望遠の記憶

(第二部『第 [2] 編』と同時期、ティディアが企んでいる頃)

「主様。ヨカッタラ、聞イテモイイカナ」
 夜も更けた頃、人に旅心たびごころを誘う10分アニメを見つめたまま、ニトロは応じた。
「何を?」
 彼の目を慰めるのは、飛行車スカイカーの飛び交う近代都市を背景にして草原を渡る小古典時代のクラシカルな馬車。ふさふさと長毛の馬がのんびりと歩を進め、傾き出した日にスポークを照り映えさせて車輪が回る。手綱を握った御者の後ろには少女が二人、幌を下げたシートで何を語ることもなく穏やかに座っている。その地の伝統楽器に奏でられるエンディング曲が、ゆったりと流れていた。
「オ祖父様、オ祖母様ノコト」
「ああ、思い出話? それなら別にそんなに改まらなくてもいいのに」
「ソレモ聞キタイケドネ、先ニ『家庭環境』ヲ聞キタイ。主様ノオリジナルA.I.トシテ、知ッテオキタインダ」
 ニトロは小ぶりなマグカップを傾け、カフェインレスのカフェオレを一口飲んだ。
「それなら記録を見れば、それで良くない?」
書類ログニハ記憶メモリーガナイヨ。
 デモ話シニクイ事カモシレナイカラ、聞ケナクテモ、ソレデイイヨ」
 ニトロはもう一口カフェオレを飲んだ。アニメの始まる前に自分で作ったものだ。もう温い。ほとんど台詞もなく、登場人物は引き立て役にすぎず、旅情そのものをアニメーションにしようという番組は、今夜もまた沁みる余韻を残してそっと終わった。
「消して」
 次いでスピーカーから突如として流れ出した陽気な音楽が画面に表れたスポーツコーナーの題字と共にぶつりと消える。壁掛けのテレビモニターはそのまま壁の色と同化して、部屋には夜の静けさが満ちていく。
 ニトロは言った。
「もう悲しみは覚えてない。悲しみを味わっていたかも定かじゃない」
 ――自分のように、この年齢で父方母方双方の祖父母が亡くなっているのは医療の発達した現在においては比較的珍しい。
「思い返せば寂しさはあるけど、話せないことじゃないよ」
 テレビモニターに三頭身にデフォルメされた芍薬の肖像シェイプが現れる。肩出しのトップスを着た芍薬はちょこんと正座していた。キュロットパンツからすらりと抜き出た脚に手を置き、しゃんと背筋を伸ばしている。
「えーっと、てことは、両祖父母についての情報を俺の知る範囲で話せばいいのかな?」
「御意。モチロン思イ出話ガ混ジッテモ構ワナイヨ、ソレモムシロ大歓迎サ」
「了解」
 ニトロはカフェオレを飲み干し、軽くもう一杯作ろうとキッチンに向かった。スプーンでインスタントの粉をはかりながら――その様子を芍薬はじっと観察している――彼は言う。
「父方のバアちゃんは、俺の生まれる前にもう亡くなってた。病弱な人だったらしい。元々遺伝的なものもあったみたいだけど、それはちゃんと治療されていて、なのに病弱であり続けた原因は心理的なものだったらしいよ。精神病とかそういうのではなかったそうだけど……」
 そこで言葉を止め、自らの胸の中を覗き込むようにして続ける。
「ジイちゃんが『バアちゃんは意志が強すぎた』って言ってたのは印象的だったな」
 ぼんやりと胸の中から芍薬に目を戻し、
「……その意味は、実は俺には今もまだ理解できていないんだけどね」
 カフェオレを手に席に戻ったニトロには自嘲半分、当惑半分の笑みが浮かんでいた。彼はそれを一つの吐息で振り払い、
「それで、ジイちゃんとバアちゃんは晩婚で、父さんが生まれるのも遅かった。バアちゃんはありったけの愛情を父さんに注いで、父さんが高校生の時に亡くなった。そういう年齢でもないのに、ほとんど老衰に近かったそうだよ」
 ニトロは温かなカフェオレを飲み、さらに続ける。
