大凶

(第一部『8』のちょっと後)

2015『大吉』と『吉A』の間

 言われなければ楽屋とは思えない豪華な部屋で、ニトロはぽかんと壁にかかる油絵を眺めていた。海岸だろうか、あるいは砂漠だろうか、どちらともつかぬ場所に一人佇む者があり、目を刺すような真紅が渦を巻いてこの景色を焼いている。有名な抽象画家の作品であるそうで、タイトルは『情熱』という話だ。――数々の芸能界の大物が使用したというこの部屋に一人残された時、その大物達は、この絵を眺めて一体何を感じたことだろう。
 おそろしく座り心地の良いソファに腰を沈めるニトロの耳を、派手に始まった喧嘩の声が盛大に叩く。つけっ放しのモニターを彼が一瞥すると、そこでは掴み合う二人の女性に挟まれて、冴えない風貌の男がもみくちゃになっていた。
「何おっぱい触ってんのよこのスケベ!」
  「わざとじゃないです! わざとじゃ……ああ、落ち着いてください!」
「わざと触らせてるくせにこのスベタ!」
 三つのセリフが重なってやかましい。しかしそれぞれの言葉がしっかり聞き取れるのは役者の力か、音声の力か。
 画面の隅には、喧嘩する女二人と巻き込まれる男を悠々と眺めるハンサムな男がいた。金髪に、軽薄そうな青い目。実際軽薄な男だが、実は心の底に熱いものを秘めている。とうとう倒れこむほど喧嘩をエスカレートさせた女二人の下敷きになっている哀れな男は弁護士であり、金髪の男と学生時代からコンビを組み続けている“頭脳担当”だ。
 人気ドラマの一場面。
 金髪の男は芸能人のマネージャー業を営んでいる。マネジメント会社カンパニーには所属せず、豊富な人脈と誰にも負けない話術で依頼人クライアントを成功に導くのが彼の役目だ。1シーズンで複数人のクライアントが登場するが、その中で誰が成功するかは最終回まで判らない。それが先の見えない緊張感と視聴者の興味を引きつけている。クライアントは駆け出しのコメディアンであったり、泣かず飛ばずの女優だったり、落ちぶれた俳優だったり、とりあえず有名になりたい少女だったり、とにかくいわゆる『底辺』の人間達だ。そのため大抵のクライアントは低収入であるのだが、金髪の男はマネジメント報酬をきっちり取る。それが無ければ明日食事が出来ないと訴えられようが鬼のように取る。しかしその取り立て分だけで彼の事務所の経営が成り立つことはなく、事業を支えているのはもっぱら相棒の弁護士としての法律相談などの“副業”と、資産家である親から送付される仕送りである。つまり彼は金持ちのボンボンなのだ。その生い立ち故に彼は幼い頃から“一流”に数多く触れており、そこで磨かれた感性を根拠に彼は無名のタレントを厳しく磨き上げていく。口達者でも知識は劣るため、その点で困った時には相棒の出番だ。過去のトラウマ故に人間不信を信念とする彼ではあるが、ただ一人相棒のことだけは尊敬している。相棒の方でもスクールカーストの最下層から救ってくれた金持ちのボンボンを信頼している。この相棒は貴族であるのだが公職についていない――つけていない――いわゆる『称号貴族ペーパーノーブル』であり、経済的にも下層の出であった。
 この凸凹コンビの事務所の名は『踏み石ステッピングストーン』という。
 冷笑を買うばかりだったコメディアンが大舞台で笑いを取る時、無名だった女優が有名女優に競り勝ち舞台で成功する時、喝采は画面の中だけでなく外にも沸き起こる。最終回では成功したクライアントを、彼らはさらなる飛躍のために大手のマネジメントカンパニーとタレント・エージェンシーに“売り払う”のがお約束である。
 ステッピングストーン――これはドラマ内の事務所名であるだけでなく、過去には業界に絶大な影響力を誇りながら、長らく経営不振に喘いでいた製作会社が作り上げた起死回生のスマッシュヒットタイトルでもあった。既にシーズン4。次のシーズンも製作が決定している。今シーズンのクライアントの一人は歌手を目指す女だった。売春による前科があり、男運にも恵まれず、このまま老いて死ぬのを恐れ、幼い頃に親に叩き込まれたピアノの腕を元手に必死に“明るい場所”を追い求めるシンガーソングライター。そして今、彼女が喧嘩している相手は昔付き合っていた男の現在の恋人だった。その女は男の浮気相手として昔の恋人を疑い、事務所に押しかけてきて結果大暴れである。一昨日の夜、問題の男にその歌手志望の女が実際に会っていたことが冤罪のキッカケだったらしい。
