後日、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナに関するゴシップは刑事事件への発展を見せていた。考えてみればよくある話なのだが、彼女は慈善事業の関連資金に手を出していたのである。
 芍薬がジジ家のネットワークを介して調べてきたところによると、もしその情報が捜査当局にたれ込まれなければ、横領についての捜査は始まりもしなかった可能性がある、それほど婦人はその手の事には慎重かつ巧妙であったようだが、セキュリティホールは友情だった。つまり、彼女の醜聞からの飛び火を恐れた『遊び友達』の誰かが、火の粉の舞う向きを変えようとより大きな火を点けたのだ。その中には彼女のおこぼれに預かっていた者もあるだろうに、その忘恩不義の行為は、やはり報いを受けることとなった。
 インモラルな『パーティー』の写真が、どこからともなくばらまかれた。
 吹き戻された火の粉は瞬く間に巨大な火の玉と化した。
 かくして全裸でスカイダイビングというエクストリームスポーツは、広範囲に渡って、我が足元に穴が開くとは予想もしていなかった人々にも危険と興奮を提供することとなった。
 日々新たな話題が掘り起こされている。
 暴かれた『パーティー』に関しては違法薬物や売春における反社会組織との繋がりも逃がさず炙り出され、まだまだ延焼は止まりそうにない。もしや各捜査線上に浮かんでいる人物の中に王女の政敵がいて、そちらの方が彼女の狙いだったのかと疑うこともできるほどだ。ほとんどのメディアがこの話題で盛り上がっている最中、富裕層に厳しい案や庶民に厳しい案など、それぞれ各方面からの抵抗によって難航が予想されていた議案がいくつかけっされていた。
 そして事件の発端、その火種を生み、また煽り立てた『クレイジー・プリンセス』はこの件に関して白々しくも仰天顔である。加えて社交界の腐敗を嘆きつつ、しかしそれは一部のことであり、どの世界でもそうであるように善人もいれば悪人もいる、ただ一面を以て全てを眺めないようにしてほしいなどと――話し振りにはブラックジョークが溢れているものの――内容的にはそのように道徳的なことを述べる有り様だ。ニトロの頬には空笑そらわらいが刻まれて、呆れるにつれて空しい笑みもやがて消えていく。
 さらにもう一つ、この件に関しては国教会でも大きな事件となっていた。
 何しろ“堕婦”ヘイレン・ユウィエン・ラドーナの実兄は大司教である。しかも大老たいろう入りが確実視され、次代の法老長の最有力候補とさえ目されるほどの人物である。
 この実妹の不祥事は、勢い大司教のスキャンダルともなっていた。
 彼はすぐさま辞任を申し出たそうだが、法老長に強く慰留され、現在も大司教を続けている。
 とはいっても彼が出世競争から大きく後退したのは否めまい。
 アーレン・ユウィエン・ラドーナ大司教の人物像は、一言で言えば『善良』であった。学識も非常に深く、欠点と言えば高潔すぎることくらいだという。以前から在家の信徒だけでなく、国教会内の人間にも深く敬愛されている。裏もなく、いくら叩いてもホコリはでない。叩き続ければホコリが出るより先に彼の命が尽きることだろうと真剣に語られているし、まずそうなるであろう。事実、現在に至るまで、どれほど悪意を弄ぶゴシップ屋が活動したところで醜聞のシの字すら書き起こすことができずにいた。
 それなのに、今、ニトロにはこの大司教こそが第一王位継承者の標的であったような気がしてならなかった。
 根拠はない。
 ただの勘である。
 ただの勘であるとはいえ思い至ったからには気になって仕方なく、とはいえ本人にただすことは気が進まないから、彼は芍薬と議論を試みた。
 しかし事はバカ姫のすることである。
 どんな理由でもあり得そうで考えはまとまらない。
 実は大司教もティディアしか知らないような重大な犯罪に関わっているのかもしれないし、それとも高潔な彼が未来の法老長になることを型破りな次代の女王は疎ましく思い、そこで今のうちに足を引っ張っておいたのかもしれない。
 あるいはこの動揺によって国教会内部の政治力学を私利に叶うよう動かしたのだろうか?
