「ご機嫌よう、ヘイレン・ユウィエン・ラドーナ」
ティディアの声は朗らかであった。
その声が一体誰に向けられたものであるのか、一瞬、ラドーナ婦人には解らないようであった。
しかしそれが自分、他ならぬ自分自身に向けられたのだと知った時、少し前には王女への憎悪を燃え上がらせていた婦人の目に現れたのは――どうしてだろう?――わずかにも
ニトロは、眼前に繰り広げられるこの事実をどう記憶したらいいのか戸惑っていた。
彼は今、婦人のその歓喜を以て、そこに完全なる敗北者を認めたのである。
と、思ったのも束の間。
「わ!」
ニトロは驚愕した。そして戦慄した。腰に勝手にベルトが巻き付いてきて、体が椅子に固定されてしまったのである。彼は顔をしかめた。しかし眼前の茶器の並ぶテーブルにドーム型の覆いがかかっていく段になると、これは別の事態が進行していると眉をひそめた。
ラドーナが、ヴィタの手を借りて、躊躇いつつも機体の後部に向かっている。
それも、乗降口へ。
その乗降口から少し離れた所でヴィタは足を止めると、隠された装置を探り、壁の中からベルトを引き出した。全裸でパラシュートバッグを装着した――頭のおかしい光景だとニトロは思う――婦人がそこに固定される。彼女の手には光るものがあった。それは先刻まで彼女の首にかけられていた
「うわあ!?」
ニトロの悲鳴は誰かの耳に入っただろうか? 轟音と共に風が吹き荒れた。機内に閉じ込められていた空気が、大きく開かれた穴から自由の空へと喜び勇んで脱出していく。彼は耳を押さえた。急激な気圧の変化に体がついていかない。椅子やテーブルは磁力か何かで固定されているらしく、でなければ自分はクラシカルな椅子と共に寒空へパラシュート無しのスカイダイビングと洒落込むはめになっていただろう。室温が外気と交わり冷気を生んで肌を刺す。暴れ狂う風の中、三人の女性の髪は等しく一点に向けて激しく流れている。だが乱れ舞う髪の間から覗く顔は三者三様であった。一つは涼しげで、一つは喪失で、一つは、何事もない。
やがて風が落ち着き、しかし開かれたドアから暴れ込んでくる音は止まず、生死を分かつ寒さの中、
今日は良い天気であった。
ニトロは抜けるような青空へ歩み寄る婦人を見て我に返った。
彼女の足取りに力はない。意思もない。彼女はもはや最前の意志の残り
「おい! 止めなくていいのか!?」
この事態が何によって、また何のために起こっているのか理解できないまでも、ニトロはティディアに叫んだ。
「止めてやれ!」
ニトロは本能的にティディアしかラドーナを止められないことを知っていた。ヴィタに頼んでも、ましてや婦人本人に懇願したとしてもそれは止まらない。ただ眺めることでのみ全ての進行を支配しているこの魔女をこそ説得せねば、何も止まらない!