「ジイちゃんが亡くなったのは俺が小学校に入った時だったかな。ジイちゃんは自然に老衰だった……ああ、ジイちゃんとバアちゃんは30くらい離れてたかな。先に亡くなったのがずっと年下のバアちゃんだったから、ジイちゃんは墓参りのたびになんでかなあってぼやいてた」
 芍薬は時折うなずきながら黙って聞いている。
「ジイちゃんは、俺のことを『手土産』だってよく言ってたよ。バアちゃんはあんなに父さんを可愛がってたから、おまえのことも喜んでいるぞ。ほら、そのおいしそうな丸いほっぺに触らせてくれ。バアちゃんにどんなに可愛かったか伝えなきゃなあ――小学低学年くらいまで、俺はちょっところころしていてね」
 そう言って彼は頬を緩めた。
 芍薬は写真を見てその頃のマスターの姿を知っている。だが、ただ知っているだけだった。記録媒体に情報として残る過去のその姿は、芍薬にとってはいわば断崖の向こうに見える精巧な彫像に過ぎない。それが今、芍薬は、現在のマスターの内に、像に刻まれた小さなマスターからの余熱を確かに認めた。すると固まって動かない過去の記録データがふいに脈打ち、そしてこれからも脈打ち続けていくように芍薬には感じられた。マスターは言う。その声が、声変わり前の音声記録データと共振する。
「母方の祖父母は若くに結婚したけれど、母さんが産まれたのは遅かった。二人とも医者で、ずっと仕事に打ち込んでいたそうだし、その頃は結婚してはいたけれど夫婦というより尊敬しあう同業のパートナーって感じだったらしいよ。それと、もしかしたら二人は子どもを作る気はなかったのかもしれない」
「何故ダイ?」
「母さんが産まれたのは、二人が50近くになってからなんだ」
「別ニ、珍シクハナインジャナイカナ」
「自然妊娠ならそこそこ珍しくなるだろ?」
「御意」
「二人はその頃には生き方を変えていたんだ」
「? ドウイウコトダイ?」
「その頃には二人は都会から山村に移って、医者もやめていた。――正確には簡単な診療や医療の相談に乗っていたりはしたんだけどね、大病院でばりばり働くのは止めていた。何かあったことは間違いないと思うよ。でも理由は解らない、母さんも聞いたことがないそうだけど、実際に二人は『最前線』から退いて、それどころか積極的に身から斥けたんだ。そして自然に……自然的にかな? そうやって生きることを求めた」
 芍薬は目をわずかに丸くした。その反応にニトロは続けようとしていた言葉を止めた。すると芍薬は躊躇いがちに、訊ねた。
「NiLS主義者ニナッタノカイ?」
 NiLS――ノン・インダストリアル・ライフ-サポート……古典的な内科・外科的手法は受け入れても、活性治療ヴァイタライジングや再生医療、そして生命維持装置を必要とする治療、何より、特に若返り施術等の人為的な長寿を促す医療を拒否して天為の寿命を全うしようという主義である。底流には医療技術の発展した現代において人間らしく生きるとはどういうことか、という倫理的哲学的論点を持つものの、あまりに肉体に操作を加えることは人間の肉をして工業化ならしめているのではないか――という点に発した『インダストリアル』という呼称にはやはり一種の敵意があり、一般にはそれへのカウンター的なドグマとして認識されている。その中で穏健な者はノンを冠し、あらゆる近代医療を拒絶する最も苛烈な者はアンチを戴く。NとAには同主義の中でも大きな隔たりがあるのだが、とはいえ両者が共通して最も忌み嫌うものは、肉体だけが若々しい老人達であった。
 ニトロは首を振った。
「多分、違うと思う。そういうのに似ていても、そういう主義とはまた違う生き方だったんだと思う。話に聞く限りじゃ、むしろそういう“主義的な生き方”からも離れたかったんじゃないかな。――二人は、自分達の生き方を自分達だけに適用していたよ。母さんは二人が誰かにそういう生き方を勧めるのを聞いたことはないし、若い人が整形外科医になるために村を出ようという時には親密に相談に乗ったし、近所のお婆さんが死にかけた時には最新の携帯型生命維持装置を自ら操作して助けもしていたって。何より祖父母は母さんに何も強制しなかった。けれど、自分達に関しては、貫いた」
