ニトロは困惑していた。
イベント出演のための移動中、用意された中型飛行機に乗り込むと、そこはまるで瀟洒な館のティールームであった。
――それは良い。
タラップ昇るとラブホテルだった、なんて事態に比べれば快適至極である。いかに芍薬が有利な“安全条約”を締結せしめたとはいえスケジュールの都合上1800kmの空を『敵』と同道せねばならない状況で、正直言うと拍子抜けした感さえあった。
では何がニトロを困惑させたのか。
それは、そこに一人の貴婦人がいたためである。
仕事を始めてから様々な人々と接触する機会も増えたが、このような――何分後かには離陸である!――閉鎖的な空間で新たな出会いとなると初めての事態だ。
彼は態度には出さずに身構えた。
その貴婦人が動きを見せる。
彼女は淑やかに辞儀をした。
優雅で洗練された礼であった。
……それだけであった。
彼女の落ち着いた色彩のドレスはフォーマルとまではいかなくとも王女を迎えるに足るデザインで、しかも当人の顔立ちをよく引き立てている。首にはアデムメデス国教会の
「今日のこの日を、お待ちしておりました」
そう言って、彼女は顔を上げた。その華美な顔立ちは娘時代を遠く過ぎた現在でも若々しい。そしてこの美貌への自意識は自制してなお強いのだろう、それが高慢な光となって額の奥から眉の間へ滲み出している。しかしその高慢さこそが彼女の若さを支えているように、魅力的ですらあった。
ニトロには、この淑女への見覚えがある。
記憶の糸を手繰る彼の隣で王女が言った。
「ご機嫌いかが? ヘイレン・ユウィエン・ラドーナ」
「姫様のご尊顔を拝しましたからには、我が胸に例え万の痛苦があろうと晴れやかな心地にならぬことがありえましょうか」
ティディアは小さく笑った。
「そんな言葉が出てくるくらいには元気みたいね」
ニトロは思い出していた。
この貴族の婦人――父は小さな町の名士に過ぎないが、兄が学識と高潔さで知られる大司教であり、彼女自身もまた熱心な
「お初にお目にかかります、ニトロ・ポルカト様。こうしてお茶をご一緒させて頂きますこと、大変光栄でございますわ」
ニトロは仰天した。あまりに慇懃に挨拶されて動揺してしまうが、これもバカ姫の何か良からぬ企てに違いない――例えこれが“メイン”でなくとも何らかの“イベント”に関係しているに違いない――という猜疑と警戒心によって彼は平静を取り戻し、ユウィエン・ラドーナ婦人へ自分なりに挨拶を返した。それは王女と時間を共にするうちに何度となく見た所作の見よう見まねであり、本式に上流社交界で薫陶されたわけではないことが明白であるものの、少年が懸命に紡いだ言動は幾らか不細工ながらもそれだけに誠実であった。
ラドーナは『ニトロ・ポルカト』の挨拶を気立て良く受け止めた。
婦人の半ば感嘆を込めた笑顔にニトロは安堵しつつ、その反面、彼女の目つきの中に一点奇妙な違和感を見つけて幽かに眉を寄せた。それは明に暗にティディアと戦い続けているために明敏となった彼の神経が感じ取った“何か”であった。しかし“何か”以上には解らない。婦人は最後に王女の執事へ言葉を与えている。彼は婦人の横顔からティディアに視線を移した。王女は微笑している。それが彼をまた、警戒させる。
だが、過敏な少年を面前にして婦人がその警戒心に気づく様子は全くない。彼の――己の客ではないにせよ――客人を不愉快にさせまいとする生来の人の好さが、その『“恋人”への敵意』までをも意図せず覆い隠してしまっていたのだ。
ヴィタが姿を消し、三人が席に着くと飛行機は離陸した。
機体が安定したところで、ヴィタがティーセットを携えて戻ってきた。
ニトロは困惑していた!
眼前で繰り広げられる王女と貴婦人の会話は、有り体に言って自分とは違う世界の住人の会話であった。二人はニトロの馴染む
ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――普段からバカ姫と呼び慣れた第一王位継承者が、こんな時にはあまりにも遠い存在に思える。
……できればそのまま疎遠な所に居続けてほしいものである。
が、ニトロがそう思った瞬間、ティディアはまるで心を読んだかのように身近な話題をこちらへ振ってきた。彼が内心戦慄しながらそれに応えると、今度はラドーナが何か再発見した世界を覗き込むかのような目つきで話を合わせてくる。しかし平凡な会話は長続きすることなく、話題はまた社交界の内枠へと吸い上げられてゆき、すると少年はまた尾根をひたすら見上げる傍観者となる。そして時折、彼はその尾根に転落の危険性を認めるのだ。そう、所作も口ぶりも優雅な王女と貴婦人の交歓の中に、酷く剣呑な不安定さがふいに閃くのである。もしわずかにも足の運びを間違えれば谷底に転げ落ちてしまうだろう。山肌は剣山のように荒れていて、転げ落ちる最中にもきっと血だるまになってしまうだろう。ヘイレン・ユウィエン・ラドーナが王女に対しても“何か”を――それも極めて強い“何か”を抱いていることは確実であった。
ニトロは思う。
一体、何のために俺はここにいるんだろう?――しかも、
(何のために居させられているんだろうな)
まさか上流社交界の会話を、作法を、見聞させるためか。いずれ俺を放り込もうという世界へ慣れさせるための一環なのだろうか。
二人の女のお喋りは、その調子だけを聞いていればロマン主義のクラシック音楽に似ている。されど内容はロマンに冷や水をかける。
慈善事業について語る際には高邁な精神が潤沢に溢れ、それにはニトロも思わず感心させられていたものの、しかし次の瞬間には二人の唇から溢れ出ていた清水が調子も色合いも全く変えずに某資産家が某伯爵の娘に贈ったネックレスの話題へと流れ込む。
その贈り物は断片的な情報だけでも非常な価値を推測させるものであったが、王女と貴婦人のその愛の品への総評は“めたくそ”であった。特に嘲笑を浮かべることもなく、特に攻撃的な単語を使っているわけでもないのに、とにかく辛辣。口調に気品があるだけに嫌味極まりない。もしその資産家がこれを聞けば恥辱に赤くなり、貶められた己の品性に蒼白となるだろう。娘は娘で己が名誉を取り戻すために自らネックレスを投げ捨てるはずだ。
なのに、全ては空々しく語られていた。
敵の罠を疑うニトロが極限の集中力で二人の貴婦人を観察していたところ、どうやらその空々しさこそが上流の洗練と品格の証明であるらしい。少なくとも婦人の態度にはその匂いが芯から染みついている。ティディアは――解らない。ただ、とても自然に馴染んでいる。
ニトロは側に控えるヴィタを一瞥した。執事は会話には無関心といった様子で涼やかに立つのみだ。彼はいよいよ困惑する他なかった。折角の紅茶も、スコーンも、誰かが王女のためにと精魂込めて作ったジャムも……味気ない……ジャムとはこんなにも薄っぺらい味がするものだったろうか。彼女らの会話にツッコミ所はある。無数にある。しかしツッコんだところで笑えない。笑えないどころか、そのツッコミまでもが恋に歓ぶ男女への侮蔑に転じてしまうことだろう。この場面に相応しい合いの手は、きっと自らも恋人達を安全地帯から殴りつける類の冷笑に違いない。
と、ふいに話頭が翻った。
ラドーナが言う。