されどティディアは眺め続ける。
ふと、ニトロは視線を感じた。
振り向くとラドーナがこちらを見ていた。彼女は青くぽっかりと開いた穴の縁に手をかけて、王女ではなく、ニトロ・ポルカトを見つめていた。それは奇妙な顔つきだった。始めに疑惑があり、次に発見と驚愕が襲いかかり、最後にまた羞恥が表れる。その恥は肉体的なものではなく、もっと精神的なもので、その両目は淡く潤んでいた。
少年がさらに何かを言おうとした瞬間、まるでそれを聞いては胸が張り裂けると言わんばかりにラドーナは飛び出した。天にその身を捧げるように。彼女は、瞬きをする間に消えた。去ってしまった。
ドアが閉まり、気圧がゆっくりと調整され、室温も快適に、瀟洒な館のティールームといった
やっと言葉が発せられたのは、ヴィタが使用済みの茶器を下げ、茶菓子を並べて新たに紅茶を淹れ直した時、
「ありがとう」
とティディアが執事に言った時である。先刻の王女は茶を淹れた執事に礼など言うことはなく、ラドーナも無論言わず、ニトロだけが言っていた。今度は彼が何も言わなかった。
合図も同意もなく、茶会が再開される。
ヘイレン・ユウィエン・ラドーナにはヴィタが代わった。
ニトロは沈黙を守っていた。その顔には様々な感情が表れていたが、その最大たるものは、やはり困惑だった。
色も香りも先とは変わった紅茶を一口飲んで、ティディアが言った。
「怒らないのね」
ニトロは紅茶の横に並ぶ小さなカップケーキからティディアへ目を移した。彼女は微笑んでいた。その瞳は地上に降りてきていた。
事の成り行きを顧み、そこに
「怒らないのね?」
「……お前が俺を怒らせたいんだとしたら、それは罠なんだろうさ」
ティディアは唇を緩ませた。ニトロはそこでやっと紅茶を口に含んだ。
美味しい。
彼の乾いていた唇が、歪んだ。
「結局、何だったんだ?」
「ギャンブル」
「つまり、賭けられていたのが全裸でスカイダイビングだったと? それが出来るかどうか、と」
「出来るかどうかっていうのは外れ。賭けの対象に関しては半分正解」
「もう半分は?」
「借金」
「借金?」
「ちょっと前にアドルル
「覚えてる。こっちでもちょっと騒ぎになってたし、お前も何か王様に進言してたみたいだな」
ティディアは誇らしげにうなずき、
「さて、彼女はギャンブル狂なのよ」
話題が急に戻った。虚を突かれたニトロは二重の驚きに目を丸くしたが、あの婦人の意外な性癖と株の暴落とが無関係ではないと察して耳を傾けた。
「彼女は国のお得意様でね、非合法な世界でも上客だった。方々に借金があって、大好きなパーティーを渡り歩くためにも年々負債を増やしていて、そのため若々しくお綺麗だと評判の貴婦人の内情は実は常に火の車。それでも熱心な慈善活動と、定期的に投機で当て続けてきたお陰で、彼女はこれまで破綻をぎりぎり避けてこられた」
「だけど、今度の暴落で致命傷を負った?」
「平均的に十回くらいは死ねる傷かもね」
ということは、ティディアはその正確な数字を知っているのだろう。
「……それで?」
「そのニュースが流れた時、彼女は国と王家に絶賛奉仕中だった。一報を受けた時のあの顔は見物だったわー」
ティディアは身を震わせる。ヴィタはうっとりと思い出を反芻している。ニトロはため息をつく。
「てことはその時お前もロイヤル・カジノにいたと」
「ええ」
「まさか、狙って?」
「あの暴落は『投資A.I.のもつれ』が主因よ? しかも
「……」
ニトロはじっと希代の王女を見つめた後、再びため息をついた。
「まあ、いいや」
カップケーキを一つ食べ、気分を落ち着かせる。
「でも、破産すりゃそりゃ絶望するだろう」
それは間合いを整えるための何気ない一言だったが、
「一時的にはね。だけど本当に絶望するとしたら、それは後のこと」
「?」
「彼女は破産程度で絶望するタマじゃないわ。一時的には絶望のどん底で真っ青になっても、三日も経てばまた明日から当ててやるさと鼻で笑い出す」
「……それで?」
「だけど、今回ばかりは限度を超えていた。彼女の“ツキ”は失われた。もし再起を目指していたとしたら、いつか彼女は気づいたことでしょうね。自分のこれまでの生命線は己の博才によるものではなく、ただ運が良かっただけだと。運の良さももちろん博才の一つではあるけれど、それは努力や何かで取り返せるものではない。そしてそれに気づいたその時、彼女は初めて絶望は底無しであると気づき、そのために絶望し、また絶望することによってとうとう絶望する」
「なんか……変に教義問答みたいな言い方だな」
「まあ、
それの意味するところを悟ってニトロはぐっと息を詰めた。彼の眼光が鋭くなるのを上目遣いに眺め、ティディアは語る。