仰天したカルテジアがそちらへと顔を向ける。
 歓声は美術室の後ろのドア付近を源として、既に全体に波及していた。生徒達は皆廊下の外を見ている。教室棟と特別教室棟に挟まれた中庭の、その中空の一点を。
 絹を引き裂く悲鳴じみた狂喜。
 雄叫びにも似た驚嘆。
 一瞬にして事態を理解したニトロは頭を抱えていた。
 ああ、あの阿呆、よもや駐車場を完全無視してくるとは! しかもそこは飛行禁止区域じゃねぇか。どうせお気軽に王権を行使したんだろうが、ほぅらやっぱり芍薬からの連絡だ。芍薬は「もう手遅れだろうけど」と不機嫌だ。俺も不機嫌だ。いや、そもそも俺が甘かった。あいつが駐車場に着くまではここで見届け、そして着いたらすぐにこちらから出迎え、そうしてこの美術室を安全に保とう――そう思っていたのに……いいや、本気で安全を保つためなら見届けるのを諦め、校長と肩を並べてずっと駐車場で待っているべきだったのだ。
 疑惑と確認が飛び交い、興奮が煮え滾り、生徒達はそろそろパニックを引き起こしそうになりながらも不思議なことに道を作り出している。
 まさしくその人の行く手を遮ってはならないと、人によっては涙を落としながら身を退いている。
 美術室後方のドアから、ホバリングする飛行車スカイカーに向けて透明なカーペットが敷かれたかのように道が開いた。
 誰かの手によって廊下の窓が開けられる。
 何の合図がなくとも皆が一斉に叫んだ。
「「ティディア様!」」
 その瞬間、大型のスカイカーの後部ドアがスライドし、車内からさながらアクション映画のごとく人影が飛び出してきた! 人影は窓から廊下に飛び込むと派手な前回り受身を美しく決め、さらに勢いもそのままに美術室に転がり込んでくる。転がり込んできて、ドアの前に寄せられていた机の太い脚に派手に激突してぐえっと悲鳴を上げる。
 カルテジアがあっと叫んだ。ダレイは瞠目し、後輩三人は身を硬直させ、顧問は反射的に膝を折る。このくにの王女は、しかしへこたれない。己の激突した机に飛び乗り、叫ぶ!
「ヌードなモデルのニトロは何処いずこ!」
 そのニトロは腕を組み、一段高い場所で歓声を浴びるバカを睨んでいた。彼女は白いTシャツにジャージという出で立ちで、まさにこれから絵の具で汚れることを想定した服装である。
 美術室を見下ろす黒紫の瞳が、それを見上げる黒い瞳とぶつかった。
 すると、やんごとなき王女様は愕然とし、悲しげに顔を曇らせる。
「何故!?」
 その声は少年少女の大きな歓声の中でも明瞭に響いた。
「何故、局部を露出していないの!?」
「サイッテーな物言いだな、おい」
 ニトロの声は怒気に満ちていた。その迫力が、周囲の声の一切を止めた。だがティディアだけは止まらない。
「嗚呼! ということはもう終わってしまったのね! 急いで駆けつけたのに! 何ということ、嗚呼、何という悲劇!」
 あからさまに演技がかっているというのに、その声には真実深い悲嘆がある。人の心を揺さぶる感情がある。感受性が強いのだろう、生徒の中にティディアと同じ顔色になる者が幾人か見えた。ニトロは、カルテジアは一体どんな顔をしているだろうと思いながら、言う。
「終わるも何も、初めからヌードモデルなんぞしてねえ」
「だって掲示板に書いてあったじゃない! それとも何? 誰かが私を騙したっていうの!?」
 ギャラリーの一部にちょっとした動揺があった。が、ニトロはそれは無視して言った。
「騙された振りしてギャーギャー喚くな、鬱陶しい」
 そのセリフがギャラリーにまた動揺をもたらした。彼の声は、その態度は、実に刺々しい。皆はいくらなんでもティディア姫がそれに怒りを発するのではと危惧したのだ。しかし姫君は頬をむくれさせ、むしろ可愛らしく唇を尖らせる。
「もー、いけずー」
 次いで彼女は明るく言った。
「それなら今から始めましょうよ、ヌードデッサン」
「断る」
「あ、別にニトロがヌードじゃなくってもいいのよ? ニトロが描いてくれればそれはそれで」
「は?」
 嫌な予感がした。ニトロは反射的に足を踏み出した。ティディアは馬鹿に明るく言う!
