックス相手の人数が勲章となり、倫理や道徳こそ恥で、乱れに乱れるだけ名誉となる。禁じられたあらゆる物も快楽のためには神の恩恵である。キメキメでアヘアヘよ」
「……それがホコリか」
 ティディアはニトロが取り合ってくれなかったことに一瞬口を尖らせたが、
「巻き添えになるのがいくらかいるでしょうねー。全く、私がそれを知らないと思っているとは滑稽だったわ。あれの“全裸で”スカイダイビングなんてそれこそ髪の毛一本の価値もないのに」
 くすくす笑うティディアは実に愉快そうだ。反対に、ニトロは考え込んだ。やはり自分の存在が婦人に与えたものは相当大きかったらしい。“本当は”なかったはずの恥辱を、地へ落下する前、確かに彼女は感じていたのだから。
「何十年ぶりに、彼女は羞恥心を感じたのかしらね」
 甘噛みするようにティディアが言った。ニトロは、彼女の目を見た。
「以前は処女の頃かしら。だけど、その時の羞恥と、現在の羞恥はまた違う。ねえ、ニトロ、それこそは、あれが勝手に作り上げた勝負に勝手に挑んで自爆した結果よ」
 アフターケアとでも言うのだろうか? ニトロはティディアの目に目をぶつけたまま、言った。
「良心の呵責を感じているわけじゃない。本当ならそれを感じることが『正しい』のかもしれないけど……何だろうな……ずっと、困惑させられっぱなしだ」
「この後の仕事に影響は出そう?」
「それはきっちりやる。折角、みんな楽しみにしてくれてるんだ」
 ティディアは満足そうに、そして頼もしげに微笑する。
 そこにニトロは言った。
「だけど、それだけか?」
 虚を突かれたようにティディアがニトロを見つめる。
「本当は、お前は俺の“効能”もやっぱり計算していたんじゃないのか?」
「何故?」
「そう思うからだ。まだ何かあるだろう、そう感じるからだ」
 ティディアはニトロを見つめたまま、しばし黙していた。そして水底から沸き立つような微笑みを浮かべると、
「後日、ニトロはその理由を知るわ。そして、そうよ、まだ私とあれとの間に『背景』はあるけれど、それはやっぱり私にはどうでもいい。あちらはそうでもなかったみたいだけどね」
 そう言って、ティディアは、口元の形をはっきりと嘲りに変えた。
「長兄とヤったことがあるくらいで私と張り合えると思うなんて、滑稽を通り越して惨めだわ」
 ニトロは、ティディアの瞳の内側に何も見なかった。だからこそ彼はティディアの恐ろしさを感じた。より正確に言えば、改めて思い知らされた。彼女の瞳にはその口から吐き出された言葉に対応する軽蔑や嫌悪、あるいは怒り、でなくても何かしらの感情の一欠片があって然るべきなのに、それらは全く存在しない。彼女は本当にどうでもいいのだ。頬に刻んだ嘲笑も表面的なものに過ぎない。その顔は、まるで人間を相手にしているから人間用のインターフェースを用意してみました――そういった類のものだ。『恐ろしいティディア姫』の片鱗が、そこに顕現していた。
 それに、確かにティディア個人にとってはどうでもよいとしても、その手合いは『王家には』少々面倒な存在だろう。王や王妃はまだしも、心優しい妹姫にとっては、特に。後を見越せば今回の計算の価はあらゆる面でプラスに働くはずだ。その推察もまたニトロの首筋を冷たい手で撫でる。
「それにしても、ニトロは全然気にしてくれないのね」
 急に人間味を取り戻し、恨めしげな目つきでティディアが言った。
「何が?」
 きょとんとして、ニトロは問い返した。それは思わず警戒心の隙間からこぼれた素の反応で、それだけに偽らざる心情であるからこそティディアはむっとする。
「何でそんなパーティーを知っているんだとか、まさかお前も? とか、少しは疑ってくれてもいいんじゃなあい?」
 ああ、と、ニトロは理解した。ティディアはさらにむっとする。それもまた素の反応であった。ヴィタは目を細めている。しかし彼はその頬に、へらりと薄笑いを刻んだ。
「それこそなあ、心っ底どーでもいいことだ」

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