 ニトロはカフェオレを飲む。そして芍薬の顔に納得を見て、うなずく。
「母さんの名前はね、移り住んだ地方の民話の『山神様に望まれた子』から取られているんだ。ちなみにその山村のある領の領都が、父さんの生まれ故郷。それが大学で出会った二人の話の種になって、結びつけたんだよ」
 芍薬はまた目を丸くし、その良縁に感嘆の吐息を漏らしながらうなずいた。
「ソレデ、ドンナ人達ダッタンダイ?」
「俺から見て?」
「御意」
「学者然として、お喋りで、母さんから見ても風変わりな人達だったらしいけど残念ながら覚えてない。二人ともはっきりと物心がつく前に――祖母が癌で先に亡くなって、祖父はその半年後に亡くなった。領で癌で亡くなった人は何十年ぶりとかいう話だったかな、そんなことを葬式の時に聞いた気がするような、後から聞いたんだったかな」
 曖昧につぶやいていたニトロは、ふと天を見た。
「ああ、でも、祖父の訃報に母さんが取り乱していたことはよく覚えてる。祖父は凍死だった。庭で、祖母が好きだったニワトコの下で半分雪に埋もれているところを見つかったんだ。祖母が生きてる間は二人で村の社交場によく出てきてたのに、祖母の死後は引きこもりがちだったから自殺かとも思われたらしい。だけど調べてみると凍死する前に脳出血を起こしていたことが判った。直接の死因は凍死でも、だからそれが本当の死因かな」
 ニトロは遠くを見つめて息をつく。段々鮮明になる記憶を眺め、
「母さんは、祖父の顔を見て微笑んだよ。祖父の死に顔は本当に穏やかで――痛みの痕跡は少しもなくて、むしろとても幸せそうだった。そういえば誰かが言ってたな、きっと悲しみに暮れる祖父を哀れんで神様が奥さんを迎えに遣わしてくれたんだろうって」
 芍薬は深く感じ入っていた。マスターの明るく朗らかな両親からは、そのような悲しみを経験してきたことは微塵も感じ取れない。この話題を持ち出したのは一緒に暮らし始めたばかりのマスターの感覚こころに触れるためでもあったが、考えてみれば当たり前のことながら、マスターのみならずポルカト家の息吹までをも感じられて芍薬のココロは震えていた。
 そしてその一方で、芍薬には非常に気にかかることがあった。
「主様ハ、ドウ思ウ?」
「ん?」
「死後ノ世ハアルト思ウカイ?」
 ニトロはすぐには答えなかった。その質問を投げかけてきたオリジナルA.I.を不思議そうに見つめて、一度目を落とし、また芍薬を見る。芍薬はニトロを見つめ続けている。
「わからない」
 彼は言った。
「わかるとも思えない。あると信じきることもできない。けれど、ジイちゃんが孫を見ることのなかったバアちゃんに孫の話を手土産にできて、祖母が悲しみと脳出血の苦しみから祖父を助けることができたなら……他にも例えば恩人にお礼を言う前に死なれた人とか、心配をかけ続けた大切な人の死後に安定を得た人が、お礼を、報告を、どうしても伝えたかったことを恩人や大切な人に届けることができるのなら、死後の世界はあって欲しいなって――そう思う」
「……ソウカイ」
 芍薬は、うなずいた。今はそれで十分だ。
 と、突としてニトロが笑った。
「ドウシタンダイ?」
「ちょっと思い出した。8歳の時、高熱を出したことがあるんだよ。そうしたら母さんも父さんも体温計の数字に慌てふためいてさ」
 彼はゆっくりとカフェオレを飲む。先を聞きたい芍薬が焦れてポニーテールを揺らす。

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