 国教会の誰かに頼まれた可能性もある。
 単に頼まれたからといって動くような奴ではないが、利害が一致していればない話ではない。最悪、単なる愉快犯ということも考えられた。
「あとは『高潔すぎて融通の利かなすぎる大司教を成長させるために試練を与えた』なんてのがありますかねぇ」
 ニトロと芍薬が議論をしている最中に部屋に訪ねてきて、不幸にも議論に巻き込まれたハラキリ・ジジが至極面倒臭げに言った。テーブルの上には南国土産のフルーツがある。彼は『全国ガラクタor大発明品大展示会』に出かけた母親に忘れ物を届けた帰りだそうで、傍らに置かれたモバイルの上には『アロハー』姿の立体映像なでしこがちょこんと正座していた。
『師匠』の意見を聞いたニトロは、なるほどと一定の得心を抱きながら言った。
「それだとむしろ大司教に期待をかけてるってことになるな」
「それでも偉そうに何様のつもりだって話にもなりますがね」
「王女様だろ?」
「違いない」
 ハラキリは喉を鳴らして笑う。彼の手元にはニトロの作ったミックスジュースがある。くし形に切られた赤いトロピカルフルーツがコップの縁を飾っていた。
「まあ、確かに彼は高潔で、聡明で、宗教家として民衆の中に進んで入っていく活動家でもあります。一切を神に委ね、人類貢献の精神篤く、自己犠牲を恐れず、貧困に立ち向かい、また魂の貧困にも立ち向かう」
「聞いてる限りじゃ本当に聖人だな」
「しかし実際が足りない」
「『実際』?」
「これは父に聞いたことなんですが」
 ハラキリがはっきりと父の話と示すのは珍しい。ニトロは驚きつつ、しかし特異な親友の父の言うこととなればと居住まいを正した。
「彼は良くも悪くもお坊ちゃんなんです。活動家として、宗教家としての挫折は何度もあったようですが、しかし個人としては順風満帆です」
「それで?」
「つまり、魂の貧困に立ち向かう彼自身、彼個人の魂の危機とも言えるほどの試練に立ち向かったことがあるかと問われれば、それは“否”であろうと。彼の欠点が高潔すぎることと言われるのは、同情――宗教的な意味での『同情』の薄さを含意しています。彼は学識の高さゆえに理屈で相手の心を理解し、困ったことにその理屈の応用力も高いから聖人然とした実篤さを発揮しているし、できている。しかしそれはやはり心、ひいては魂の目で観てのまことにおいては実際的な行為ではなく、だからこそ、その誤解はいつか取り返しのつかない過ちを引き起こしかねない……と、法老長はご心配なさっているそうで」
「うん、今のは聞かなかったことにする」
 ジジ家のネットワークは本当に一体どうなっているんだ。ニトロは濃いピンク色のミックスジュースを一口飲んだ。甘味と酸味で爽やかに心を落ち着け、小さく首を傾げる。
「ユウィエン・ラドーナ婦人は、大司教にとってそれだけ深刻な問題になるのか?」
「なるでしょうね。二人は世間並みに仲も良い、慈善活動で協力し合ってもいた、だからこそ妹の“真の顔”に驚愕し、それに気づかなかった己の不徳も恥じるでしょう」
「それは、大司教としてかな」
「使命感も強い方ですからねえ。やっぱり、こうなってはさらに大司教として妹に接しているんじゃないですか? 噂によると婦人は以前に比してどうも矮小な性格になっているそうですが」
 ニトロの目元が歪む。ハラキリはそれを無視して続ける。
「しかし、大司教として接すれば接するほど、彼は妹を見失うでしょう。すると彼は、実は淫蕩に耽っていた頃の妹との方が心を通じ合わせられていた、ということになる。それは彼にとって宗教的にも個人的にも非常に恐ろしい事態です。価値観は崩れ、信仰心も揺らぐでしょう。その上で、彼は大司教の職務は立派に果たさなければならない」
「ああ、そうか。俺も辞任する必要はないと思ってたけど、それじゃあ」
「辞めさせてもらえた方が楽ではあったでしょうねえ」
 ハラキリはストローでミックスジュースを吸い上げる。
「もしお姫さんの狙いが本当に大司教にあったとするならば。その思惑が何であれ、まあこの事だけは確実でしょう。あとは彼女の言う通りに後日――それこそ本当に“判る”のは、いつになるか分かりません」