 金髪の主人公は力ずくでキャットファイトを止め、女達を外に押し出した。
「過去の始末は自分でつけておけ」
 喧嘩相手諸共外に追い出されることに抗議するクライアントを尻目にドアを閉め、彼はシャツが破れてメガネのレンズも割れてしまった相棒を立たせてやった。そしてにやりと笑いかける。
「めったに味わえないデカさだ」
 相棒はよく分かっていない。金持ちのボンボンは相棒の肩をぽんと叩いてから言う。
「ラッキーだったな」
 そこで相棒も気がついた。法律用語を交えて己の潔白を訴えるが、金髪の男はゲラゲラ笑って取り合わない。
 ニトロは目を絵画に戻した。
 ――このドラマに出演するのだ、自分が。
 彼は、トラブルを持ち込んできたクライアントについて『ステッピングストーン』のコンビが何やら戦略を練り直し始めているのをBGMに、『情熱』を眺め続けた。
 出演する、といっても、ほんの数秒間『漫才コンビ』としてカメオ出演するだけではあるが、知られざる芸能界の“入り口の争い”を舞台に息をつかせぬシナリオで人気を獲得したこのドラマに自分が……その入り口の争いとは無関係に舞台に立つことになった自分が参加するのはどういう皮肉だろう。
「新シク淹レヨウカ?」
 気がつくと、大理石のテーブルの上で白磁のティーカップが冷たい光を帯びていた。ニトロが目を動かすと、そこには製作会社から借りた警備アンドロイドがいる。感情表現機能は乏しいタイプらしく、その表情は固い。しかしニトロには、その冷たい中性的な顔に重ねて、とても心配そうな芍薬の顔が見える気がした。
「大丈夫、そろそろ時間でしょ?」
「御意」
「本番中にトイレに行きたくなるといけないからさ」
 アンドロイドは微笑むようにうなずく。
 ニトロは立ち上がった。自分の言葉に刺激を受けたのか、尿意が騒いだのだ。
「だから今のうちに行っておくよ」
 豪華な楽屋であるが、備え付けのトイレは無い。すぐ近くに来客用の――それも重要な客のためのトイレがある。先刻から応接室で記者達を伴い製作会社会長と会談しているティディアもそろそろ戻ってくる頃合で、廊下で出くわす可能性もあるからと芍薬もマスターについていこうと足を踏み出しかける、が、そこでふと芍薬は思い直した。
 ティディアは『仕事』中は比較的安全だ。そして今は一応『仕事』中である。トイレの位置も遠くない。万が一何かあっても対応できる距離だし、それに、もし戻ってくるティディアと出くわした場合、王女の連れてきた記者達にマスターがA.I.の“お守り”がなければトイレにいけないと曲解される可能性の生じる方が怖い。ここは待つが得策だろう。
 外に出たニトロは、扉が閉まる直前に芍薬から投げかけられた案内に従ってトイレに向かった。場所柄人の少ないこの廊下には足音がやけに高く響く。ここより下のフロアには職員や職人、出演者やその関係者達が行き交っているはずだが、その残響すらも己の足音には勝てないでいる。
 用を足したニトロは白い大理石でできた洗面台で手を洗い、しばし、眼前の鏡を見つめた。鏡の中には撮影用のメイクをした少年がいる。芍薬が丁寧に塗ってくれたものでおかしなところは一つもないのだが、しかし、いつ見ても鏡で見るメイクをした自分の顔は自分のものとは思えない。これがカメラを通してみると自然に見えるのはいつになっても不思議なものだ――不思議なものだ、と思う程度には、この顔とノーメイクの己の顔には心理的な距離がある。
 鏡の中の少年は見慣れぬスーツを着ていた。『ステッピングストーン』のスポンサーの一社から提供されたものだった。“相方”は別のブランドから提供されたドレスを着る。二人で出演するシーンは業界人の集まるパーティーで、セリフや動作に対する明確な指示はないものの、とりあえず余裕を持って動くべきらしい。さながらその業界に確固とした座席を得た大物のごとく。そんな自分と、成功を夢見る『ステッピングストーン』のクライアントは言葉も交わさずすれ違うのだ。
「……」
 ニトロの目の前に、あの『情熱』が現れる。
 釈然としない気持ち、あるいは罪悪感。それを自分が感じてしまうのは、むしろ傲慢なことかもしれない。それでも、もしそう感じてしまう気持ちを自ら窒息させてしまえば、きっと自分はダメになってしまうと思えてならない。