「若い才能のためなら私は一肌脱ぐのにやぶさかではないもの!」
 やはり!
 ティディアの腕が交差し、両の手がシャツの裾に掛かる。
 ニトロは机に駆け上った。や・は・り!!
「芸術万歳!」
 がばっと王女はシャツを捲り上げた。谷間と横乳をさらけ出す扇情的なブラジャーが露となった瞬間、少女達は悲鳴に近い声を長く上げ、少年達は短くおかしな声を発した。
「やめい!」
 ティディアが完全に脱いでしまう前にニトロはシャツの裾を掴むことに成功した。そしてそれを思い切り引き下げる。今にもシャツを脱ごうとしていた王女の顔がしゅぽんと現れ出た。
「何がしたいんだお前は!」
 ニトロはもう片方の手でなおも脱衣を試みる王女の片腕を押さえ、ごつんと彼女の額に額をぶつけて叫ぶ。
「もうひとボケ終わっただろう!? しかも一発ネタだ、さらに続けてグダッてどうする!」
「仕方ないでしょ!」
 先ほどまで僅かにも怒りを見せていなかったティディアが激昂し、ニトロの額に額をぶつけ返しながら怒号する。
「ニトロのツッコミが冷たすぎて笑えなかったんだから!」
「ありゃツッコミじゃねぇ! 思った通りの感想だ!」
「ひど!」
「酷いのはお前の無駄な行動力だろうが! 何してんだ直接飛び込んできやがって、校長スルーされて絶対涙目だぞ!」
「いいのよ彼はドMだから! いっそご褒美になるんじゃない!?」
「おいぉおい! いきなり生徒の前で校長の性癖バラすなド阿呆!」
「バラすも何も周知の事実じゃない!」
「どこの周知だ!」
「銀河!」
「大きく出たなぁ!」
 ティディアのシャツを握ったまま――観客オーディエンスから笑い声が聞こえる――ニトロはいやいやと頭を振る。
「そうか、お前は『映画』のことを言ってるのか」
「そう! 校長先生ったら女教師の鞭に大興奮!」
あれは! フィクションだ!」
「当たり役ってあると思わない?」
「当たり『役』だろうが!」
 事実、校長はドMであり、生徒間でもそれは“公式”になっている。だがニトロは懸命に否定する。それを第一王位継承者公認にまでしてしまうのは彼があまりに哀れである。
「何をお前は“あの女優さんはあんな悪い役をしているから悪人に違いない”レベルの話で人の評判落とそうとしてんだ!」
「だってそうでなくってあんな迫真の演技ができると思う!?」
迫真の演技でお前を殺した俺は人を殺しているのかな!?」
「私は貴方に心臓を射抜かれた!」
「意味が違う! いやそれも違うけど違う!」
「違う違うって何が違うのよ!」
「ああもうとにかく! 校長先生は大興奮な振りをしていただけだ! 事実と違う!」
「そんな! それじゃあ校長先生も私を騙したっていうの!?」
「だから騙された振りしてギャーギャー喚くなっつってんだろうが!」
「振りなんかじゃない! 信じ込もうとしているの!」
「なお悪いわ! 完ッ全に故意犯じゃねぇか!」
「ところでニトロ、あんまり引っ張るものだからシャツが伸び切っちゃって襟も伸び切っちゃって、ブラも丸見えだと思うんだけれどそれも故意犯?」
「――……過失」
「エッチ」
「……」
 ニトロは歯噛んだ。確かにティディアのブラジャーはニトロに丸見えである。下にいる連中にも見えているだろう。ティディアは今更恥ずかしそうにだらんとした襟をそっと胸元に引き寄せようとする。今や笑い顔に満ちた生徒達の中から変な声が上がる。からかいのような、非難のような……ニトロは顔を真っ赤にしてティディアのシャツから手を離すとブレザーを脱いだ。

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