 ハラキリは何事か考え込んでいる様子のニトロを見て、眉をひそめた。
「何か気になることが?」
「その場合、婦人は大司教の試練のための犠牲になった、犠牲にされた――ってことになるんだよな」
 所々言いよどみ、話しながら考えを推敲しているといった様子のニトロに、ハラキリは大きくうなずいてみせた。
「構造としてはそうですね」
「それで大司教が試練を乗り越えて高みに昇ったとして、その時、犠牲になった婦人はどうなるんだろうな」
「いい大人です。彼女は彼女で自分の問題を解くべきですよ」
「まあ……それはそうだろうけど」
 ハラキリはミックスジュースを飲む。
 いくらか躊躇った後、思い切ったようにニトロは言った。
「前からさ、昔の聖人の話の中で納得のできないことがあるんだ」
「どのような?」
「例えば過去に何人もの人を殺したり、陥れたりしておいて、後にその事を悔い改め、その過去の罪によって生じた試練を克服したことで神に祝福されたとか、そういう類の話なんだけど」
「ありますね」
「その場合、祝福される者はいいさ。だけど『害』された者はどうなるんだ? 誰かの犠牲のうえに成り立つ聖なるものって、何だ?」
「国教会的には、その加害者が聖人となった場合――聖人とまでいかなくともその者が改悛した際には『罪人に糧を与えた』として天に祝福されますね。そしてこの場合は犠牲のうえに、ではなく犠牲のもとにと言われます。あえて上下を付けるならあくまで“犠牲者が上”で、その尊さにはいかなる聖人も並ぶことができません」
「……」
 沈黙する友の顔に、ハラキリは苦笑する。
「それはアデマ・リーケインも答えを出せなかった問題ですよ」
 ニトロはハラキリを見た。
「リーケインはその著作において重大な信仰問題を幾度か取り上げていますが、やはりどうしても断言はできなかった。君と同じ疑いに対しても。そのため全ての問題は登場人物それぞれの人生的帰結、あるいは限定された人間間の愛を人間愛に拡大することによって決着しました。天の答えに、人の答えで代用した形ですかね。しかしそれは多くの人の胸を打ち、時代を超えても読み継がれています」
「……」
 ニトロは目を落とした。ややあって、ハラキリが言った。
「欺瞞、ですか?」
 ニトロはハラキリを見た。ニトロの瞳には肯定と、それを欺瞞と指弾しながらも悪意や敵意のない素直な疑念とがあった。ハラキリは思う。世の実直な宗教家は、神のことが実は大好きな無神論者からの攻撃的な問いには容易に対抗できるだろう。しかし、この一種無邪気な眼差しにはどのようにして応えるだろう。
「全テ『オシエ』ト名ノツクモノハ、常ニ真実ト欺瞞ニヨッテ成リ立ッテイルモノデス」
 そう言ったのは、じっと興味深げに議論を聞いていた撫子だった。
「ソシテ真実ト欺瞞ノ間ニコソ、真理トイウモノハ存在スルノデショウ」
 ニトロは携帯モバイルの上の小さな撫子を見つめた。カラフルな半袖を着て、結い上げた黒髪に真っ赤な大輪の花飾りを付けて、いつもと違う印象のオリジナルA.I.は一体何を思ってであろうか、とても柔らかに微笑んでいる。
「私達流ニ言エバ、1ト0ノ間ニ」
 電脳世界に生きる者の、その言葉。
 ニトロはあまりに大きな“何か”を感じて思わず笑った。
「それは確かに難問だね」
 撫子は楚々として頭を下げる。
 ニトロは横目に壁掛けのテレビモニターに映る芍薬を見た。芍薬はとても考え込んでいる。それから彼は過去を遠望した。写真で見たことのある文豪が、書斎でため息をついていた。
 そして空に飛び出す裸婦の姿。
 あの手に巻きつけられていた国教のシンボルは彼女の兄の胸にもきっと揺れている。
 株は暴落し、魂は天を目指すのか。
 ティーカップを優雅に傾けて王女が微笑んでいた。
 ニトロは息をついた。
「なあ、ハラキリ」
「何です?」
「走りに行かないか?」
「走る?」
「ああ、脳味噌がカビ臭くなる前にさ、風を通しに」
 ハラキリは声を上げて笑った。
「いいでしょう。付き合いますよ」
 珍しく屈託ない親友の笑顔に、ニトロは、その頬に明るい笑みを刻んだ。





←29-04へ
メニューへ