「……」
 ――だが、とにかく、
(やるべき事はしっかりやらないとな)
 釈然としなかろうが罪悪感があろうが、でなければ初めから梃子でも動かずここに来るべきではなかったのだから。
 トイレから出て楽屋に戻りながら、ニトロはまたあの『情熱』を瞼に浮かべた。
 現況の心情は別として、それにしてもやけに印象に残る絵だった。好悪で言うならもっと明るい絵が好きなのだが、奇妙なまでに心に引っかかってくる。みぞおちに鉛を押し込んでくるようなパワーというか、画家が筆致に込めた情念が網膜を抜けて後頭部の骨の内側に爪を立ててくるとでもいうのか、そういったものがあの絵にはある。
(他のもどっかに飾られてるかな)
 芍薬は画家の名前を覚えているはずだから、調べてもらおう。美術館なりギャラリーなり、もし展示されている場所があるならいつか行ってみるのもいいだろう。ハラキリを誘ってみようか? 親友は興味を示すだろうか。いや、それとも独りでじっくり見る方がいいだろうか。
 瞼の裏に『情熱』を見ながら、そんなことを思いながら、ニトロは上の空で楽屋に戻ってきた。そして上の空のまま、歩調を緩めずドアを押し開けようと右手を伸ばす。
 ――不運とは、常にタイミングが良いものだ。
 その時、芍薬は楽屋に戻ってきたティディアが引き連れてきた、新聞、雑誌、テレビそれぞれの記者を紅茶でもてなしていた。警備アンドロイドとは思えぬ優雅な所作で紅茶を淹れるオリジナルA.I.に向けられる賞嘆は、そのままマスターへの名誉となるだろう。ならば決しておざなりには扱えない。
 そしてその時、一仕事を終えて楽屋に戻ってきたところに「お疲れ様」を言ってもらいたかった相手がなく、少しがっかりしていたティディアは彼がトイレに行ったと聞いて、それなら自分も次の仕事に備えようと考えていた。記者達は芍薬に任せておけばいい。
 そこで楽屋のドアを開けたのは、ヴィタである。記者の目のある中、執事然とした洗練された所作で恭しく、また素早くドアノブを回すや引き開ける。
 するとニトロの右手は、空を切った。
「!?」
 そこに在ると思っていた支えを掴み損ねたニトロはバランスを崩し、つんのめる。上の空であったことも災いし、彼は完璧なまでに意表を突かれてたたらを踏む。彼の手が掴めなかったドアノブは、たたらを踏んで迫る彼から逃げるようにさらに部屋の内側へとすっと滑り込んでいく。
「ア」
 と、事態を最も早く察したのは芍薬であった。しかし芍薬はちょうど紅茶のポットを手にしていて、しかも気づいたからといって何かができる猶予は既に失われていた。
「あ」
 と、ニトロは声を発することが出来ただろうか?
 右手が空を切り、転げそうになりながらハッと顔を振り上げた彼の目に飛び込んできたのは、眼前に佇むドレス姿の第一王位継承者だった。
 彼は見た。
 ティディアの顔が、きょとんとした表情からにんまりと歪んでいく瞬間を、まるでスローモーション、それよりも遅いコマ送りで見るように、彼は凝視した。
 彼はどうにかして足を踏ん張ろうとする。
 懸命に体制を整えようと試みる。
 しかしそれがさらに悪い事態を呼んでしまった。
 彼の努力に従いバランスを取るべく反射的な回避行動に基づいて振り回されたのは、彼の重心を最も崩している箇所――すなわち、胴体のずっと前方に突き出された右手だったのである。一方で、悪巧みに歪む微笑を完成させたティディアは何の躊躇もなく反射的な回避行動を押さえ込んでいた。そう、彼女は、そこに佇み続ける!
 芍薬の目に苦悩が満ちる。
 ニトロの脳裡に苦渋が満ちる。
 誰が悪いというわけではない。不運に唯一の原因はないものだ。それでも強いて原因を求めるのならば、それはきっと『情熱』のせいだろう。
――「ラッキーだったな」
 ニトロの耳に、そんなセリフがリフレインした。
 ラッキーだと?
(馬鹿な!)
 ティディアの左胸がニトロの右手を受け止める。
 強張る五指が驚くほど柔らかな乳房に埋もれていく。
「ぁんッ」
 ティディアの小さな喘ぎ声が、楽屋の壁にやけに大きくこだました。

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