「ひとまずこれで隠しとけ」
「やーん、紳士♪」
「うっさい!」
 しかし少女達が歓声を上げる。少年達は……嫉妬の目も多い。その少年達にティディアは媚態を振りまき、
「残念だけどここまで。今夜のおかずはあれで満ぞァ痛!」
 即座にバカ姫の頭を引っ叩き、そしてニトロはドアの傍らに鋭い目を送る。
「ヴィタさん! シャツを一枚大急ぎ!」
 王女の執事はいつの間にか美術室の中に入ってきていた。彼女は満足そうにうなずき、するりと生徒達の間をすり抜け外へ出て行く。
 それが区切りとなって場の空気が変化した。
 高貴な女性への敬愛と好奇と興味に満ちた視線の中、ティディアはおよそ貴婦人らしくもなくのん気に美術室をぐるりと見回し、
「それは?」
「ああ」
 ニトロはうなずき、カルテジアを見た。彼女は直立不動のダレイの隣で瞠目している。
「彼女の作品」
「へえ」
 ティディアは机の上を歩き、床に飛び降りる。軽やかに。着地の音も柔らかに。
みな、楽になさい」
 同じ高さに下りてきた姫君を迎え、石膏像のように身を硬くしている美術部員達にティディアが言うと、その声の強制力は即座に作用し、二枚貝のように閉められていた唇から吐息が漏れ、血を失っていたその胸に温かな憧れが溢れ、枯渇していた皆の瞳は永遠の名画を見るかのごとくキラキラと輝き出した。
 その頃、駐車場で待ちぼうけを食らっていた校長がやっと廊下に現れていた。彼は声を張り上げて美術室前に集う生徒達を追い払おうとしている。“失態”を挽回しようと躍起になっているようだが、生徒達の己へ向ける奇妙な視線に困惑してもいるらしく、どうもいまいち威厳を表せていない。顔を真っ赤にして叱責し、怒鳴る。が全く効果がない。彼がとうとう『停学』さらには『退学』というフレーズまで口にし出したところで、やっと野次馬の群はばらけ出した。散り散りに、とはいえ逃げ去ることはせず、自分達を追い立てる男の隙を伺いながら周囲に留まり続け、同時に誰よりもその人のお側近くに寄りたいと仲間内でも好位を争い続けている。
 また、校長が現れたとほぼ同時、美術室後方のドアをハラキリが閉め切っていた。前方のドアもいつの間にか閉められていて、どうやらロックもされている。王女とその『恋人』のショーが終わった今、そうしていなければ廊下の生徒達が美術室に雪崩れ込んできていただろう。知らぬ間に騒乱を防いでいただけでなく、そのまま番をするようにドアの傍に佇み、そうして飄々と事の成り行きを眺めている親友に一瞥を送り、ニトロも床に下りた。後で机を拭いておかないと、と思いながら自分のブレザーを両手で胸に当てているティディアに並び、彼女が目で促してきたので仕方なく応える。
「タイトルは『環悩』」
 ティディアは白い海の上、黒い皿の中の冷たい灰をしばし見つめる。
 その傍らでニトロはカルテジアへ視線を送った。すると未だ直立不動のダレイの隣で瞠目したままカルテジアはうなずき、
「セケル」
 彼女のオリジナルA.I.への呼びかけは、およそ祈りであった。
 映像が再生される。
 その時、ニトロは、そして誰よりもカルテジアはティディアの奇妙な目つきに気がついた。その映像は作られたばかりであり、王女にとっては間違いなく初めて観るものであるはずなのに、どういうわけかそこには単純な確認作業をしているような様子がある。何の気もないという風ではないのに、さして興味が深そうでもない。ニトロは胸が痛くなりそうだった。カルテジアは万力で胸が潰されるようだった。
 全てを見終えると、王女は、微笑を以て少女を見つめた。
「貴女はちょっと痩せ過ぎね。体を大事になさい」
 姫君の柔らかな声は、少女に鋭く突き刺さった。よもや労りの言葉をかけられるとは思ってもみなかった。胸の痛みにその驚きが加わり、彼女は返答を言葉にできず、ただ深々と頭を垂れる。その細い指は倒れないようにダレイに支えを求めていた。
 そして頭を上げた時、少女は大きく息を飲んだ。
 眼前に、長い睫毛に飾られた美しい宝石があった。
 王女がぐっと身を寄せて自分を覗き込んできていた。
 間近で二人の瞳が重なる。
 少女は甘美な熱が感じられるほど近づけられたその尊顔に恍惚となる。
 その黒紫色の瞳に、嗚呼、吸い込まれてしまいそうだ。
 そこには愛撫するような眼差しがあった。言葉よりも雄弁に誉れを与えてくれる視線。少女の膝は震え、王女の双眸はさらに細められる。妖美な笑みを浮かべた王女は『恋人』の横に身を戻し、そこで、囁くように言った。
「ハステス、『海胎うなばら』の一篇」
 その瞬間、カルテジアは叫んだ。
「その通りです!」
 胸の痛みが歓喜によって爆発し、そのあまりの衝撃に彼女の全身が震えた。髪や産毛が一斉に逆立ち、灰褐色の瞳に火花が散る。人生最大のショックが肉体を駆け抜けた直後、彼女はまるで水中で息のできる場所を探すかのようにニトロに手を伸ばし、
「ほら――ほら! ティディア様はこんなにも芸術を解されている!」
 ニトロはその手を受け止めながら、ティディアを見ていた。その無言の問いかけに王女はちょっと首を傾げてみせ、
「本当は古語で、ほんの一部だけだけど――

我が愛も 我が悩みも
やがては塵に
塵はまた塵に
塵はまた愛に
そしてまた我は悩めり」

 朗々とした、歌にも似た暗誦だった。
 カルテジアの眼から滴が落ちた。
 ダレイも痺れたように立ち竦んでいた。
 二人だけではない、美術部の関係者は皆魂を刺激されたらしい。顧問などは手を痙攣させている。それほどにティディアの声は優雅であり、また優艶なる華があった。
「古語の方が韻律も素晴らしいんだけど、ま、そういう意味。ちなみにハステスは前史時代の詩人で、化学と哲学でも功績を残しているわ」
 ニトロはカルテジアの震える手を彼女に返してやり、それから頭を掻いた。
「本当に、お前は何なんだろうな」
「んー、お姫様だけど?」
「いやそういうこっちゃなくてだな」
 美術室の隅ではハラキリが笑っている。その小さな笑い声に引かれて目を向ければ、またもいつの間にか、ヴィタが戻っていた。
「ほら、着替えて来い。そしてそれを返せ」
「ニトロがめちゃめちゃにしたくせにー」
「悪かった」
 ティディアは悪戯が成功した子どものように目を丸くすると、うなずいて踵を返した。校長の怒声が轟き、それに負けじと野次馬の波頭が押し寄せつつある。
「旦那様が怒るから男どもは前を向いてなさい。あ、ニトロはこっちを見ていてね」
「見てたまるか「いけずー」
 そして誰が旦那様だ――と、ニトロが続けてそう言おうとした寸前、ティディアにそれを潰されてしまった。改めて言おうにもタイミングを完全に逸してしまい、しかも彼女の言葉に反応した女子が騒いでいるので今から言っても誰も聞きはしないだろう。
 渋面のニトロの元へ、ティディアとすれ違ってハラキリが歩いてくる。ダレイと二年の男子は既に前を向いていた。ヴィタの操作で教室のシステムが働き、窓の全てが一瞬にして不透明となる。あからさまに落胆の吐息が廊下に響き渡った。それから、ひそひそとした非難の声。
 ニトロはティディアがヴィタから新しいシャツを受け取っているのを見届けてから、泣きじゃくっているカルテジアに聞いてみた。
「折角だから、モデルに描いてみる? 残りの生涯を失う必要はないと思うけど」
 すると彼女は目を見開いて、言った。
「違うわ、ニトロ。あれはそういう意味で言ったんじゃないの」
「? それじゃあ?」
「私には、まだ『ティディア様』を描けるだけの力はないの。だから」
「つまり悪魔との取引的な意味合いですか」
 ハラキリが話に入ってくる。ニトロは、ああ、と理解した。カルテジアはハンカチに顔を埋め、何度もうなずいている。
「それじゃ、悪いこと言ったね」
 彼女は顔を埋めたまま首を振る。
「カルテジアさん……えーっと、こう言うのがいいことなのか判らないけど……良かったね」
 するとカルテジアが顔を上げた。
「一緒に作品を作った仲じゃない。私はクオリアよ、ニトロ」
 そう言えば、つい今しがた『ニトロ』と名で呼ばれていたことに彼は気づいた。
「ハラキリも、良かったら」
 苦笑にも似た顔で、ハラキリはうなずく。
「なぁに? 青春しているの?」
 と、ニトロの耳朶を甘い吐息が急襲した。クオリア・カルテジアがびっくりしている。ニトロはため息をつき、言葉と同時に胸に回ってきていたティディアの腕からさらりと逃れて振り返り、そこで頬を痙攣させた。目の前に立つバカ姫は確かに着替えを済ませてきたものの、が、しかし、
「何でブレザーまで着てるんだよ、返せ」
「やーよー。折角貸してくれたんだから、しばらく返さない」
「どういう理屈だ」
「いいじゃない、ここの生徒気分を味わわせてよ」
 襟を掴もうとしたニトロの手をすり抜けてティディアは言う。再び白いTシャツを着て、その上にサイズの合わない男物の制服を着る王女には妙な色気がある。美術部員唯一の男子が頬を赤らめていた。ブレザーを是が非でも取り返そうと思っていたニトロはその純情そうな二年生の様子に何故だか気勢を削がれて、動きを止めた。――それに、下手にこのバカと戯れ合えばすぐ傍にある『環悩』を壊してしまうかもしれない。

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